名前 | 日英同盟 |
年表 | 1902年 |
コメント | 日本とイギリスの同盟を指す |
日英同盟は日本とイギリスの間で1902年に結ばれました。
日本がイギリスに対し同盟を申し込み日英同盟が成立した経緯があります。
日本側がイギリスに対し同盟を申し込んだ理由は非常に分かりやすく、ロシアの南下政策に対抗する為に覇権国であったイギリスに同盟を申し込んだというべきでしょう。
イギリス側としては、1900年頃に世界最強の海軍は持ってはいましたが、工業生産力ではアメリカに追い越され、ドイツにも猛追されている状態でした。
イギリスは単独でも覇権の維持が困難であり、東アジアでの自国の利権を守るために日英同盟を了承したのではないかとも考えられています。
今回は地政学も交えて1902年に結ばれた日英同盟を分かりやすく解説します。
尚、日露戦争において日本が勝利する事が出来た理由は、チョークポイントであるスエズ運河をイギリスが封鎖し、ロシアに使わせなかった事も挙げられています。
日本が日英同盟を結んだ理由
日英同盟は日本側がイギリスに同盟を持ち掛けて成立した経緯があります。
日本がなぜ日英同盟を望んだかと言えば、ロシアの脅威があったからでしょう。
ロシアはヨーロッパの国ですが、東に領土を拡げ、さらには南下政策を取りました。
ロシアは日本の安全保障を考える上で脅威だったわけです。
当時の日本政府には二つの選択肢がありました。
一つはロシアと同盟を結ぶと言う考えです。
ただし、ロシアが日本との同盟に応じたとしても、ロシアが南下政策を止めるのか?と考えた場合も疑問点も多かったわけです。
日本とロシアが同盟を結んでも、ロシアの南下政策は止まることなく、朝鮮半島もロシア領となり、日本の危機が訪れる可能性も高かったと言えます。
もう一つの選択肢がイギリスとの同盟であり、これが1902年の日英同盟に繋がる事になります。
日本としてはロシアの南下政策を阻止しなければならないが、欧州列強の一つであるロシアを圧倒し単独で確実に勝つというのは、難しいと考えたはずです。
そうなると、日本側としてはロシアを封じ込める必要があり、日英同盟を望むのは必然の流れだったはずです。
当時のイギリスは世界中に多くの植民地を持っており、覇権国でもあり日本としては日英同盟が締結されれば大きなメリットがありました。
日本政府がロシアの脅威の前に、日英同盟を望むのは当然の成り行きだったと言えるでしょう。
日本にとってみれば、イギリスの世界最強とも言える海軍力は魅力的に映ったはずです。
この様に、日本側が最強国であるイギリスに日英同盟を望む理由は分かりやすいわけですが、問題はイギリスがなぜ東洋の端にある島国の日本に日英同盟を望んだのかという事です。
イギリスは日英同盟に応じた理由
日英同盟は地政学で結ばれた
イギリス側が日本から提案された日英同盟を承諾した理由ですが、地政学が大きく関わっているともされています。
地政学で見ると、ランドパワーとシーパワーが存在している事が分かります。
ランドパワーの代表国
モンゴル帝国、ロシア帝国、清帝国、中華人民共和国
シーパワーの代表国
スペイン、オランダ、イギリス、アメリカ
ランドパワーとシーパワーで覇権国家が出来るわけですが、最初の覇権国としてはモンゴル帝国だと言えるでしょう。
ランドパワーの国
専門家によってはクビライカーンの元が出来た時点でランドパワーが成立したと考える人もいます。
ランドパワーの国であるモンゴル帝国、ロシア帝国、清帝国、中華人民共和国を見ると、広大な領地を持っている事が分かるはずです。
さらに、ランドパワーの国の特徴を挙げると多民族、多宗教、多言語であり皇帝が絶対的な権力を持っていると言えます。
一人の人間に権力が集中する仕組みにもなっています。
広大な領地を持ち多民族国家であるランドパワーの国が仮に権力を分散させてしまうと、各地で独立の動きを見せて国は解体に向かってしまいます。
それ故に、ランドパワーの国は皇帝(一人の人物)に権力を集中させる必要があるわけです。
ランドパワーにおいては、中央集権化は必須でもあります。
ランドパワーにおいて重要なのは大陸の内部に拠点を設置し、土地と人民の支配の拡大を重視するという事です。
陸上交通の発達と拡大により、物質的な安全と豊かさを求める事になります
多くの方が分かっているかと思いますが、日英同盟を結んだ日本とイギリスは対局に位置するシーパワーの国となっています。
シーパワーの国
シーパワーの国ですが、最初に覇権国になったのが、スペインだと言えるでしょう。
ポルトガルが一時はスペインに先行していましたが、後にスペイン王はポルトガル王も兼ねる様になりました。
初期の大航海時代をリードしたのは、紛れもなくスペインとポルトガルであり、スペインとポルトガルの戦いの勝者はスペインだと言えます。
スペインが欧州の各国と争い衰退すると、力を握ったのがオランダとなります。
オランダの覇権にイギリスが挑み、イギリスがオランダと似たようなやり方で最終的に覇権を握りました。
イギリスはインドを領土とした様に、ランドパワーの国の様にも思うかも知れません。
しかし、イギリスの当初の目的は産業革命により生産力が爆上がりしたイギリス製品(綿製品など)を、他国に売るのが目的だったわけです。
イギリスの当初の目的は、イギリス製品を買ってくれる市場が欲しかったとも言えます。
本来のイギリスは商売をする為の港が必要であり、領土はそれほど重視してはいませんでした。
シーパワーの国で重視されるのは、港に拠点を置き制海権の確保と貿易の拡大です。
このランドパワーとシーパワーが日米同盟を結ぶにあたって重要な要素となります。
リムランド
ランドパワーもシーパワーも地政学となりますが、マッキンダーは次の様に述べています。
東欧を支配するものはハートランドを支配し、ハートランドを支配するものが世界島(ユーラシア島)を支配する。
世界島を支配するものは、世界を支配する。
マッキンダーは東ヨーロッパを支配するものが、世界を支配すると考えたわけです。
実際にユーラシアの国でモンゴル帝国、ロシア帝国などのランドパワーの国は大きな力を持ちました。
ランドパワーの国が力を持った時に、周辺の国はどの様に対抗すべきか地政学では答えを出す事になります。
地政学者で有名なスパイクマンは、ランドパワーとシーパワーの国がぶつかる地域を「リムランド」と名付ける事になります。
スパイクマンはランドパワーが強大な力を持っても、シーパワーの国が周辺を抑える事でランドパワーの力を外に出さない様にする事が可能だとしました。
ただし、外に出ようとするランドパワーと抑え込もうとするシーパワーの間で戦争も起こるとも地政学は考えたわけです。
アメリカは冷戦の時に、日本や西欧、東南アジアらを使いソ連や中国の動きを封じ込めたと言えるでしょう。
マッキンダーの仮説
マッキンダーはモンゴル帝国が強大な時代は、ランドパワーが優位な時代だと位置づけました。
大航海時代が始まると世界をリードしたのはスペインやオランダ、イギリスでありシーパワーの国だったわけです。
モンゴル帝国が解体した世界においては、シーパワー有利な時代が訪れたと言えるでしょう。
1850年にシベリア鉄道の建設が開始され、広大な土地を持つロシア帝国が東西に道が開かれようとしました。
1871年にはドイツ帝国が誕生し、1902年に日英同盟成立、1920年にソ連成立、1933年にナチスドイツ誕生と、20世紀前半はランドパワーが優勢だったとも言えるでしょう。
地政学では再びランドパワー優位の時代が来るのではないかとも考えられたわけです。
こうした中で、1902年に日本とイギリスの間で日英同盟が結ばれたとも言えます。
イギリスがインドを領有した理由
イギリスはシーパワーの国ではありますが、世界中に多くの領土を持っている事が分かるはずです。
日英同盟を結ぶ前にイギリスはシーパワーの国でありながらも領域国家並みの領地を持っていた事になります。
イギリスがインドを支配下に置いたのは、商売が目的だと考えられています。
イギリスはインドの農家に安価で綿花を生産させ、鉄道を使ってインド中の綿花を港に集めてイギリスに移送し、イギリスの本国では綿製品として、インド中に鉄道を使って送り込む仕組みです。
シーパワーの国であるイギリスが領域国家と化したのは、ビジネスの拡大が狙いだったと言えるでしょう。
イギリスとロシアの激突
ロシアは南下政策を進めますが、イギリスとアフガニスタンでぶつかる事になります。
ロシアとイギリスはアフガニスタンの領有を巡って争う事になりました。
イギリスとロシア帝国の争いを「グレートゲーム(1813年~1907年)と呼んだりします。
ロシアとしてはイギリスを破りインドに出たいと考えており、インド洋を手に入れたかったわけです。
ロシアは北には北極海がありますが、冬は凍りついてしまい不凍港が欲しかったとも言えるでしょう。
イギリスはロシアの南下政策を受け入れる事は出来ず、必然同盟国が必要となります。
イギリスとロシア
イギリスが同盟を結ぶにあたり、ロシアの敵と結ぶ必要があったと言えます。
イギリスは覇権国ではありましたが、圧倒的な実力がありロシアを軽く蹴散らせるほどの実力は持ってはいませんでした。
イギリスの艦隊では極東方面でロシアを封じ込める事が出来ず、ロシアを封じ込める事が出来る国を求めていたと言えます。
地政学では敵の敵と同盟を結ぶと考えるのは基本的な方針でもあります。
イギリスが同盟を結ぶにあたり、ロシアの敵であり、それでいて同盟国の国力も求めた結果として、日本が最適でした。
当時の日本は日清戦争で大清帝国を破る程の実力を世界に見せつけたわけです。
この時代はイギリスの覇権が衰えていた時期でもあります。
こうした事情もあり、イギリスも日英同盟を望んだわけです。
ドイツの戦略
日英同盟が結ばれる時代はイギリスが工業生産力においては、アメリカに追い抜かれてしまう時期でもあり、さらにドイツもイギリスを猛追していました。
当時のイギリスの基本戦略は自由貿易でしたが、ドイツは自分の市場を保護しイギリスに対抗しようとしたわけです。
ドイツはイギリスに比べて工業生産力が低く何もせずに、イギリスに対抗しようとすれば敗れ去る事は火を見るよりも明らかでした。
イギリスとドイツの差は「電灯とローソク程の差がある」とも言われた程です。
ドイツは反自由貿易を行いイギリスの最新技術を積極的に導入しています。
当時は知的財産保護などの仕組みも大して出来てはおらず、ドイツはイギリスから様々な世界最先端の技術を導入する事に成功したわけです。
ドイツは産業に対して国家支援を行い保護関税を設置するなど、国内市場の確保を促します。
イギリスは自由貿易であり、政府からの支援は抑制し自由に貿易をやらせていました。
ドイツ政府は生産性を高める為の投資を積極的に行いドイツ製の商品の価格を下げる事に成功しています。
価格が下がったドイツ製品を輸出し、ドイツ政府は輸出補助金や輸出奨励金も出したわけです。
ドイツ政府は採算を考えず、国営の鉄道システムも構築しています。
ドイツは政府が積極的に支援する事で、生産力を高めイギリスを猛追したと言えるでしょう。
イギリスは海軍力ではアメリカやドイツ以上のものは持っていましたが、工業生産力では非常に苦しい立場でした。
イギリスが同盟国として日本を選んだ理由
イギリスが日本を同盟国に選んだ理由として、日本が人口大国だったのも大きいと言えます。
意外に思うかも知れませんが、1900年頃で考えるとイギリスよりも日本の方が人口が多かったわけです。
国名 | 人口 |
日本 | 4384万人 |
イギリス | 4115万人 |
さらに、日本人は欧米のやり方を受け入れ工業生産力の拡大に務めていた時期でもあります。
イギリスは日本のやり方を見て将来性があると判断したとも考えられます。
日英同盟が結ばれた当時ですが、海軍力は間違いなくイギリス海軍が世界最強でしたが、ここでもドイツが猛追していました。
日英同盟が結ばれる頃より、ドイツは海軍力でもメキメキと実力をつける事になります。
日英同盟が結ばれる頃には、イギリスが世界を席巻し好き勝手にやれる時代ではなかったわけです。
イギリスの脅威はロシア帝国だけではなく、ドイツも大きな脅威になりつつあったと言えるでしょう。
こうした中で近代化に積極的で人口も多い日本はイギリスにとってもよく見えたはずです。
イギリスは同盟国を必要としていた
イギリスは東アジアの利権を守る為にも、同盟国を必要としていた事は先に述べまし。
何度もいいますが、1900年頃のイギリスの覇権の維持が難しく、本国から遠く離れた東アジアでも利権を守る切る事が極めて困難だったわけです。
極東で問題が起きた時に、イギリス海軍は軍艦を派遣できるのかも分からない様な状態でした。
イギリスは海軍力でドイツを倒し、インドではロシアとのグレートゲームで争い勝利するだけの自信は無かったのでしょう。
こうした時に、ロシアと敵対関係となりうるであろう日本は魅力的に映ったはずです。
一つの見解として、日本がイギリスに同盟を申し込まなくても、イギリス側から日本に同盟を申し込んだのではないかとする説もあります。