名前 | 晋の昭侯 |
本名 | 姫伯 |
生没年 | 生年不明ー紀元前739年 |
一族 | 父:晋の文侯 子:晋の孝侯 叔父:成師 |
年表 | 紀元前745年 成師を曲沃に封じる |
紀元前741年 周の平王を少鄂に遷す |
晋の昭侯は春秋戦国時代の晋の君主であり、史記にも名前が登場します。
晋の昭侯の父親は晋の文侯であり、周の東遷において大きな役割を果たしました。
ただし、晋の文侯の時代に周の東遷は完了してはおらず、昭侯に引き継がれる事になります。
晋の昭侯の時代に叔父の成師を曲沃に封じました。
晋の昭侯の死後に曲沃の勢力は拡大し、昭侯の子孫は数代後に曲沃の君主である晋の武公により滅ぼされる事になります。
それを考えれば、晋の昭侯は成師を曲沃に封じてしまったのは、過ちとも言えるでしょう。
今回は史記だけではなく国語や春秋左氏伝、竹書紀年、繋年などの記述を元に解説します。
成師を曲沃に封じる
紀元前746年に父親の晋の文侯が亡くなると、晋の昭侯が晋侯として立ちました。
当時の晋の国内では晋の文侯の弟の成師に人望が集まっていおり、晋の昭侯は大邑である曲沃を成師に与えています。
晋の首都である翼よりも曲沃の方が大きな邑だった話もあり、師服などは「晋の混乱は曲沃から起きる」と予言しました。
晋の昭侯としては国内で人気のある成師に曲沃を与える事で、求心力を増そうとしたのかも知れません。
しかし、成師を曲沃に封じてしまったのは、後の事を考えれば悪手だったと言わざるを得ないでしょう。
成師は曲沃の桓叔と呼ばれる様になり、欒賓を重用しました。
尚、晋の昭侯としては成師は警戒したのかも知れませんが、年齢的に考えて自分よりも先に亡くなると考えた可能性もあります。
成師の生まれは紀元前802年であり、この時には既に60にも届くような年齢になっていた事から、昭侯としては成師はいつ死んでもおかしくはないと考えたのかも知れません。
ただし、成師は当時としては長寿であり、昭侯の予想を超える程の長生きをする事になります。
王都に擁立
話しは遡りますが、竹書紀年や繋年の記述を元に考えると、周の幽王が亡くなり西周王朝が滅亡すると、周の平王と携王による二王朝並立時代となります。
しかし、紀元前750年に晋の文侯により、周の携王が殺害され、周王朝は一つに統一される事になります。
周の携王が滅んでも9年間も周の平王は王都に入る事が出来ず、その後に晋が平王を少鄂で擁立したわけです。
つまり、741年まで周の平王は正式な周王として認められておらず、混乱があった事が分かります。
晋の文侯が亡くなったのは紀元前746年であり、周王不在の時期に晋の昭侯は晋侯として立った事になります。
周の平王には申、鄭、晋、魯などの諸侯が味方していましたが、最大の勢力は晋だったはずです。
こうした中で晋の昭侯がイニシアティブを取り、周の平王を少鄂に擁立したのでしょう。
晋の文侯が紀元前746年に亡くなった時に、鄭の武公が主導権を握る可能性もあったかと思いますが、鄭の武公は紀元前744年に没しました。
晋の昭侯は幸運にも恵まれ周王を擁立する事が出来たとも言えます。
晋の昭侯の最後
晋の昭侯は晋の平王を擁立しキングメーカーになったかに思えましたが、呆気ない最後が待っていました。
史記によると晋の昭侯の7年(紀元前739年)に晋の大臣である潘父に、昭侯は殺害されたとあります。
潘父は昭侯を討つと桓叔を迎えようとしており、曲沃の桓叔と通じていたのでしょう。
桓叔の方でも晋の君主になる為に、翼に入ろうとしますが、晋の大夫たちは、桓叔を迎撃し打ち破りました。
桓叔は戦いに敗れ曲沃に戻る事になります。
晋の昭侯は周王を補佐する最たる立場にいましたが、呆気なく世を去りました。
この後に、晋の本家では昭侯の子である孝侯が立ちますが、晋は本家の翼と分家の曲沃の戦いが続く事になります。
晋の昭侯の死により、晋は分裂したとも言えるでしょう。
尚、周王朝に最も影響力を持った晋ですが、内乱の突入した事で、鄭が主導する事になります。
晋の昭侯が亡くなった翌年である紀元前738年に、周の平王は洛陽に移り、これにより周の東遷は完了しました。
晋の昭侯が亡くなった事で、鄭の荘公が周の王室内で強い力を持つ事になります。
先代:文侯 | 晋の昭侯 | 次代:孝公 |