室町時代

結城顕朝の約束の所領を認めたさせた

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宮下悠史

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名前結城顕朝
生没年不明
時代南北朝時代
一族父:結城親朝、兄弟:小峰朝常、宗顕、山ノ井朝胤 養子:満朝
コメント「建武二年以来の知行地」を安堵させた。

結城顕朝は結城親朝の子で、結城宗広の孫にあたる人物です。

結城宗広の所領を結城顕朝に譲与し、結城親朝は所領を弟の小峰朝常に譲与しました。

財産で考えれば結城顕朝の方が若干多い程度であり、小峰朝常も多くの財産を継承しています。

結城親朝は常陸合戦の中で足利尊氏から「建武二年以来の知行地」を約束しましたが、幕府の方では所領安堵をしませんでした。

しかし、結城顕朝は上申書を幕奥州管領に送るなどし、働きかけを行っています。

白川結城氏が観応の擾乱のキーマンになった事で、結城顕朝の時代に足利尊氏は約束の所領を安堵しました。

結城顕朝の上申書

1374年に結城顕朝は北朝の武将として、霊山、宇津峰、伊達郡藤田城を攻撃しました。

父親の結城親朝は病気であり、嫡男の結城顕朝が出陣したのでしょう。

結城氏は常陸合戦で足利尊氏と約束した「建武二年以来の知行地」を獲得出来ておらず、兵を出しました。

結城顕朝は足利尊氏の京都御教書を例に出し上申書を提出しています。

上申書の中で結城顕朝は「建武二年以来の知行地」が守られていない事を挙げ、数度の戦いで功績を挙げたと述べました。

結城顕朝が上申書を提出すると、奥州管領の吉良貞家畠山国氏は軍忠を認め、室町幕府の執事・高師直に推挙状を出しています。

結城顕朝の上申書は幕府まで行きましたが、望みは叶わなかったと考えられています。

岩切城の戦い

室町幕府の中央では足利直義高師直の対立が激しくなり、観応の擾乱に発展しました。

観応の擾乱は軍事衝突にまで発展し、奥州にまで戦乱が及びました。

奥州管領の吉良貞家畠山国氏も対立し、結城顕朝は吉良貞家に味方しています。

畠山国氏が籠る岩切城を吉良貞家の軍が囲み、畠山高国、国氏親子を自害に追い込みました。

岩切城の戦いに参戦した結城顕朝は弟の朝常に書状を送っており、戦いの凄惨さを述べています。

戦いが終わると、吉良貞家により白河関や様々な通路の警備を命じられ、足利直義は結城顕朝に感状を出しました。

所領安堵

足利直義高師直を破ると、吉良貞家足利尊氏が保護にした「建武二年以来の知行地」を安堵しました。

奥州で吉良貞家と畠山国氏が争うと、南朝の北畠顕信の勢力が強大となり、多賀国府を攻撃しています。

中央では足利直義が尊氏と対立し関東に出奔しました。

白河結城氏は南奥州の中でも勢力は強く交通の要衝を支配していた事から、尊氏も直義も味方に付けるべく動く事になります。

さらに、白河結城氏は元は南朝の勢力であり、北畠顕信からも味方になる事を要求されました。

足利尊氏は足利直義を破ると、結城顕朝と朝常に御判御教書を発行し所領安堵を行なっています。

常陸合戦での約束から八年が経過していましたが、約束は果たされたと言えるでしょう。

観応の擾乱は日本国内で凄惨な戦いを繰り広げましたが、白河結城氏にとっては幸運をもたらしたと見る事ができます。

尚、結城顕朝は小峰政常の子を養子としてもらい結城満朝と名乗らせ、後継者としました。

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