三国志

陶濬『兵士2万に逃げられた不名誉な将軍』

2020年7月31日

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宮下悠史

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陶濬は三国志の呉末期の武将です。

因みに、コーエーテクモゲームスさんの三国志のゲームでは、陶濬はインパクトがある表情で描かれていて、顔芸武将として一部の間では人気があります。

因みに、上記の陶濬は呉の最終決戦を託されたのに、兵に逃げられた時の陶濬の表情なのでしょう。

尚、陶濬の兄は陶璜であり南方の反乱を鎮圧した人物でもあります。

今回のお話は呉末期の孫晧が皇帝をやっていた時代のお話です。

郭馬の乱

郭馬の乱と陶濬の動きを解説します。

孫晧が公孫姓の者を広州に強制移住

呉の皇帝である孫晧は、「呉が滅びる時、南方の辺境の地より反乱が起き、呉を滅ぼすのは公孫なり」という予言を耳にします。

普通に考えれば不吉な予言なのですが、孫晧はなぜか公孫姓の者を士卒だろうが官位を授かっていようが南方の広州に移してしまいます。

孫晧にしてみれば、「呉を滅ぼせるものなら滅ぼしてみよ!」という感じだったのかも知れません。

ここでの孫晧は強気にも見えますが、呉が滅びる1年前の279年に郭馬が南方で反乱を起こすと、ひどく怯えた話しも残っています。

陶濬が郭馬の討伐に向かう

呉の孫晧は、滕脩に1万の兵を預けて郭馬の討伐に向かわせる事にしました。

しかし、滕脩は郭馬の討伐に苦戦し、逆に郭馬の反乱が拡がりを見せます。

ここで呉の皇帝である孫晧は、陶濬に命じて苦戦している滕脩を助け、郭馬討伐に向かうように命令したわけです。

この時に孫晧は、陶濬に7千の兵を預けて西から郭馬を攻撃させようと考えました。

陶濬も郭馬討伐の為に、呉の首都である建業よりも西にある武昌に入っています。

晋が呉に六方面より攻め寄せる

郭馬討伐の為に、武昌に入った陶濬ですが、西晋が六方向より攻め込んで来た話を耳にします。

西晋軍は蜀方面からは王濬が船で長江を下り呉をに攻め寄せてきますし、他にも江陵からは杜預、夏口には胡奮など、六方面から西晋軍が呉に攻め寄せてきたわけです。

西晋軍の怒涛の攻撃の前に、呉の防衛ラインは崩壊し、次々と突破されていきます。

武昌にいた陶濬は、呉の滅亡の危機と考えて郭馬討伐を中止し、孫晧のいる建業に帰還しました。

陶濬が呉の最後の希望となる。

陶濬が呉の最後の希望となり西晋に戦いを挑む様を解説します。

孫晧に状況を説明する

孫晧が後に部下にあてた手紙の内容を見ると、次の様な話が孫晧と陶濬の間であったようです。

孫晧は状況を陶濬に説明する様に求めると、陶濬は既に武昌よりも西は西晋軍の手に落ちた事を伝えます。

さらに、陶濬は、呉の防衛ラインが次々に突破されるのは、城が貧弱なわけでもなく、軍糧が不足しているわけでもないと孫晧に話します。

陶濬は、呉の兵士達が城を守るのを放棄してしまったと状況説明をしたようです。

この時の陶濬は、相手が暴君と呼ばれる孫晧であっても、状況を正直に伝えたのでしょう。

陶濬の言葉を聞いた孫晧は意気消沈してしまった可能性が高い様に思います。

しかし、陶濬は西晋軍を破る事は可能だと孫晧に伝えます。

陶濬が将軍となる

孫晧は陶濬に対して、呉軍の状況だけではなく、西晋軍の水軍の様子を尋ねた話しがあります。

過去に呉は周瑜が赤壁の戦いで曹操軍を破ったり、夷陵の戦いで陸遜が劉備を破るなど、滅亡に危機に対しては水上の戦いで難を逃れて来た歴史があります。

この時の孫晧は、呉の水軍を期待し、最後の望みとして呉の水軍に掛けたのでしょう。

孫晧から西晋の水軍の様子を聞かれた陶濬は、「西晋軍の船は小舟であり、呉の大型船で戦えば勝機がある」と言います。

さらに、陶濬は「自分であれば2万の兵があれば、西晋の水軍を預かる王濬を破る事が出来る」と宣言します。

ここにおいて、孫晧は陶濬に2万の兵と水軍を与えて西晋軍との決戦を決意しました。

孫晧にしてみれば、呉の命運を陶濬に託したと言う事なのでしょう。

因みに、コーエーテクモゲームスさんの三国志14の陶濬のメイン画像(上記)は、陶濬がカッコよく孫晧に自分なら西晋軍を破る事が出来ると宣言した時の姿をイメージしたのでしょう。

兵士に逃げられて最終決戦を行えず

勇ましく孫晧の前に宣言した陶濬ですが、思いもよらぬ事態となります。

事態が急を要していた為に、陶濬は孫晧に宣言した翌日に出陣する事になったのですが、朝になると2万人の兵士が逃亡していました。

陶濬は、西晋と戦う前に兵士に逃げられて最終決戦を行う事が出来なかったという事です。

因みに、コーエーテクモゲームスさんには驚いた表情の陶濬が描かれる場合があり、それが上記になります。

西晋との決戦前に兵に逃げられてしまった陶濬を描いたのでしょう。

尚、呉の兵が逃げてしまったのは、孫晧が暴虐だった為なのか、陶濬の指揮力を兵士が心配したのかは定かではありません。

西晋軍が余りにも強かったのも、呉の兵が逃走する原因の一つになるはずです。

決戦前に兵に逃げられた陶濬ですが、その後の記録がなく最後がどうなったのかは分かりません。

孫晧の方は、陶濬の兵が逃げられた事を知り戦意喪失して西晋に降伏しています。

孫晧の降伏により呉は滅亡しています。

孫晧は降伏後は、西晋の皇帝である司馬炎により帰命侯に任命されました。

陶濬の評価

陶濬は、周瑜や陸遜、呂蒙の様な呉を救う名将にはなれなかったという事です。

ただし、陶濬が出陣した時は、既に大勢は決まっていましたし焼け石に水状態だったのでしょう。

陶濬は、最後に一花咲かせようと思って将軍に立候補したのかも知れません。

それにしても、陶濬はやる気があったのに、最後は不名誉な形で終わってしまいました。

呉の最後は、破竹の勢いの語源になったように勢いよく滅んでいますが、この滅亡の勢いの前には、陶濬では抗う事は出来なかったのでしょう。

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