
唐叔虞は周の武王の子で、周の成王の弟にあたる人物です。
珍しい禾(いね)を手に入れ、最終的に周公旦に贈られた話もあります。
唐叔虞は周の成王と遊びで封じられましたが、これを聞いていた太史の尹佚が本当に封じる様に進言した事で唐に封じられています。
これが晋の始まりですが、初代の唐叔虞の時代は国名が「唐」だったわけです。
晋の始まりが「唐」と言うのも変に感じるかも知れませんが、晋の国名が使われる様になったのは、二代目の晋侯燮の時代からだと史記は伝えています。
唐叔虞の誕生
史記の晋世家に唐叔虞の誕生の伝説が語られています。
周の武王が邑姜に出会った時に、武王は夢を見る事になります。
この時に夢に天帝が現れ「子供が生まれたら”虞”と名付ける様に」と命じられました。
さらに、天帝は虞と名付けた子に唐を与えると述べたわけです。
邑姜は子を授かりますが、掌を見ると”虞”の文字に似ていたとあります。
天帝のお告げもあった事から”虞”と名付けられました。
これが後の唐叔虞となります。
唐叔虞と禾
史記の魯周公家世家に、唐叔虞に関する記述が掲載されています。
魯周公世家によると「天が瑞兆をくだし、唐叔が珍しい禾を得た」とあります。
唐叔虞が得た禾は茎が二つでありながら、穂が一つになっていたと記載されています。
唐叔虞は不思議に思ったのか、兄である周の成王に、珍しい禾を献上したわけです。
しかし、周の成王は自分の元に置こうとはせず、唐叔虞に命じて東方にいる周公旦に贈るように命じました。
周公旦は禾を受け取ると喜び、嘉禾を作ったと言います。
この後に周公旦は東方の国を平定し、都に帰り周の成王に復命しました。
唐叔虞と禾の話は、何年頃の話なのか記載がなくよく分かっていません。
しかし、周公旦が東方にいる事を考えると、三監の乱が終わった頃ではないでしょうか。
唐に封じられる
周の武王が崩御すると、周の成王が立ちました。
唐で反乱が起きると、周公旦が討伐に成功しています。
周公旦は唐を滅ぼしました。
この時に周の成王は弟の唐叔虞と戯れており、桐の葉で珪を作り成王は唐叔虞に与え「これをもって、汝を封じよう」と述べました。
これを見ていた太史の尹佚は唐叔虞を封建する様に告げますが、周の成王は「あれは戯れ」だと流そうとしました。
しかし、尹佚は引き下がらず「天子に戯れという言葉はありません。天子が一言いえば、史官は記録し礼によって行い、楽によって、その事を歌うのです」と答えました。
これにより唐叔虞は唐に封じられました。
これが晋の始まりとなりますが、最初の国号は「唐」だったわけです。
史記では唐は黄河と汾水の間にある方百里の土地だったと記録されています。
尚、尹佚の「天子に戯れという言葉はない」に関しては、議論を呼ぶ部分であり、天子が述べた事を全て実行してしまったら、失敗を訂正する事も出来ず、上手く収まらないとする意見もあります。
唐叔虞は唐に封じられましたが、唐の君主になってからの唐叔虞に関しては記録がなく分からない状態です。
史記では唐叔虞の子の燮が後継者になったとされています。