名前 | 栄仁親王(よしひとしんのう) |
生没年 | 1351年ー1416年 |
時代 | 南北朝時代ー室町時代 |
一族 | 父:崇光天皇 妻:藤原治子 子:治仁、貞成 |
コメント | 伏見宮家の初代当主 |
栄仁親王は崇光天皇の子で、伏見宮家の初代当主にもなっている人物です。
崇光天皇が即位した時に、光厳上皇は直仁親王を皇太子としますが、正平一統の破棄により白紙となりました。
崇光上皇が京都に戻ると、栄仁親王を天皇に就けようと活動をしています。
しかし、室町幕府の意向もあり、結局は後円優天皇が即位しました。
足利義満の時代に栄仁親王は長講堂領などの所領を後小松天皇に譲渡させられ、皇位継承から外れてしまいます。
ただし、栄仁親王の孫が後花園天皇であり、皇位継承されました。
正平一統と天皇候補
栄仁親王は1351年に崇光天皇の子として生まれましたが、この時には北朝の治天の君は光厳上皇であり、花園天皇の子である直仁親王が皇太子になっていました。
光厳上皇は崇光天皇の子らは仏門に入れる様にと考えており、普通で行けば栄仁親王が天皇になる可能性は無かったはずです。
室町幕府では足利直義と高師直の対立から始まった観応の擾乱が勃発しており、足利尊氏は関東遠征を行っています。
関東遠征を行う前に足利尊氏は南朝に降伏しており、これが正平一統です。
足利尊氏が京都を開けている隙に、南朝軍の攻撃により光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、直仁親王が捕虜となり、賀名生に連行されました。
室町幕府が南朝に降伏した正平一統は、破棄されてしまったわけです。
これにより直仁親王が皇太子から外れ、室町幕府では後光厳天皇を即位させています。
後光厳天皇の後継者が誰になるのかは不明であり、この時点で栄仁親王も皇位継承のチャンスが回ってくる事になります。
光厳上皇も南朝に幽閉されている最中に、父親の崇光上皇に熱心に琵琶を教えており、崇光院の系統が北朝の後継者とみなしていた様にも感じました。
天皇になれず
北朝では後光厳天皇が即位していましたが、三種の神器もなく上皇ではなく広義門院に指名された天皇であり、正統性に疑問を持つ者も多かったわけです。
後光厳天皇の兄である崇光上皇は、我が子である栄仁親王を践祚させようと、積極的に働き掛ける事になります。
崇光上皇は後光厳上皇から譲られた所領を持っており、経済力では後光厳天皇を圧倒していました。
しかし、後光厳天皇も負けじと緒仁親王を次期天皇とする様に働きかける事になります。
室町幕府では幕府の都合で後光厳天皇を即位させた経緯もあり、結局は緒仁親王が後継者になりました。
結局のところ栄仁親王は天皇になる事が出来なかったわけです。
尚、栄仁親王は伏見殿におり、伏見宮家の初代当主となっています。
皇位継承の道を断たれる
崇光法皇は1398年の正月に亡くなっていますが、四カ月ほどすると栄仁親王が出家しました。
足利義満は栄仁親王の所領を後小松天皇に譲渡させています。
伏見宮家の財力を後光厳院流の後小松天皇に引き渡し、代わりに直仁親王の所領を栄仁親王に与えました。
これにより栄仁親王が皇位に就く可能性は断たれたと言ってもよく、栄仁親王は出家に至ったと考えられています。
栄仁親王は最後まで天皇になる事が出来ませんでした。
ただし、後光厳流は称光天皇の時代に後継者がおらず、伏見宮家の彦仁親王が称光天皇の養子となり、後花園天皇として即位しました。