名前 | 鄭の武公 |
本名 | 姫掘突 |
生没年 | 生年不明ー紀元前744年 |
勢力 | 鄭 |
一族 | 父:鄭の桓公 子:鄭の荘公、叔段 正室:武姜 |
コメント | 周の平王に臣従した |
鄭の武公は史記や資治通鑑などに名前があり、鄭を存続させた君主でもあります。
史記では周の幽王が殺害された時に、父親の鄭の桓公も一緒に亡くなった事が記録されています。
しかし、韓非子では鄭の桓公が鄶や東虢を滅ぼした話があり、近年の研究では鄭の桓公は周の幽王に殉じたわけではないとも考えられています。
鄭の武公は鄭の桓公の政策を反転させ申侯の娘を娶るなどし、周の平王を立てるのに協力しました。
鄭は桓公が土台を作り鄭の武公は権力を安定させた君主だとも言えるでしょう。
鄭の方向転換
鄭の武公の父親である鄭の桓公は周の宣王の子とも周の幽王の子ともされており、周王になる資格があったとも考えられています。
周の幽王の死後に成周(洛陽)の軍隊を使って鄶や東虢を滅ぼし鄭は一大勢力となりました。
この時に、西虢の虢公翰が周の携王を擁立し、さらに申には周の平王がおり、三者鼎立の様相となります。
しかし、鄭の桓公は紀元前760年頃までには亡くなり、鄭の武公が後継者となります。
史記には鄭の武公の10年に申から武姜を娶り夫人としたとあります。
史記の年表で考えれば、これが760年の事となり、鄭は自立の道を棄て周の平王を擁立したグループに移った出来事だったともされています。
鄭が自立の道を捨てた経緯に関してはよく分かっていません。
それでも、鄭は諸侯であり、それでいて東周の卿士でもあるとする道を選択した様にも見えます。
普通に考えれば周の平王を支持するグループに入る時に、申侯の娘である武姜を娶ったとするのが自然なはずです。
鄭が周の平王を支持した理由ですが、晋の文侯が周の平王を支持し、鄭としても独立性を保つのが難しくなり、周の平王の傘下に入ったとも感じています。
尚、晋と鄭の関係も良好だったようで、晋は鄭の領地を超えて蔡と共に出兵した話しがあります。
晋の新鄭を超えての出兵は鄭と晋の仲が良好で無ければ出来る事ではないでしょう。
内部紛争
これで周の二王朝並立時代は終焉を迎えますが、周の平王の元で主導権争いが起きたと考えられています。
周の平王も携王が亡くなり、すんなりと洛陽に入れたわけではありません。
周の平王の傘下には申、呂、繒、許、鄭、晋などの勢力がいましたが、ここで力を持ったのは申侯、鄭の武公、晋の文侯だった事でしょう
しかし、晋の文侯は746年に亡くなり晋は本家と分家の間で長い抗争に入り、周王室に介入出来る様な状態ではなくなりました。
これにより周の内部での権力争いは鄭と申に限られたわけです。
尚、鄭の武公の逸話が韓非子にあり胡を討つ時に策略を使い関其思を殺害してから、油断させて胡を討った話があります。
鄭の武公の最後
鄭の武公の太子は武姜が最初に生んだ寤生でしたが、難産だった事もあり、武姜は寤生を可愛がりませんでした。
後に武姜は叔段を生みますが、こちらは安産であり、武姜は可愛がる事になります。
紀元前744年に鄭の武公は病に倒れ、武姜は叔段を後継者にする様に要請しました。
しかし、鄭の武公は太子を変える事を許さなかったわけです。
鄭の武公は周の幽王が褒姒と戯れ後継者を伯服に代えた事で、西周王朝が混乱し崩壊した様子をみて、太子を代える愚かさを反面教師としていたのでしょう。
鄭の武公は744年に亡くなりますが、鄭の武公が後継者に指名した寤生こそが、鄭の荘公であり、春秋五覇の一人に数えられる事もあります。
鄭の荘公が鄭の全盛期を築いた事を考えれば、鄭の武公は先見の明があったと言えるでしょう。
先代:桓公 | 鄭の武公 | 次代:荘公 |