韓宣は冀州渤海郡の人であり、三国志に登場する人物です。
韓宣に関しては正史三国志の裴潜伝の注釈・魏略に詳しく掲載されています。
韓宣は小柄な体格の持ち主であり、建安年間に曹操は招聘し丞相軍謀掾としました。
しかし、韓宣は丞相軍謀掾になっても、特に仕事もなく鄴に滞在し生活したとあります。
韓宣は曹丕や曹植との逸話はありますが、有能と無能の中間に位置したとする珍しい評価をされた人物でもあります。
論破出来ない男
韓宣は東掖門の中で臨菑侯の曹植と出会いました。
この時に雨が降ったばかりであり、地面には水たまりが出来ていたわけです。
曹植は曹操の子であり、韓宣は曹植の進行の妨害にならない様に避けようとしました。
しかし、水たまりに邪魔された事で、韓宣は曹植を避ける事が出来なかったわけです。
無理に避けようとすれば、衣服に泥水が付く事など考えられ、韓宣としても避けにくい状態だったのでしょう。
ここで韓宣は何を思ったのか、扇で顔を隠し道端で動かずにいました。
韓宣なりに曹植に気を遣ったのでしょう。
しかし、曹植の方では韓宣が道を開けず、礼の態度も感じられないと考えムッとしたわけです。
ここで曹植は車を止めて侍従に、韓宣が如何なる官職なのか確認させました。
韓宣は侍従に訪ねられると「丞相軍謀掾」だと正直に述べます。
曹植は「列侯の邪魔をしていいものだろうか」と韓宣に問うと次の様に答えています。
韓宣「春秋には王の直臣は身分が低くても、諸侯の上に位置しているのです。
丞相の属官でありながら、田舎の諸侯に対し礼を取るとは聞いた事がありません」
しかし、曹植は納得せず、次の様に答えました。
曹植「君のいう通りだとしても、私の父親(曹操)の部下になったのだから、子である私に会えば礼を取るべきではなかろうか」
曹植はあくまで韓宣を言い負かし礼を取らせようとしますが、韓宣は次の様に答えています。
韓宣「礼で考えれば臣下と王の息子は同列のはずです。
それに私の方が年長であり、曹植様の方が私に礼を行うべきかと存じます」
韓宣は曹彰に反論し、曹植も韓宣を言い負かす事は出来ないと悟り、放置してその場を去る事にしました。
曹植は家に帰ると、韓宣との経緯を太子の曹丕に語ったとあります。
曹丕は韓宣を弁が立つと評価しました。
物分かりが良い男
後に曹操が亡くなり、この時に韓宣は尚書令となっていましたが、。職務上の事で失敗をしたのか処罰される事となります。
韓宣は杖打ちの刑を受けるはずでしたが、偶然にも曹丕の車が通ったわけです。
曹丕は韓宣を見ると「この者は誰だ」と訪ねると、側近たちは「尚書郎で渤海郡出身の韓宣です」と答えました。
この時に曹丕は過去に曹植の話を思い出し、曹植が言っていた韓宣なのか確認したわけです。
曹丕は韓宣だと分かると、曹丕は韓宣の罪を許しました。
曹丕は己の一存で韓宣を許しましたが、外はかなり寒いのに、韓宣は刑罰を褌であり手は後ろで縛られ、刑罰を受ける姿をしていたわけです。
韓宣は赦免となり罪が許されると、褌を腰から下ろさず、小走りで走りました。
韓宣の様子を見ていた曹丕は、大いに笑い次の様に述べています。
曹丕「この男は非常に従順で物分かりがよい人物だ」
曹丕は韓宣の事を気に入ったのでしょう。
曹丕は曹植と後継者争いをしており、ライバルの曹植に対し堂々とした気概を見せた、韓宣を清々しいと感じて好意を持っていた可能性もある様に感じています。
それでも、韓宣は刑罰に処される所を偶然にも曹丕が通りかかったなどは、かなり運がよいとも言えそうです。
後に韓宣は出世し、清河や東郡の太守になったとあります。
曹叡の時代になると、尚書大鴻臚となり数年後に亡くなりました。
韓宣は曹叡の時代に亡くなった様ではありますが、どの様な最後だったのかは不明です。
韓宣の評価
韓宣ですが、有能と無能の中間に位置すると評価されており、珍しい評価だと感じました。
有能と無能の中間と言いますが、凡人とも違うのでしょう。
韓宣は自分を押さえて人を許したとあり、ここれが凡人と評価されない部分だと感じています。
韓宣の前任者が韓曁であり、韓曁の人柄は賢明だったとあります。
韓曁の後に韓宣は大鴻臚となりますが、役職に相応しい人物だったと評価されています。
「大鴻臚、小鴻臚の実績が似ている事よ」という言葉まで流行ったそうです。
ただし、韓宣に対しては謎もある様で、魏志では韓宣の名前が見当たらないとしています。
それでいて、魏略には伝だけがあり、世語では名臣として扱われています。
それでも、具体的な韓宣の実績はよく分からず、かといって大きな失態を見せたわけではなく、有能と無能の中間と言った評価がやはり相応しいのでしょう。