
| 名前 | 衆仲 |
| 生没年 | 不明 |
| 国 | 魯 |
| コメント | 魯の隠公に仕えた大夫 |
衆仲は春秋左氏伝に登場する魯の大夫です。
魯の隠公の4年(紀元前719年)に記載があります。
当時は庶子の州吁が衛の桓公を誅して君主となり、宋などの協力を得て鄭を攻撃するなどしていました。
こうした状況の中で魯の隠公が衆仲に「州吁は上手くいくのか」と問いますが、衆仲は「乱で国を纏めようとしても上手くいかない」と述べ、失敗を予見しています。
衆仲の予想は的中し、州吁は石碏と陳の桓公により最後を迎えました。
春秋左氏伝には僅かしか登場しませんが、衆仲は魯の賢大夫だと言えそうです。
衆仲と予見
衛の州吁は紀元前719年に、衛の桓公を誅し、宋の殤公の協力を得て衛、宋、陳、蔡で鄭を攻めるなど活発に活動していました。
こうした状況を見て、魯の隠公は大夫の衆仲に「衛の州吁は国を安定させる事が出来るだろうか」と問う事になります。
これに対し、衆仲は次の様に応えました。
※春秋左氏伝より
衆仲「私は徳により民を安定させるとは聞いていますが、戦いを利用するとは聞いた事がありません。
戦を利用しようとすれば、糸を整えようとしても、余計にこんがらがってしまうものです。
州吁は武を頼みとし、民には平気で残虐な事をします。
武を頼みとすれば人望を失い、残忍な事を行えば人が離れます。
州吁はとても国を纏める事は出来ないでしょう。
戦は火の様なものであり、上手くやらないと自らが火傷してしまうものです。
州吁は衛の桓公を誅しただけではなく、民に対しては残忍な行いをしています。
徳を高めるどころか、戦争を行って国を纏めようとしては、自らが禍すら逃れられないでしょう」
衆仲は州吁が上手くいかないと予言したと言えるでしょう。
衆仲の予想が的中
州吁は再び鄭に侵攻しようと考えますが、この時に宋の殤公は魯の隠公にも出兵を依頼しました。
しかし、魯の隠公は宋の殤公の要請を断っており、衆仲の言葉を考えて断ったのでしょう。
ただし、魯の羽父は魯の隠公の意向に反して、勝手に出兵しています。
州吁の方では鄭の軍を破り戦果を挙げていますが、国を安定させるには程遠い状態であり、政権は1年も持たず石碏と陳の桓公の策謀により命を落としました。
衆仲の予言が的中したと言えるでしょう。
これ以降に、衆仲に関する記録がなく、どの様な最後を迎えたかなどは不明です。