室町時代

後妻打ち(うわなりうち)は妻が旦那の浮気相手を襲撃する行動を指す

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宮下悠史

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名前後妻打ち
読み方うわなりうち
時代平安時代ー江戸時代
コメント中世に許されていた行為

後妻打ちは「うわなりうち」と読み、妻が旦那の浮気相手を襲撃する行動を指します。

男女が離婚した場合に、前妻は後妻に対して後妻打ちを仕掛けたりもしたわけです。

現代でいえば信じられない行為に思うかも知れませんが、平安時代に始まり、江戸時代の初期までは人々に受け入れられてきた行動でもあります。

歴史上の有名な人物で、後妻打ちを行った人物として北条政子がいます。

北条政子が源頼朝の愛人である亀の前に対し、後妻打ちを仕掛けた話しは有名です。

今回は後妻打ちの実例を交えながら解説します。

尚、後妻打ちの動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来る様になっています。

後妻打ちの始まり

後妻打ちですが、最も古い記録は平安時代に遡る事になります。

藤原道長の時代に侍女が亭主の愛人の屋敷を30名ほどの下女たちと共に襲撃した記録があります。

この事件を藤原道長は「宇波成打(うわなりうち)と日記に書き示しており、これが最古の後妻打ちの記録となっています。

つまり、女性が亭主の愛人を襲撃したり、女性が女性を襲う後妻打ちは平安時代に始まったのでしょう。

後妻打ちは何故始まったのか

後妻打ちが始まった経緯ですが、平安時代に曖昧だった男女関係が一夫一妻制に固まってきたとされています。

日本で考えれば貴族や身分の尊い人々は「一夫多妻制」が普通だと思うかも知れません。

しかし、実態は『一夫一妻多妾制』だったわけです。

男性の妻になれるのは、あくまでも一人だけであり、残りの女性は妾ないし側室に過ぎませんでした。

男性は非公式に複数の女性と関係を持つ事が許された時代でもありました。

しかし、女性は妻になれるのはあくまでも一人であり、妻の座を巡って争ったりもしたわけです。

「女性の敵は女性」とする言葉もありますが、一夫一妻多妾制度では、女性同士の争いが起きやすい仕組みだったと言えるでしょう。

こうした中で後妻打ちの風習が始まったとされています。

尚、紫式部の源氏物語にも男の愛を独占出来ない女性の悲しみの話があります。

北条政子の後妻打ち

源頼朝と亀の前

源頼朝の妻である北条政子が後妻打ちを行った話があります。

北条政子は源頼朝が不遇の時代に出会い支えた糟糠の妻でしたが、頼朝の方は英雄色を好むと言った人物だったわけです。

北条政子が源頼家を出産する時に、別の屋敷に移る事になりました。

源頼朝には亀の前という愛人がおり、頼朝は北条政子がいない事を言い事に、行動が大胆になります。

吾妻鏡には亀の前の姿は美しく性格が柔らかかったあり、北条政子とは対比する様な性格だったのかも知れません。

北条政子は出産を終え源頼家が誕生しますが、頼朝と亀の前の関係を知ってしまいました。

頼朝は伏見広綱の屋敷に亀の前を置いていましたが、北条政子は牧宗親に命じ伏見広綱の屋敷を襲撃させています。

多くの方が分かったと思いますが、北条政子は頼朝の愛人である亀の前に後妻打ちを仕掛けたわけです。

牧宗親に攻められた伏見広綱は、亀の前を大多和義久の屋敷に逃しました。

亀の前は北条政子の後妻打ちから逃れる事に成功しています。

後妻打ちを否定しない源頼朝

北条政子が牧宗親を使い、後妻打ちを行った事を知り青くなったのが、源頼朝です。

ここで源頼朝は牧宗親を巧みに呼び出すと「政子を大事にするのは問題ないが、なぜ後妻打ちを教えてくれなかったのだ」と詰め寄りました。

牧宗親は額を頭につけて謝罪しますが、頼朝の怒りは収まらず牧宗親の髷を切ってしまったと言います。

ここで注目したいのは、源頼朝は北条政子の後妻打ちに関して否定してはいないという事です。

中世の日本では後妻打ちの風習が認められていたとも考えられています。

因みに、ここで懲りないのが源頼朝であり、北条政子が再び出産の為に屋敷を離れると、大進局なる女性と関係を持ちました。

当然ながら源頼朝の行動は北条政子の知る所となり、激怒されています。

室町時代の後妻打ちの記録

悪代官・光心

室町時代も中頃に差し掛かった頃に、備中国上原郷に東福寺の代官である光心なる人物がいました。

光心は悪徳代官の典型のような人物であり、私腹を肥やし農民たちは東福寺に訴え出るなどもしています。

光心は女好きであり、長脇殿の未亡人を特に気に入り、二人は男女の関係となりました。

しかし、光心の女性に対する執着は長脇殿の未亡人だけに収まらず、郷内の農家の娘にも手が及ぶ事になります。

百姓の娘に肉体関係を強要し女性が拒めば、親を無実の罪で処罰したと言います。

好みの女性であれば見境なく手を出した光心ですが、遂に長脇殿の未亡人の耳にも入ってしまいました。

長脇殿の未亡人は自分よりも身分が低い女性と光心は関係を持っていると知り、プライドが傷つき後妻打ちを決行する事になります。

長脇殿の未亡人の後妻打ち

長脇殿の未亡人は家人に命じて、光心と関係を持った農家の娘の家を襲撃しました。

農家の娘を捕らえると、娘を殺害してしまったと言います。

嫉妬に狂った長脇殿の未亡人の行動は、現代で言えばとても許されるものではないでしょう。

意外に思うかも知れませんが、殺人を犯してしまった長脇殿の未亡人が罪に問われた形跡はないと言います。

室町時代であっても後妻打ちは社会の風習となっており、認められていた行為だとされています。

先に上原郷の農民が東福寺に訴え出たと言いましたが、訴えの中にも後妻打ちの行動自体を批判する事は無かったと言います。

尚、光心は東福寺の代官を解任されますが、後に神主家の婿になったと伝わっています。

光心はしぶとい男であったと言えるでしょう。

江戸時代の後妻打ち

江戸時代の初期には存在していた後妻打ち

江戸時代の初期の頃にも後妻打ちの風習があった事が分かっています。

磐城平藩の内藤忠興の正室である天光院は、自ら薙刀を持ち忠興の妾がいる屋敷に押し入った話があり、これも後妻打ちとなります。

佐賀藩の鍋島直重の前妻は離婚後に、後妻の陽泰院の家に後妻打ちを仕掛けました。

しかし、陽泰院は毅然とした態度で前妻を丁重に迎え入れ、事なきを得て逆に名声を高めた話があります。

江戸時代の初期には後妻打ちは間違いなく存在していましたが、徳川綱吉の時代の生類憐みの令や幕府が復讐を厳しく取り締まった事で、亡くなっていったと考えらえています。

後妻打ちにルールがあった!?

徳川吉宗の時代に八十翁疇昔話というものがあり、120年か130年前の話として、後妻打ちが紹介されています。

八十翁疇昔話によると後妻打ちを行うには、下記のルールがあったと言います。

前妻と離婚してから5日ないし30日以内に、元夫が妻を迎えた場合

後妻打ちを行うには、最初に相手の家に通達しなければならない

襲撃は女性だけで行う(20人から100)

刃物は禁止で木刀や竹刀、棒などを武器とする

破壊する場所は台所で鍋、釜、障子などを対象に行う

仲介者が和解を行ったら終了

鎌倉時代や室町時代の後妻打ちは、時には相手の命まで奪ってしまいましたが、江戸時代になるとルールがしっかりと定められたと言った所なのでしょう。

ただし、八十翁疇昔話の記録自体が120年前の記録と言っているわけであり、八十翁疇昔話が書かれた享保年間(1716年ー1736年)には後妻打ちが行われなくなっていた事も分かるはずです。

後妻打ちが行われなくなった理由

後妻打ちは江戸時代には廃れてしまったわけですが、江戸幕府が「後妻打ちを禁止した」などの法令が出された形跡はないと言います。

感情に身を任せて、他人の屋敷を破壊する蛮行が問題視する風潮が強くなり、人々は自主規制したのではないかと考えられています。

当然ながら、現代では後妻打ちをしたら犯罪であり、決して行ってはいけない行動です。

後妻打ちの動画

後妻打ちのゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画は新潮社の「室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界」をベースに作成しました。

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