室町時代

八相山の戦い

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宮下悠史

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八相山の戦い1351年
総大将足利尊氏足利直義
司令官足利義詮など畠山国清桃井直常など
兵力不明不明
損害不明不明
勝敗

八相山の戦いは観応の擾乱においての戦闘の一つとなります。

足利尊氏は近江に出陣しましたが、足利直義は越前から動かず、畠山国清桃井直常を近江に向かわせています。

直義派の軍は八相山に布陣し、石塔頼房も合流しました。

足利尊氏の軍は八相山を攻撃し、八相山の直義派の軍は越前への撤退を決めています。

八相山の戦いの後に講和交渉があり、近江国錦織興福寺で尊氏と直義が対面での交渉に入りますが、決裂しました。

今回は八相山の戦いだけではなく、その後の交渉に関しても解説します。

八相山の戦いの前段階

足利直義は観応の擾乱で足利義詮との対立もあり、越前の金ヶ崎城に入りました。

藤原有範の言葉もあり、直義は開戦に踏み切る事になります。

足利尊氏と義詮は近江に出陣しますが、直義は越前に陣取り動きませんでした。

足利直義は比叡山に書状を送り、光厳上皇らを保護する様に要請したりもしています。

近江国では尊氏派と直義派の間で、散発的な戦いが始まり、八相山の戦いの前哨戦が始まったと言えるでしょう。

この時期に直義派の上野頼兼が丹後で戦死しました。

これを受け南朝の結城氏の軍や但馬の悪党らが丹後に押し寄せ、濫妨を多く行っています。

足利直義は越前におり畠山国清桃井直常を大将として、近江に出陣させています。

直義派の軍は八相山に布陣しており、本格的に八相山の戦いが勃発したと言えるでしょう。

さらに、直義派として伊勢から石塔頼房が駆け付け、近江守護の山内信詮佐々木道誉の軍勢を破りました。

石塔頼房の軍は八相山の直義派の軍に合流しています。

八相山での戦いの本戦

足利尊氏は攻勢に出て八相山を攻撃しました。

こうした中で佐々木道誉の家臣である多賀将監が、秋山光政を討ち取っています。

秋山光政は一貫して直義派を貫いた武士です。

八相山の戦いは始まりましたが、厭戦気分が強かったのか、直義派の多くの武将が越前への撤退を進言しました。

桃井直常は反対しましたが、結局は越前に撤退しています。

八相山の戦いは足利尊氏が勝利した事になりますが、敵を完膚なきまでに打ち破ったわけでもなさそうです。

講和交渉

八相山の戦いが終わると、足利尊氏は直義との間で講和交渉を行っています。

直義も尊氏の講和交渉に応じ、近江に向かいました。

細川清氏は足利尊氏により京都に返されています。

細川清氏は猛将であり、足利尊氏もこれから戦いになるとは考えておらず、京都に戻してしまったのでしょう。

京都に戻った細川清氏の方も「和平が整う」と思っていた様です。

既に足利尊氏と直義が面会する所まで行っており、大半の人は講和交渉が成ったと思っていた事でしょう。

ただし、この頃に尊氏と直義の双方から信頼されていた夢窓疎石が世を去りました。

夢窓疎石は両名の調停を行っており、暗雲が立ち込めた事にもなります。

足利尊氏と直義は近江の錦織興福寺で対面しました。

洞院公賢も「神妙」と述べており褒め称えた講和交渉の流れでしたが、予想外に交渉は破綻しました。

八相山の戦いが終わり観応の擾乱も終わるかに思えましたが、終わらず足利直義は関東に移る事になります。

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