春秋戦国時代

宋の殤公は国を困難な状況に陥らせた

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宮下悠史

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名前宋の殤公
姓・諱子与夷
生年不明
在位紀元前720年ー紀元前710年
一族父:宣公
コメント10年に11回戦争を行ったとされる

宋の殤公は宋の宣公の太子ではありましたが、後継者になったのは叔父の宋の穆公でした。

それでも、宋の穆公が後継者に指名した事で、宋の君主となっています。

宋の穆公の子の公子馮(宋の荘公)は、鄭で過ごす事になります。

宋の殤公は公子馮の事が不安だったのか、衛の州吁の誘いもあり鄭を攻撃しました。

鄭の荘公と宋の殤公は報復戦争を行いますが、斉の僖公の働きかけもあり、斉や鄭とも講和する事になります。

しかし、宋の殤公は周の桓王に朝見しない事を咎められたりもしており、鄭の攻撃を受け苦しい立場となりました。

宋の殤公は最後は華父督の陰謀もあり最後を迎える事になります。

国を困難に陥らせた君主だと言えるでしょう。

宋の殤公の即位

与夷(宋の殤公)は父親の宋の宣公の太子でしたが、亡くなる直前に弟を後継者に指名ました。

これにより、与夷は宋の君主になれず、叔父の宋の穆公が即位する事になります。

宋の宣公が亡くなる直前に、なぜ弟の宋の穆公を後継者に選んだかの理由は不明です。

しかし、宋の穆公は死を悟った時に、自らの子の公子馮ではなく、兄の子の与夷を即位させました。

宋の穆公は宋の宣公の事を気に掛けており、孔父嘉が公子馮を推薦しても、穆公の心は固く与夷を即位させたわけです。

さらに、与夷に政治をやりやすくさせる為か、公子馮を鄭に出しました。

これにより与夷は、宋の殤公として即位する事になります。

鄭を攻める

紀元前719年に、衛の桓公は弟の州吁に襲撃され世を去りました。

州吁は他国を攻撃し国を纏めようと考えており、宋の州吁に次の様に呼びかけました。

※史記 宋微子世家より

州吁「公子馮は鄭におり必ず乱を起こします。

衛と共に鄭を討ってはどうでしょうか」

州吁は宋の殤公に、公子馮を理由に鄭を討つ様に誘いました。

宋の殤公は州吁の誘いに応じており、先君である宋の穆公の子の公子馮を怖れていたのでしょう。

それと同時に、宋の穆公は宋の殤公を後継者に指名したわけですが「公子馮は納得していないのではないか。隙を見せれば反撃するかも知れない」と考えたのではないでしょうか。

宋の殤公としてみれば、自らの位を守る為にも公子馮を、消せるなら消してしまいたいと考えていたのかも知れません

しかし、この宋の殤公の行動こそが不幸の始まりだったと言えるでしょう。

衛、宋、陳、蔡の連合軍は新鄭の東門を、五日間攻撃し撤退しました。

この後に、再び連合軍は鄭を攻める事になり、宋の殤公が魯の隠公に共に鄭を攻める様にと要請しますが、魯の隠公は衆仲の言葉もあり動かなかったわけです。

ただし、宋の殤公の呼びかけに、魯の羽父は応じて、主君の裁可なしに出兵しました。

連合軍は鄭の歩兵を破った記述もありますが、間もなく衛の州吁が石厚の策謀により命を落とす事になります。

宋鄭戦争

紀元前718年に鄭の荘公は鄭を攻撃し、前年の新鄭の東門を攻めた事への報復を行いました。

この時に、宋の殤公は南燕と共に、鄭を攻撃した話が春秋左氏伝にあります。

尚、春秋左氏伝には鄭の宋への報復の時に、宋は魯に救援を請いますが、魯の隠公を怒らせて援軍が取り消された話があります。

同年に宋が鄭を攻撃し、長葛を包囲した話もあり、翌年には占拠しました。

宿の盟

春秋左氏伝によると、紀元前716年に宿の盟があり、宋と鄭が講和しました。

この盟約には魯の隠公も関わっていた様であり、魯が宋の為に邾を咎める為に出兵した話があります。

魯の隠公が宋の殤公と鄭の荘伯の仲介をしたのでしょう。

斉の働きかけ

紀元前715年に斉の僖公が宋の殤公と衛の宣公を仲介しました。

これにより宋の殤公と衛の宣公が会見を行う事になります。

非公式ではありますが、宋の殤公と衛の宣公が犬丘で会見を行いました。

斉の僖公の働きかけにより、斉の僖公を中心とする斉、鄭、宋、衛の同盟が出来上がったわけです。

この時期を見る限りでは、大国である斉、鄭、宋、衛が盟約した事で世の中は平和に向かったとも言えます。

諸侯の攻撃を受ける

斉を中心とする同盟が成立したわけですが、紀元前714年に鄭の荘公が宋の殤公が朝見を怠っているとし、王命により咎めたとあります。

この時の周王は周の桓公であり、鄭の荘公は卿士の立場を利用し、宋の殤公を非難したと言えます。

宋の殤公と魯の隠公は過去の一件で、仲違いしており助け合う事はしませんでした。

こうした中で鄭の荘公は宋の殤公に「宋を攻める」と通告してきたわけです。

王命を奉じて鄭の荘公は宋を攻撃しますが、宋の殤公は衛や蔡と共に戦いますが、足並みがそろわず敗れました。

この時期の史記では「諸侯はしばしば宋に侵攻した」とあり、宋が苦しい状態だった事が分かります。

宋の殤公の最後

宋の華父督は孔父嘉の妻の美貌に驚き、我がものにしたいと考えました。

この頃の宋は戦乱に苦しんでおり、これを利用し華父督は「宋の殤公が即位し10年で11回も戦いを引き起こしたのは、司馬の孔父嘉のせいだ」と喧伝したわけです。

華父督は孔父嘉を殺害し妻を奪いますが、これに怒ったのが宋の殤公です。

しかし、宋の殤公は先手を討たれたのか、華父督により討たれました。

華父督は鄭にいた公子馮を即位させ、公子馮は宋の荘公となります。

史記に宋の殤公は、その10年で亡くなった事になっており、紀元前710年に亡くなった事になるのでしょう。

先代:穆公殤公次代:荘公

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