室町時代

山内定詮は代理の近江守護となる

2025年2月8日

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宮下悠史

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名前山内定詮
生没年不明
時代南北朝時代
一族父:六角時信 兄:六角氏頼
年表1351年 近江守護代理となる
コメントよく出来た弟

山内定詮は南北朝時代の人物であり六角氏頼の弟にあたる人物です。

足利尊氏直義の争いである観応の擾乱が勃発すると、兄の六角氏頼は出家してしまいました。

六角義信が六角氏を継ぎますが、六角義信は幼子であり山内定詮が代理の近江守護となります。

山内定詮は六角軍を率いて各地を転戦し政務を行うなど活躍しました。

兄の六角氏頼が戻って来ると、兄に近江守護の座を引き渡しています。

普通にみれば山内定詮は良く出来た弟だと言えるでしょう。

近江守護代理

1351年は観応の擾乱の真っただ中であり、こうした中で兄の六角氏頼が出家してしまいました。

六角氏頼は嫡子の六角義信を後継者にして出家しますが、六角義信はまだまだ子供であり、山内定詮が政務を執る事になります。

四代目六角氏の当主である兄の六角氏頼が高野山に身を引き引退した事で、山内定詮が実質的なトップになったと言えるでしょう。

実際に山内定詮の名で文書なども発行しており、対外的にも守護とみなされていたわけです。

観応の擾乱

山内定詮は観応の状態では尊氏派に属しており、佐々木道誉と共に戦いますが、敗れて観音寺城に撤退しまいた。

観音寺城に撤退した山内定詮ですが、園太暦によると、次の記述が存在します。

※南北朝武将列伝北朝編(戎光祥出版)267頁より引用

「当国守護氏頼舎弟、将軍補する所」

ここでいう舎弟は山内定詮であり、やはり守護として認められていたのでしょう。

足利直義は観応の擾乱で北陸に移動しますが、足利尊氏との間で八相山の戦いが勃発しています。

八相山は近江にあり、当然ながら山内定詮も参陣しています。

八相山の戦いは尊氏派が勝利していますが、山内定詮も六角軍を率いて勝利に貢献しました。

南朝との戦い

観応の擾乱で足利直義は関東に入りますが、足利尊氏が南朝に降伏し北朝が消滅しました。

正平一統が成ったわけですが、南朝は正平一統を破棄し、京都を攻撃する決断を後村上天皇は下しました。

不意を衝かれた足利義詮は、北朝の皇族を置き去りにし、八幡での合戦に敗北しています。

ここで朽木文書が現存されており「佐々木近江」が朽木経氏の戦功を賞したとあります。

この佐々木近江が六角氏頼とする説もありますが、この時点での六角氏頼は高野山に出家していたはずであり、山内定詮を指すとした方が自然なはずです。

目賀田玄向の戦功も山内定詮が報告している事もあり、この時の山内定詮は軍事の中心人物でもあったのでしょう。

山内定詮降伏の風聞

足利義詮は後光厳天皇を奉じて美濃に逃れますが、山内定詮は近江を守る事になります。

この時に、南朝の方が軍の強さで圧倒しており「山内定詮が降伏するのではないか」とする風聞が流れました。

足利義詮が後光厳天皇を連れて美濃に行った事で、近江は危ういと当時の人は思ったのでしょう。

実際に山内定詮と京極高秀の軍は原・蜂谷ら南朝方に敗北しており、佐々木荘まで退かねばならなくなり、かなり追い詰められていました。

兄の家督復帰

足利義詮は無事に京都を奪還しますが、1353年になると出家したはずの六角氏頼が戻ってきました。

兄の帰国により山内定詮は当主の座を退いた様であり、ここから再び六角氏頼が当主となります。

山内定詮は兄の六角氏頼と当主の座を争った話もなく、野心的な人でもなかったのでしょう。

潔く山内定詮が身を引いた事で、兄の六角氏頼が近江守護に返り咲きました。

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