春秋戦国時代

春秋戦国時代のあらすじを分かりやすく解説

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前春秋戦国時代
時代紀元前770年ー紀元前221年
年表紀元前770年 周の東遷
紀元前632年 城濮の戦い
紀元前597年 邲の戦い
紀元前453年 晋陽の戦い
紀元前403年 が諸侯として認められる
紀元前342年 馬陵の戦い
紀元前284年 済西の戦い
紀元前260年 長平の戦い
紀元前241年 函谷関の戦い
紀元前221年 の天下統一
コメント五覇七雄の時代

春秋戦国時代は西周王朝が崩壊し、周の東遷があった紀元前770年から秦の始皇帝による統一までの紀元前221年を指す事が多いです。

春秋戦国時代とは周の統治能力が衰退し諸侯同士で争う時代だったと言えるでしょう。

春秋時代は覇者の時代と言ってもよく、諸侯同盟が結成され尊王攘夷を旗印に掲げ外部勢力と戦った時代でもあります。

春秋時代は周王の権威が残っていましたが、戦国時代になると周が分裂し、諸侯が互いに王と呼び合い戦国七雄を中心に覇を競った時代でもあります。

戦国七雄の中でが強大となり各国を滅ぼし、紀元前221年に天下統一し、この時を以って春秋戦国時代は終焉を告げました。

尚、春秋時代と戦国時代の境目は様々な説があり、晋の分裂が決定的となった晋陽の戦いを境とする場合もあればが諸侯として認められた紀元前403年を指す場合もあります。

春秋時代と戦国時代の分かれ目は専門家によっても違うと言えるでしょう。

春秋戦国時代の「春秋」の名前の由来は魯の年代記(春秋)からであり、戦国時代の名前の由来も「戦国策」なる書物からです。

今回は五覇七雄の戦いでもある春秋戦国時代の史実のあらすじを分かりやすく解説します。

因みに、春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムが人気ですが、キングダムの世界は春秋戦国時代の末期の話です。

尚、日本人にもなじみ深い三国志は春秋戦国時代よりも400年ほど後の時代のお話となります。

西周王朝の崩壊

西周王朝の最後の君主である周の幽王褒姒を寵愛し、国を乱したと伝わっていますが犬戎らの攻撃を受けて亡くなりました。

周の幽王が亡くなった時に後継者となりうる勢力は鄭の桓公、周の平王、周の携王の三名がいました。

史記だと鄭の桓公は周の幽王と共に亡くなった事になっていますが、最近の研究では周の幽王の後継者の一人として目されたとされています。

後に鄭の桓公の後継者となった鄭の武公は晋の文侯と共に周の平王に与し、紀元前750年には晋の文侯が周の携王を殺害し、周を統一しました。

周の平王は洛陽におり東周が始り名実共に春秋戦国時代に入ったと言えるでしょう。

覇者の時代の始まり

周王朝の最初期は周の平王を晋の文侯と鄭の武公で輔弼する形でした。

746年頃に晋の文侯が亡くなると、晋は翼の本家と曲沃の分家で争う形となります。

晋の内乱が長く続いた事で、晋では他国を見るだけの余裕がなくなります。

こうなると鄭の武公が周王朝の内部で大きな力を持つ事になったわけです。

鄭は武公が亡くなると後継者争いは起きましたが、鄭の荘公の一代で終わっており、鄭は周の卿にもなっており内部で力を持つに至りました。

周王の方では鄭の荘公の力を抑制しようと思ったのか、虢公を卿とし重用し、鄭の荘公とも対立する様になります。

周の桓王は紀元前707年に陳・蔡・虢・衛らの軍と鄭を攻めますが、返り討ちにされました。

鄭は斉の救援に兵を出したりもしており、鄭の荘公が春秋時代の覇者の先駆けとも呼ばれているわけです。

ただし、鄭の荘公の没後に後継者争いがあり、鄭は弱体化しました。

最初の覇者・斉の桓公

斉は周の文王の軍師とも言える太公望呂尚が祖と言われる国ですが、第14代の斉の襄公は暴君であり身の危険を感じた公子糾は魯に、公子小白は莒に亡命しました。

この時に、公子糾の側近となっていたのが管仲と召忽であり、小白の側近になっていたのが鮑叔でした。

お互いに別の主君には仕えていましたが管仲と鮑叔は、管鮑の交わりと呼ばれる程の親しい仲だったわけです。

斉の襄公は恨みを買っており紀元前686年に公孫無知に殺害され、公孫無知もまた雍廩により命を落としました。

斉では君主が不在となってしまい公子糾と公子小白はいち早く斉に戻り斉公として立つ事を目指す事になります。

公子糾の参謀である管仲は自ら弓兵を率いて小白を暗殺しようとしますが失敗に終わり、小白が先に斉に帰還しました。

小白は斉公として即位し後に斉の桓公と呼ばれる事になります。

公子糾は魯に戻りますが、斉の桓公は公子糾の首を魯の要求しました。

ここで公子糾と召忽は世を去りますが、管仲は捕らえられて斉の桓公の前に行くと、鮑叔の推薦もあり斉の桓公に仕える事になります。

管仲は斉の桓公に「倉廩実ちて礼節を知る」と説き斉の桓公に仕える事になったのは有名です。

管仲は斉の桓公に富国強兵を説き宰相に任じられる事になります。

斉の桓公と管仲は斉の国力を拝啓に周王室の乱を鎮めたり、斉に従わぬ国を滅ぼし、が山戎の攻撃を受ければ、燕の荘公の救援の赴きました。

斉は中原諸侯である衛、鄭、陳、宋などの諸侯と会盟を行い諸侯同盟の頭となり、周王朝からは覇者として認定されています。

斉は西は洛陽の周王室まで影響力を高め天下第一の勢力となります。

(紀元前643年の勢力図・画像:YouTube

しかし、管仲が亡くなると斉の桓公は易牙、開方、豎刁を近づけ国政は乱れ、斉の桓公が亡くなると後継者争いが勃発し、斉は国力を落す事になります。

尚、斉の桓公は春秋五覇の一人に必ず数えられますが、評価の分かれる君主でもあります。

因みに、斉の桓公の時代に晋の曲沃の分家が翼の本家を滅ぼし、晋の武公により統一されました。

宋襄の仁

斉の桓公は生前に斉の孝公を後継者に指名し、後見人として宋の襄公を指名していました。

斉の桓公が亡くなると斉では公子たちが後継者を名乗り内乱状態となり、斉の孝公は宋へ亡命しました。

宋の襄公は斉の孝公の事を任されていた事もあり、各国に呼び掛けて連合軍を結成し斉の昭公を斉に入れて即位させています。

宋の襄公は鮮やかに斉の内乱を鎮圧したわけです。

ここで宋の襄公に野心が芽生えたのか、自らが覇者となる為に動き出す事になります。

宋は中堅国でありながら会盟に大国のを招きました。

楚の成王は宋が会盟を開く事が気に入らず、会盟の場所で宋の襄公を捕える暴挙に出ますが、目夷の機転もあり宋の襄公は釈放されました。

後に宋は楚と泓水の戦いが起こり、宋の襄公は寡兵でありながらも「困難につけ込むのは君子のするべき事ではない」と考え、楚軍が川を渡り陣形が整った上で攻撃を仕掛け大敗北を喫しています。

これが宋襄の仁の語源になった話であり、泓水の戦いで宋の襄公は負傷し、この時の傷が元で亡くなる事になります。

晋の覇権

晋の献公には太子の申生だけではなく、重耳、夷吾などの公子がいました。

紀元前672年に晋の献公は驪戎の娘である驪姫を手に入れますが、これにより晋が乱れる事になります。

晋の献公は荀息の仮道伐虢の計で虢やを滅ぼすなど大きく領土を拡げましたが、驪姫を重用した事で後継者争いが勃発する事になります。

驪姫は自らの子である奚斉を後継者にする為に暗躍し、最後は力業で晋の公子を殺害しようとし、申生は自害しますが重耳と夷吾は逃亡しました。

晋では献公が亡くなると大臣の里克や丕鄭が動き出し、驪姫と子の奚斉と卓子を殺害しています。

里克らは重耳を晋の君主に迎え入れようとしますが、断られた事で夷吾を晋公として立てました。

これが晋の恵公です。

晋の恵公は翟にいる重耳を殺害しようとしますが、重耳は翟を離れ他国を亡命する事になります。

重耳の放浪生活が始まりますが、食料に困った時に民衆に「土」を出されたり、曹の共公に無礼をされ衛の文公には相手にもされませんでした。

重耳は小国では相手にされませんでしたが、宋の襄公は泓水の戦いで敗れた後で負傷していたにも関わらず重耳と面会し礼遇し、斉の桓公や楚の成王などは重耳を高く評価し持て成しています。

晋では恵公が秦の穆公に韓原の戦いで敗れ捕虜となりますが釈放されるなどがありました。

晋の恵公が亡くなると、晋の懐公が即位しますが、秦との仲は冷え切っており、秦の穆公は重耳を晋に入れようと画策します。

重耳は秦軍に守られて晋の懐公の軍を破り晋公となりました。

これが晋の文公です。

重耳は亡命生活19年で晋公として立ちました。

晋の文公は即位すると城濮の戦いでの子玉を破り覇者への道を駆け上る事になります。

晋の文公は斉の桓公と並び春秋五覇の一人に必ず選ばれる人物です。

重耳の亡命生活を支えた趙衰、狐偃、先軫らは重用され、介子推などは義憤により後世に名を残しました。

尚、重耳を晋に入れた秦の穆公も春秋五覇の一人に数えられる事があります。

晋は重耳が覇者となり、春秋時代に覇権を握りました。

これが晋覇の始まりです。

楚の覇権

晋の文公が亡くなると、晋の襄公が後継者となりますが、この頃からと戦うなど晋は停滞する事になります。

楚の成王は太子を変更しようとするなどもあり、672年に息子の熊商臣により殺害されました。

熊商臣が楚の穆王であり、周辺の小国を滅ぼすなどもしましたが、治世12年で世を去る事になります。

楚の穆王の後継者となったのが、楚の荘王であり、春秋五覇の一人に数えられる事もあります。

楚の荘王は「鳴かず飛ばず」や「鼎の軽重を問う」の逸話でも知られる人物です。

楚の荘王は暗君の振りをして臣下を見極め、最終的に佞臣を排除し孫叔敖、伍挙、蘇従らを重用し国力を高めました。

紀元前597年の邲の戦いで楚の荘王は荀林父率いる晋軍を破り中華に名を轟かせています。

楚の荘王の時代は春秋戦国時代を通してが最も輝いていた時代だと言えるでしょう。

ただし、楚は共王の時代である紀元前575年に鄢陵の戦いで、欒書率いる晋軍に敗れ、最強国の座を名実共に手放しています

春秋時代の形勢

春秋時代の形勢を考えると晋、楚、斉、秦の四強時代だったとか、晋と楚の二強にと斉が脇を固める形だったと思われがちです。

しかし、春秋五覇に選ばれる人物を晋、楚、斉、秦で見ると、次の通りとなります。

文公襄公景公悼公
荘王
桓公
穆公

上記の図を見ると分かりますますが、春秋五覇に選ばれた人物は晋が4名で圧倒的に多く、楚、斉、秦の君主は一人しかいません。

(画像:YouTube

これらを考慮すると春秋時代の中心国は中原を制した晋であり楚、斉、秦などの国々が囲む形だったとも言えるでしょう。

春秋時代が始まった頃には200を超える国があったとされていますが、終わる頃には20にも満たない国しか残ってはいませんでした。

諸子百家の登場

春秋時代は覇者の時代とも言われますが、多くの国が亡ぶ中で残った諸侯は生き残りの道を画策する事になります。

こうした中で様々な説が出され分類すると儒家、道家、墨家、法家、陰陽家、名家、縦横家、雑家、農家、小説家、兵家の11に分類され、これらを纏めて諸子百家と呼んだりもします。

諸子百家の中には自説を諸侯に説き宰相の身分になった者まで出ました。

孔子などは儒家の代表格であり、弟子には顔回や子貢などがおり、各国を巡り自説を説いたりもしています。

孔子は一時は魯で大司寇となりますが、結局は用いられる事はありませんでした。

尚、孔子は大司寇に就任してから僅か7日で多くの弟子を取られた少正卯を処刑した話しがあり、孔子と言っても完全なる聖人ではなかった事が分かるはずです。

斉の晏嬰なども孔子を批判しており、孔子は理想主義だったと言えるでしょう。

ただし、孔子が後世に残した影響力は余りにも大きかったと言えます。

呉越の戦い

呉の強勢

春秋時代の後期にでは後継者争いを制した楚の平王の時代となっていました。

楚の平王は費無忌の讒言により、太子建を廃し教育係の伍奢を殺害しようとします。

楚の平王は伍奢を捕え息子の伍尚と伍子胥に出頭命令を出しますが、伍尚は出頭し伍子胥は出奔しました。

楚の平王は伍奢と伍尚を処刑し、これにより伍子胥は楚の平王に深い恨みを抱く事になります。

伍子胥は最初に鄭に行きますが、最終的に苦難の道がありながらも呉に辿り着き公子光を頼りました。

伍子胥は呉王僚に楚を討つ様に勧めますが、公子光が反対した事で実現には至らなかったわけです。

公子光は王位継承に不満であり野心を持っており、これを察知した伍子胥は暗殺者の専諸を公子光に紹介する事になります。

伍子胥は在野に降りますが、後に公子光は専諸を使って呉王僚を暗殺しました。

公子光が呉王闔閭となり伍子胥は孫武と共に仕える事になります。

呉は後に紀元前506年の柏挙の戦いで楚に大勝し首都の郢を占拠するまでに至りました。

この時には楚の平王は亡くなっており、楚の昭王の時代になっていましたが、首都を落された昭王は郢から逃亡する事になります。

伍子胥は郢に入ると楚の平王の墓を暴き死体に鞭を打った話があり、これが「死屍に鞭打つ」の語源となっています。

伍子胥の楚の平王に対する恨みの深さが分かる逸話でもあります。

闔閭は楚に留まり楚の昭王の行方を探しますが、こうしている間に、楚の申包胥が秦の哀王から援軍を引き出し呉軍に決戦を挑む事になります。

さらに、呉の本国では闔閭の弟の夫概が勝手に帰国し独立し、隣国の越も動き出した事で、呉軍は楚から兵を引きました。

春秋の大国であった楚が新興国の呉に壊滅状態にされた事件は中華を震撼させた事でしょう。

呉王夫差と越王勾践

紀元前496年に越王の允常が没すると勾践が立ちました。

呉は允常の死を好機と考え闔閭が総大将となり兵を率いて越に侵攻したわけです。

呉が越を攻めた事で檇李の戦いが勃発する事になります。

檇李の戦いでは越は奇策を使い呉軍を破り闔閭は、この時の負傷が元で亡くなりました。

新たに呉王となった夫差は父親を殺害された恨みを忘れぬ為に、薪の上で寝たとする話が残っています。

呉が復讐の機会を狙っている事を知った越王勾践は先制攻撃を考えて呉を攻撃しました。

越の重臣である范蠡は反対しましたが、勾践は出陣したわけです。

呉王夫差は夫椒山の戦いで越軍を多いに破り、越王勾践を会稽山に包囲しました。

越王勾践は文種を派遣しい夫差に命乞いをし自らは下僕になるとまで言い出したわけです。

夫差は許そうとし伍子胥は反対しますが、伯嚭に賄賂を渡した事が功を奏し、越は許される事になります。

越は呉の属国の様な立場となってしまいますが、国は残ったわけです。

呉の滅亡

越王勾践は国に戻ると、范蠡の策に従い絶世の美女と呼ばれた西施を呉王夫差の元に送りました。

呉王夫差は西施を可愛がり、伍子胥の諫言に耳を貸さなくなっていきます。

越王勾践の方では会稽の恥を忘れない為に、苦い胆を舐めたと言います。

呉王夫差が薪の上で寝た話しと合わせて臥薪嘗胆の諺となっています。

越王勾践は軍事は范蠡に任せ内政は文種に任せる事にしました。

斉の景公が亡くなると斉の国内で揉め魯を攻撃すると、孔子は魯を心配し呉王夫差の元に弟子の子貢を派遣したわけです。

呉王夫差は子貢の話を聞くと、魯を救う大義面分も得た事で、斉を攻撃しました。

呉軍は艾陵の戦いで多いに斉軍を破る事になります。

(紀元前484年の勢力図)

伍子胥は斉を攻めるのに反対でしたが、斉に大勝利を挙げた事で、呉王夫差は益々伍子胥のいう事を聞かなくなります。

さらに越では伯嚭に賄賂を贈り伍子胥を讒言した事で、夫差は伍子胥を処刑してしまいました。

この時の呉軍は強勢であり黄池に晋の定公や魯の哀公らを集めて会盟を主催しています。

これが黄池の会であり、晋が呉に会盟の長を譲れば呉が覇者として認定されるわけです。

黄池の会を見ると史記では場所によって呉が盟主になっていたり、晋が盟主になっていたりしており、どちらが覇者となったのかはよく分かりません。

それでも、この時に越が呉を攻撃しており、晋でも六卿と呼ばれる大臣が権力を握っている事から、晋も呉も国の状態は健全ではなかったわけです。

黄池の会を主催した夫差ですが、越の侵攻を知ると、急いで兵を返しますが、都は陥落し太子が捕虜となるなど散々な状態でした。

ここから越と呉の形成が逆転し、越王勾践は呉を攻撃し姑蘇山に夫差を追い詰めました。

夫差は許しを請い勾践は過去に助けられていた事から夫差を許そうとしますが、范蠡は反対しています。

越王勾践は夫差を憐れみ呉国は没収し許そうとしますが、夫差が自刃した事で呉は滅亡しています。

これが呉越同舟や様々な逸話を生んだ呉越の戦いであり、越王勾践は覇者として認められる事になります。

尚、呉越戦争の呉王闔閭、夫差、越王勾践は春秋五覇の一人として選ばれる事もあります。

覇者体制の矛盾

話しは前後しますが、呉が強大になりを脅かし始めた頃には、楚は北上し中原への進出が出来ない状態となりました。

こうした中で宋の向戌が呼びかけにより、紀元前546年に弭兵の会が行われ、晋と楚の間で講和が行われ平和が訪れる事になります。

晋は趙武を派遣し楚は屈建が宋に行き盟約を結ぶ事になります。

晋や楚の傘下の諸国も弭兵の会に参加しルールが決められました。

春秋戦国時代と言えば戦ってばかりのイメージがあるのかも知れませんが、晋と楚が盟約を結んだ事で平和に大きく前進したわけです。

ここで、覇者体制の矛盾が噴出する事になります。

晋の傘下の国々は晋の軍事力により、外部の敵から守って貰う代わりに、晋に対し莫大な貢納をしていました。

しかし、晋と楚の間で停戦が行われてしまえば、戦争が激減し同盟国は莫大な貢納を晋に収めるだけの体制になってしまうわけです。

他にも戦争が無くなってしまえば、手柄を立てたものに与える土地も無くなり、各国で行き詰まる事になります。

覇者体制の矛盾が表面化したのか紀元前506年の召陵の会が晋が主宰した最後の会盟となります。

こうした中で晋を覇者とする同盟は衛や鄭が斉との同盟を締結し、魯も斉の傘下に入り晋の同盟国の大半は離脱してしまいました。

尚、晋の同盟から離脱した鄭は許を滅ぼし、宋は曹を滅ぼすなどしています。

晋の覇者体制の崩壊により弱小国は滅亡したとも言えるでしょう。

晋の公室の弱体化

史記を見ると晋は平公の時代から公室が弱くなり、大臣の六卿が強大になって行った事が書かれています。

叔向が晋の平公を補佐した時代はマシな方であり、それ以後は晋の公室の弱体化が著しく、代わりに六卿が強大になっていきます。

六卿の最上位の人物は晋の正卿となり政務を見ますが、他の卿たちも外交において重要な役割を果たした事が分かっています。

六卿の士氏が呉や衛、魯との交渉を担当したり、中行氏が東陽制圧を担当し、智氏が晋と斉の政略結婚を担当し斉女を晋に嫁がせるなどをしました。

他国が晋と交渉する場合は窓口になっていたのが、六卿を代表する人々であり、決められた世族が担当したという事です。

勿論、他国と六卿は長年の誼もあり結託し、他国は六卿に賄賂を贈り有利に進める様に依頼し、六卿も他国からの財貨を得る事で裕福になりました。

晋の卿の中では他国から貪りとり強大になった話もあります。

こうした晋の状況を見て鄭の子産は「晋政多門」の言葉を残しており、晋では国として一貫した行動がとりにくい状態となります。

さらに、六卿らは晋の傘下の国々が晋に収める貢納にまで手を付けるまでになりました。

紀元前506年の召陵の会以降に盟約が行われなくなるのには、晋の内部事情も関係していたわけです。

これにより晋の公室はお飾りとなり、六卿が公室を上回る力を手に入れる事になります。

戦国時代の始まり

晋を覇者とする同盟は解体されますが、晋の国内では紀元前497年に六卿内の范氏・中行氏と智氏、韓氏、魏氏、趙氏の間で内紛となります。

范氏・中行氏に斉が味方した事で、晋の内乱は長期化し、春秋時代を代表する晋の覇者体制は完全に終了したと言えるでしょう。

晋の内紛により范氏・中行氏が滅び智伯及び、が残りました。

晋では趙鞅が正卿となれば自勢力拡大の為に衛を攻撃し、智伯が正卿となれば鄭を攻撃するなど、晋の君主はお飾りの状態となっていました。

こうした中で智伯は魏や韓と結託し、趙襄子が籠る晋陽を攻撃する事になります。

晋陽の戦いでは智伯は趙を滅ぼす直前まで行きますが、趙襄子の宰相である張孟談が魏桓子と韓康子を寝返らせる事に成功しました。

形勢は逆転し趙、魏、韓は智伯を討ち取りました。

453年に晋陽の戦いが終了し智伯が滅び趙、魏、韓が生き残ったわけですが、晋陽の戦いが起きた453年を以って春秋時代と戦国時代の境目とする専門家は多いです。

ただし、先に述べたように春秋戦国時代の分け方に関しては専門家によって異なり、実際に当時の人が453年を以って春秋時代と戦国時代の分かれ目だと感じた事はないはずです。

春秋時代・戦国時代の分け方は後世の歴史家たちによる分類に過ぎません。

尚、智伯の領土は趙、魏、韓で分割されますが、趙が多くの領地を貰い趙襄子が正卿となり、趙が最強国となります。

智伯の土地を趙、魏、韓で分けてしまったのに納得できないのが、晋の出公であり、斉や魯の力を借りて趙、魏、韓を討とうとしますが、結局はに亡命しました。

晋では哀公が即位しますが、名目上の君主でしかありませんでした。

覇者体制の再構築

趙襄子は正卿となりますが、政治力を発揮し領土を拡大しようとせず、北方などの異民族討伐により領土を拡大しようとします。

趙襄子の時代に趙、魏、韓は分裂する方向に進む事になります。

趙襄子が没すると趙桓子と趙の献公の間で後継者争いが勃発し、趙の献公の勢力が最終的に勝利しますが、晋の正卿の座は魏斯(魏の文侯)に移りました。

魏斯は安邑を本拠地とし、李克、呉起楽羊西門豹らの名臣を起用し、勢力拡大を図る事になります。

趙が衛の攻略が順調に進まず、も鄭への侵攻を始めますが、、韓が領土拡大で苦戦する中で、は呉起の活躍によりから西河の地を奪い勢力拡大に成功し、三晋で最大勢力となりました。

さらに、魏斯は晋の幽公が盗賊により殺害されると、晋の混乱を収め晋の烈公を即位させるなど、名声を高める事になります。

魏斯は政治力を発揮し晋の公室の権威を利用し、さらに周の威烈王の言葉も引き出し魏、趙、韓の連合軍を結成し、斉を破りました。

斉を破った魏、趙、韓の勢力は周の威烈王により諸侯として認められる事になります。

晋の烈公も斉、魯、宋、衛、鄭を率いて周王朝へ入朝するなど、覇者の復活とも言うべき振る舞いを見せています。

魏の文侯の政策により、覇者体制は復活を見せたわけです。

(紀元前401年の勢力図)

の領地は飛び地になっており、普通で考えれば守りにくい地形ですが、晋の公室の権威を利用し、魏、韓が同じ国としてみる事で飛び地であっても勢力拡大が容易だったわけです。

資治通鑑では紀元前403年を以って春秋戦国時代の分け目としています。

魏、趙、韓は諸侯となり晋から名実共に独立した様に思われがちですが、実際には晋の公室は「公」であり、魏、趙、韓は一段下の「侯」の身分であり、魏、趙、韓は晋の家来としての立場を保つ事になります。

魏の武侯の時代になっても魏は強大であり、を破り周王朝や晋公を奉じて、中原を斉や秦、楚から守る覇者体制を構築する事になります。

魏の武侯は周の安王に働きかけ斉の康公を廃し、実力者の田和を諸侯として認めさせました。

しかし、魏のやり方にや韓は不満であり不協和音が流れる事になります。

韓も紀元前375年に鄭を滅ぼすなどしていますが、韓が鄭を滅ぼすのを魏が黙認したのは、韓を懐柔したかったからだともされているわけです。

紀元前374年に魏の武侯は晋の孝公に働きかけ韓の鄭への領有を認めさせています。

覇者体制の終焉

魏の武侯の後期には三晋の勢力は独自になどと誼を通じるなど三晋は崩壊に向かっていく事になります。

が紀元前386年に邯鄲に遷都し、は374年に新鄭に遷都しています。

紀元前370年に魏の武侯が没すると、魏罃と仲緩の間で後継者争いが勃発しました。

の後継者争いが勃発した隙に、趙と韓は晋の孝公を絳から屯留に遷し、紀元前367年には周を分裂させ西周、東周としています。

これにより魏は晋公や周王を使って覇者体制を築く事が不可能となります。

魏の武公の死により覇者体制は終焉に向かったと言えるでしょう。

こうなると魏の東西に分かれた飛び地は不利に働く事になります。

三晋の勢力は中原の大都市を本拠地としました。

秦は簡公の時代から国君に専権強化を行い東進政策を始めました。

秦の献公の時代である紀元前364年には魏を破り6万の敵を斬首する大戦果を挙げています。

この時に周の顕王が秦に祝賀の使者を派遣していますが、周の領土は韓に囲まれており、韓の意向が働いたと考えられています。

魏は西方の安邑を本拠地としていましたが、紀元前趙が紀元前361年に大梁に遷都しました。

史記では秦の孝公が派遣した商鞅の軍に敗れて魏は東の大梁に遷都した話も記載されていますが、最近の研究では、それよりも早い段階で魏は大梁に遷都した事が分かっています。

紀元前360年には周王朝が秦に胙を贈っていますが、三晋が周王朝を介して秦を懐柔しようとした結果だとされています。

歴史を変えた鉄

春秋戦国時代の革命と言えば「鉄」を思い浮かべる人も多いはずです。

斉などでは塩を生業とした商業で国力を高めましたが、大半の国では「農業の発展=国力」でした。

過去には鉄の普及が春秋時代を終わらせたともされていましたが、現在では鉄が普及したのは戦国時代の中期だとする見解が有力です。

石制の農具では開墾出来ない荒れ地であっても鉄製農具を使えば開墾も可能となります。

鉄製農具だけではなく牛耕も普及し大量の余剰人口を養うことが可能となりました。

これにより都市が発展し都市には市が設置され周の布銭、の刀銭、の環銭、の蟻鼻銭などの青銅貨幣が用いられる様になり、高額取引になると黄金も使われる様になります。

が支配する中原では都市ごとに貨幣が鋳造され、大都市は高い自律性があった事が分かるはずです。

ただし、都市の髙い自律性は戦国時代の王であっても制御が難しい部分であり、国としての連帯行動を取りにくい要因にもなっています。

韓や魏などは中原の大都市を擁しましたが、大都市は自都市の防衛には積極的ですが、他の都市を救援しようとする意識は低かったわけです。

商鞅の変法

魏の恵王は公叔痤を宰相としていましたが、公叔痤が亡くなると食客だった商鞅を去りに移りました。

商鞅は秦の孝公に仕えて重用され、秦を法家の国へと生まれ変わらせたとされています。

紀元前344年に商鞅は秦の大良造に任じられており、秦の卿の中で最も立場が重い存在となりました。

司馬遷の史記には商鞅が行った様々な改革が記載されていますが、実際には戦国後期の法家による創作だともされています。

ただし、秦の孝公の元で商鞅が宰相をやっていた紀元前350年には咸陽に遷都し、県制の実地をしました。

秦では邑を統合し県とし中央から県令を派遣し治める様になり、紀元前349年には有秩史を設置した事も分かっています。

遊説の士

戦国時代は先に述べた様に諸子百家の遊説の士が活躍した時代でもあります。

戦国時代の初期は孔子の弟子である子夏や弟子たちを魏の文侯が側近として取り立てるなど、君主に助言をするのが主な役目でした。

しかし、魏の文侯や楚の悼王に仕えた呉起商鞅、蘇秦、張儀などになると大臣として重用されたわけです。

遊説の士は大臣にはなりましたが、基本的に国君の信用を元に成り立っていたわけであり、主君が亡くなると他国に亡命したり、処刑されるなどしています。

遊説の士を登用する事は、王の信頼を後ろ盾にした不安定な政権でもありました。

斉・魏・秦が王を名乗る

晋の静公の時代である349年に晋は遂に断絶しました。

これによりは晋の権威に頼る事は完全に不可能となり、周王朝に自ら覇者認定する様に迫ったわけです。

しかし、は魏が覇権を握るのを嫌がり、紀元前343年に周と共謀し秦の孝公を覇者としました。

魏の恵王は「夏王」を称し、周王朝の転覆を企てますが、斉の威王が派遣した田忌孫臏の軍に馬陵の戦いで大敗しています。

周ではを覇者認定していましたが、魏はこれを嫌がり、に接近し互いを「王」と呼び合う事で、周王朝と秦の覇権を否定しました。

これにより魏王及び斉王が誕生したわけです。

秦の恵王の時代になると、秦は魏に侵攻し魏の黄河よりも西の領地を奪う大戦果を挙げています。

秦も魏から多くの土地を奪うと、周王朝推戴をやめ紀元前325年に自ら王号を称す事になります。

周王朝による秩序が崩壊すると、諸子百家の孟子や荘子、許行や孫子、呉子などを纏めた兵家などが活躍する時代となったわけです。

戦国七雄の誕生

が没落すると、西のと東のが強大になり、中華の世界は二強五弱の体制へと移行しました。

弱国が手を結び強国に対峙する合従と強国が弱国から土地を強要する連衡が多く行われる様になります。

一般的には合従の元祖が蘇秦であり、連衡の元祖が張儀となっており、史記では二人が鬼谷子の元で修業した事になっており、同時代の人という事になっています。

しかし、史記の年表を見ても合致しない部分もあり、戦国縦横家書の発見により、張儀と蘇秦は同時代の人ではなく、張儀が先で蘇秦が後だという事が分かりました。

こうした中で紀元前323年に公孫衍が五国相王を成し遂げ、、中山らの国々も王号を称しています。

趙の武霊王は王号を名乗らなかった話もありますが、この頃には各国が王を名乗り戦国七雄が出そろったと言えるでしょう。

公孫衍は合従軍を率いて秦を攻撃しますが、斉や燕などが動かない問題もあり、秦からの撤退を余儀なくされています。

胡服騎射

中華の北方には匈奴や東胡などの遊牧民がおり、食料不足に陥ると南下し中華の国々を荒しまわっていました。

前四世紀の末位になると、と北方の国々は長城を築き遊牧民の南下を防ごうとしています。

趙の武霊王はこうした状況を憂慮し、国内を説得し胡服騎射を採用しました。

趙の武霊王は遊牧民の軍装を身に着け軍を改革し、最終的に中山国を滅ぼしています。

趙の武霊王は自ら秦に偵察に行くなど大胆な行動もありましたが、沙丘の乱による後継者争いにより命を落としました。

先ず隗より始めよ

では易王の時代に王号を称しましたが、燕王噲の時代になると臣下の子之に国訓の座を禅譲する事件が起こりました。

燕王噲の禅譲事件は神話の時代を除けば王莽の禅譲よりも早く、中国史上初の禅譲事件となります。

子之が王として振る舞うと大胆な人事を行い不満が噴出し、太子平との衝突もあり子之の乱へと発展しました。

燕の混乱を見た斉の宣王は孟子の進言もあり、燕へ大攻勢を仕掛け滅ぼしてしまったわけです。

2年間燕はに支配され燕の昭王が即位しますが、斉の属国となってしまいました。

燕の昭王は斉への復讐を考え郭隗に相談すると、郭隗は自分の為に豪邸を建てるなど重用する様に勧めました。

これが「先ず隗より始めよ」の語源になった話であり、郭隗を重用する事で、から劇辛、斉から鄒衍、魏から楽毅が集まってきました。

燕の昭王は人材の力で斉への復讐劇を成し遂げようとしたわけです。

燕の昭王の時代に秦開が東胡を破るなど、燕の領土を大きく広げています。

燕には人材が集まっており、燕の昭王は斉への復讐の機会を伺う事となります。

の方では紀元前312年に楚の懐王はとの友誼を捨て去り、秦と丹陽の戦いを起こしますが大敗を喫しました。

後に楚の懐王は秦に拘留され命を落とす事になります。

楚人は楚の懐王を憐れみ、秦末期に項梁項羽は楚王の子孫を探し出し、懐王を名乗らせ義帝とし反秦のシンボルにもなりました。

斉の崩壊と復興

戦国時代中期はの二強五弱の様そうだと伝えましたが、弱い方の五国も互いに争うなどしていました。

弱国が手を組まずに争った事で、秦は領土を拡げる事になります。

こうした中で斉に孟嘗君が現れ賢人の一人として名が通っていました。

戦国時代では遊説の士は大臣になる例も多かったわけですが、孟嘗君や戦国四君の時代になると遊説家たちは、各国の主君よりも一段下の大臣などに献策する事になります。

孟嘗君の賢人ぶりを聞いた秦の昭王は孟嘗君を秦に呼び出しますが、後に気が変わり孟嘗君を害しようとしました。

孟嘗君は食客の鶏鳴狗盗の活躍もあり、秦を脱出し帰国すると斉、魏、の合従軍を組織し秦を攻撃しています。

秦は合従軍に土地を割き和睦を申し入れています。

孟嘗君の名は天下に知れ渡りますが、斉の湣王は孟嘗君と対立する様になり、最終的に孟嘗君は魏に亡命しました。

秦の方では魏冄が白起を用いて紀元前293年の伊闕の戦いで勝利し韓、魏、東周の連合軍24万を斬る大戦果を挙げています。

紀元前288年には秦の昭王が西帝、斉の湣王が東帝と称しますが、半年ほどで取りやめました。

斉の湣王は紀元前286年に宋を滅ぼすなど絶頂期にいたわけです。

紀元前284年に燕の昭王はに呼びかけ、秦も加わり、趙、秦、魏、韓からなる合従軍を結成し、斉を攻撃しました。

趙の恵文王が楽毅に趙軍の指揮権を預けた事で、燕軍が合従軍の盟主となり斉を攻撃しています。

楽毅率いる合従軍は済西の戦いで斉軍を多いに破りました。

済西の戦いが終わると燕軍以外は兵を返しますが、燕軍だけは斉の首都・臨淄を攻撃し陥落させています。

が斉の援軍として淖歯を派遣しますが、淖歯は斉の湣王を殺害し、淖歯もまた王孫賈に討たれました。

斉では襄王が即位し莒で燕に抵抗し、即墨では田単が将軍となり燕軍と対峙ました。

楽毅は斉の80城を陥落させ、斉は莒と即墨を残すのみとなってしまいます。

(紀元前280年の勢力図)

このタイミングで燕の昭王が亡くなり、燕の恵王が即位しますが、楽毅とは折り合いが悪く、田単の計略により楽毅は戦場を去りました。

燕軍は騎劫が指揮する事になりましたが、田単により打ち破られ、燕は斉から奪った全ての土地を失っています。

斉は燕から領地を取り戻しましたが、国力はガタ落ちであり、ここから先は諸国の戦いを傍観するだけの存在となります。

斉が壊滅状態に陥った事で、秦の一強時代に突入しました。

趙の名臣

が弱体化しの一強時代となりましたが、では名臣たちが秦の侵攻を軍事・外交の両面で防ぐ事になります。

趙の廉頗は軍事において数多くの功績を立てており、藺相如和氏の壁を守り抜き、紀元前279年の黽池の会では、秦の昭王の策略を挫き趙の恵文王を立てる事に成功しました。

廉頗は藺相如の功績を憎む事もありましたが、後に廉頗と藺相如は刎頚の交わりを結び固い絆で結ばれた仲となります。

紀元前269年の閼与の戦いでは秦の胡傷を趙奢が大破しました。

廉頗、藺相如、趙奢の三名が揃って上卿にいる時代は趙が人材において最も輝いていた時代と言えるでしょう。

春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムでは秦の六大将軍と対峙する廉頗、藺相如、趙奢を三大天として、趙の最高位と位置付けています。

遠交近攻の策

戦国七雄の文句なしの最強国となったですが、秦の昭王の玉座が安泰というわけではありませんでした。

先代の秦の武王が亡くなった時に、魏冄が動き半ば強引に秦の昭王を即位させた経緯がありました。

秦では昭王の母親の宣太后が摂政となり、魏冄が宰相になった経緯があります。

魏冄が登用した白起は鄢・郢の戦いでの首都を陥落させ陳に走らせ、華陽の戦いではの連合軍を破るなど諸侯を弱体化させ秦の領土を大きく広げる事になります。

秦の領土は大きくなりましたが、秦の昭王はお飾りでしかなかったわけです。

こうした中で魏から亡命して来たのが、范雎であり遠交近攻の策や親族との在り方を秦の昭王に説きました。

秦の昭王は宣太后や魏冄を排除し、范雎を用いる事になります。

范雎は秦の丞相となりますが、范雎は魏の宰相である魏斉に恨みを持っており、秦の昭王は力添えをしました。

魏斉は虞卿と共に平原君の元に逃亡しますが、最後は信陵君に助けを求めますが、絶望して自害しています。

魏斉の首は秦に届けられました。

秦では范雎が説いた近くを攻撃し遠くと結ぶ遠交近攻の策が基本戦略となり、確実に領土を拡大していく事になります。

長平の戦い

ではの野王を攻め落とし、韓を南北に分断しようとしました。

野王が陥落すると、韓の北部の上党の地が孤立し、韓の首脳部は秦に割譲する事を約束しますが、靳黈が拒み上党太守を馮亭に交代させました。

しかし、馮亭も秦に降伏する気はなく、に降伏しようと動いています。

趙では孝成王が即位したばかりであり、平原君は上党を受け取るべきと言い、平陽君は受け取るべきではないと述べますが、趙の孝成王は平原君に命じて上党の降伏を受け入れる様に指示しました。

秦は手に入れるはずだった上党が得られず怒って趙を攻撃し、趙では廉頗に出撃を命じ、これにより長平の戦いが勃発しています。

秦の王齕は初戦では廉頗の軍を破りますが、廉頗は形勢不利とみるや守りを固めて秦軍と戦わなくなりました。

決戦を挑みたい秦軍と城に籠ったままで戦おうとしない趙軍という形成となります。

秦の首脳部は廉頗が将軍をしていては勝てぬと判断し、流言を趙に放ち「秦軍が恐れているのは趙括だ」と言わせました。

趙の孝成王は戦わぬ廉頗に苛立ちを覚え廉頗から趙括に将軍を変更しようとしますが、重病の藺相如が参内し趙の孝成王を諫め、趙括の母親が息子を将軍にしてはならないと反対しました。

趙括の母親は趙奢と比較し趙括が将軍の器ではないと知っており、藺相如も初陣の趙括では秦軍に勝てないと考えていたのでしょう。

趙の孝成王は藺相如らの諫めを聞かず、廉頗を更迭し趙括を将軍としました。

秦の方でも白起を将軍とし、趙括と戦わせますが、趙括は白起の囮に引っ掛かり兵を分断され兵站も絶たれ40万の兵を失う大敗北を喫しました。

趙括自身も戦死し、長平の戦いは幕を閉じる事になります。

尚、長平の戦いの後に白起は趙を滅ぼすべきだと考えますが、趙は蘇代を派遣し范雎を揺さぶり、秦の昭王は范雎の意見を聞き秦軍を停止させる事になります。

これにより白起と范雎は不和となり、最終的に白起は秦の昭王により自害を命じられました。

秦は王齕や王連、鄭安平らが趙の首都・邯鄲を囲みますが、平原君から援軍を引き出し春申君が楚軍を率いて邯鄲に到着し、でも信陵君が無理やり晋鄙から正規軍の指揮権を奪い趙を救いました。

秦は邯鄲を落す事が出来ず、趙は存続しました。

信陵君は趙を救いましたが、魏の正規軍を勝手に奪い取った事で、魏の安釐王の怒りを畏れ趙に留まる事になります。

尚、長平の戦い後に秦が直ぐに趙を攻撃し息の根を止めていたら、春秋戦国時代は、秦の昭王の時代に終わっていたのではないかとする見解もあります。

因みに、長平の戦いで趙は国力は大きく低下し、燕王喜は宰相の栗腹に趙を攻めさせますが、廉頗により大敗北を喫した話が残っています。

奇貨居くべし

秦では白起がいなくなってからも軍事では衰えを知らず、紀元前256年にが西周に向かって進軍すると赧王や西周の文公は土地を献上し降伏しました。

東周が残ってはいましたが、東周には周王はおらず、実質的な周王朝の滅亡とも言えるでしょう。

秦の昭王の時代には連年の様に諸侯を侵略していましたが、こうした中で大商人の呂不韋の人質になっている異人に目をつけました。

呂不韋は異人を奇貨居くべしと述べると接近し、異人に財貨を与え様々な有力者と交わらせています。

秦の昭王の太子が安国君でしたが、寵姫の華陽夫人との間に子が出来ず悩んでいました。

華陽夫人の前に呂不韋が現れると、異人を売り込んだわけです。

異人は子楚と名乗り華陽夫人の養子となり、安国君の太子に立てられる事になります。

ここまでは呂不韋も目論見通りでしたが、ここで思わぬ事態となります。

子楚が呂不韋の踊り子の趙姫を妻として迎えたいと述べますが、趙姫は既に呂不韋が手を付けており悩む事になります。

それでも、呂不韋は子楚の機嫌を損ねれば問題だと考え、趙姫を子楚に渡しました。

子楚と趙姫の間に出来た子が嬴政であり、後の始皇帝となります。

長く秦王の座にいた秦の昭王は紀元前251年に亡くなり、安国君が秦王となりました。

これが秦の孝文王であり、子楚は太子となります。

しかし、秦の孝文王は即位してから数日で亡くなってしまい子楚が秦王となりました。

これが秦の荘襄王です。

秦の荘襄王は呂不韋の功績を認め丞相とした事で、呂不韋は秦で権勢を極める事になります。

嬴政が秦王になる

秦の荘襄王は秦王となりますが、僅か3年ほどで亡くなってしまいました。

秦の荘襄王が亡くなると、嬴政が即位する事になります。

呂不韋秦王政の時代も丞相として重用される事になります。

秦王政は王齮蒙驁麃公らを将軍に任命しています。

荘襄王が亡くなり嬴政が秦王になった年に、戦国四君信陵君の合従軍を率いてを攻撃し黄河の外で蒙驁を破りました。

信陵君率いる合従軍は函谷関まで攻め寄せた所で兵を引いています。

信陵君は後に秦による離間の計で失脚し、酒浸りとなり亡くなっています。

秦は信陵君が亡くなった所で、蒙驁に魏を攻撃させ東郡を設置しました。

東郡の設置のより秦は東のと国境を接する様になり、天下統一が見えてきた事になります。

因みに、春秋戦国時代を題材にする漫画キングダムは嬴政が秦王になった所から物語が始まる事になります。

合従軍の終焉

紀元前241年に楚の春申君の主導による合従軍が結成されました。

春申君率いるの軍はに向かって進軍し、函谷関の戦いが勃発する事になります。

史記の趙世家によると同年に龐煖が趙、楚、魏、燕の合従軍を率いて秦を攻撃した記述があり、春申君と龐煖は示し合わせて行動していたのでしょう。

龐煖は秦の奥深くまで攻め込み蕞の戦いが起こりますが、結局は蕞を抜く事が出来ず撤退しました。

春申君の方でも函谷関を抜く事が出来ず撤退する事になります。

紀元前241年の合従軍は春秋戦国時代を通しての最後の合従軍でしたが、結果を残す事が出来ず、この時点で諸侯は束になっても秦には勝てないと悟って事でしょう。

秦は天下統一に向けて邁進する事になります。

尚、241年の合従軍ですが、秦から撤退した後に東方のを攻撃した話があります。

函谷関の戦いにより春申君は楚の考烈王の信任を失い最後は李園や李環の手に掛かり命を落とす事になりました。

呂不韋の失脚

呂不韋において丞相となり、次いで相国にもなっており権勢を極めていました。

呂不韋は戦国四君を真似るかの様に食客を集め、文化面でも呂氏春秋を編集するなどの功績があります。

しかし、呂不韋にも泣き所があり、趙姫との関係が表に出る事を恐れ、嫪毐なる男性を宦官に見立てて後宮に送り込む事にしました。

趙姫は嫪毐を重用し、嫪毐は呂不韋に並ぶほどの権勢を得る事になります。

嫪毐と趙姫の間には子が出来て、遂には秦王政を廃して、自分の子らを秦王にしようと企てたわけです。

嫪毐と趙姫の計画は漏れてしまい昌平君昌文君により鎮圧されました。

嫪毐の乱で取り調べをすると、呂不韋も関係している事が分かり呂不韋も失脚する事になります。

呂不韋は相国を罷免され自分の領地で暮らす様になりますが、呂不韋の名声は高く多くの者と交流していた事で、秦王政の怒りを買う事になります。

呂不韋は蜀への流罪を言い渡され、その途上で毒を仰いで世を去りました。

相国の呂不韋がいなくなった事で、秦王政の親政が始まる事になります。

韓非子

秦王政韓非子が書いた書物に強い感銘を受けました。

秦に仕えていた李斯は韓非子と共に荀子の下で学問を学んでおり、秦王政に韓非子が書いた書物だと伝える事になります。

秦王政はを攻撃し、韓では和平の使者として韓非子を派遣してきました。

秦王政は韓非子を気に入りますが、李斯や姚賈などとの人間関係のもつれなどもあり、韓非子はで命を落とす事になります。

韓非子は世を去りましたが、秦王政は法家の韓非子の思想を元に政治を行おうとした話もあります。

名将李牧

紀元前236年にを攻撃しますが、この隙に王翦楊端和桓齮に命じ趙を攻撃させました。

これが鄴攻めと呼ばれている戦いであり、秦は鄴を攻略し多くの土地を得る事になります。

このショックが大きかったのは、趙の悼襄王は同年に世を去りました。

紀元前234年には桓齮が趙の扈輒平陽の戦いで破り、趙兵10万を斬首する大戦果を挙げました。

ここで一気に秦が趙を滅ぼすかに見えましたが立ち塞がったのが北方の名将である李牧です。

李牧は勢いに乗る桓齮を宜安の戦いで破り、さらに攻め寄せてきた秦軍を番吾の戦いで破っています。

秦軍は李牧に連敗した事で、趙への侵攻を一旦は諦める事になります。

李牧は過去に匈奴の大軍を破った実績があり、極めて優秀な将軍だったと言えるでしょう。

秦の天下統一

韓の滅亡

李牧に敗れたわけですが、国力は戦国七雄の他の国々を圧倒しており、を攻撃対象に選びました。

この時点で秦と韓の国力差は20倍以上は軽くあったはずであり、韓が太刀打ち出来るような相手ではなかったわけです。

韓は治水事業者の鄭国を使って秦に土木工事をさせ、国力を削ごうとした計画も露見しており、李斯も韓を攻撃する様に進言しました。

秦王政内史騰に韓を攻略させ、韓王安が降伏した事で韓は滅亡しています。

韓が滅亡したのは紀元前230年となります。

後に韓の首都だった新鄭で反乱が起きますが、秦は鎮圧しました。

尚、秦末期や楚漢戦争で劉邦の軍師となった張良は韓の大臣の出身の人物であり、韓を滅ぼされた秦への恨みを晴らす為に始皇帝の命を狙う事になります。

趙の滅亡

を滅ぼした翌年に秦はを滅ぼす為に王翦楊端和羌瘣らに趙を攻撃させています。

趙の幽穆王李牧司馬尚に命じて、王翦らと対峙させますが膠着状態になりました。

は趙の佞臣である郭開韓倉春平君や幽穆王の母親である悼倡后に賄賂を贈る事になります。

郭開らへの賄賂は効果覿面であり、讒言により李牧は処刑され司馬尚は庶民に落されました。

李牧が世を去ると、王翦は3カ月ほどで趙の首都邯鄲を陥落させ、趙の幽穆王は捕虜となりました。

しかし、王族の趙嘉が代に逃亡し趙を存続させる事になります。

ただし、邯鄲が陥落した時点で趙の滅亡だと考える人も多いです。

趙嘉は代王嘉とも呼ばれ代で政権を打ち立てました。

尚、戦国策では司空馬なる人物が趙の滅亡を予言した話しが残っています。

燕太子丹と荊軻

が滅んだ事では国境を接する様になり、燕にも危機が訪れました。

ここで燕の太子丹は荊軻を得て、秦からの亡命者である樊於期の首を持たせ秦に向かわせています。

荊軻は秦舞陽と共に秦の宮廷に入りますが、秦舞陽がここで怖気付く事になります。

荊軻は刺客となり秦王政に襲い掛かりますが、暗殺は失敗に終わり荊軻も命を落としました。

燕の態度に激怒した秦王政は直ぐに王翦に燕を攻撃する様に命じています。

王翦率いる秦軍は燕の首都の薊を陥落させ、燕王喜は精鋭を率いて遼東半島に逃亡しました。

秦王政の暗殺を立案した燕の太子丹は李信に斬られたとも、燕王喜が派遣した刺客により命を落としたとも伝わっています。

燕は存続してはいますが、遼東半島を残すのみで風前の灯となってしまいました。

魏の滅亡

225年にの王賁はの大梁を囲みました。

魏王仮は大梁の城を守りますが、王賁の水攻めより城壁が壊れ降伏を決断しています。

これにより魏は滅亡しました。

戦国時代を通して魏は秦と戦い続けていましたが、遂に滅亡したわけです。

大梁は大都市ではありましたが、戦国時代末期の秦と魏の国力の圧倒的な開きにより滅んだとも言えるでしょう。

魏は中原の大都市を抱えていましたが、都市の自律性が高く都市同士の連携が悪い事で、秦に各個撃破されていったわけです。

尚、魏滅亡後であっても、魏に忠誠を尽くそうとした安陵君や唐且の逸話が残っています。

楚の滅亡

は亡命政権の代となっており、も遼東半島を残すのみであり、は天下統一まであと一歩の所まで来ました。

ここで秦軍を阻んだのが項燕となります。

秦は李信蒙恬が20万の兵で項燕に戦いを挑みますが、緒戦で勝利するも城父の戦いで敗れました。

秦軍に思わぬ所で土がついたわけです。

秦王政は再び楚を討つために王翦蒙武に楚の侵攻を命じる事になります。

この時に秦王政は60万もの大軍を王翦と蒙武に預けたと伝わっています。

王翦は項燕と対峙しますが、巧みな作戦により項燕の背後を突き楚軍は総崩れとなりました。

王翦はそのまま楚の首都である寿春に進撃し、楚王負芻を捕虜としています。

楚は滅亡したかに思えましたが、項燕が昌平君を擁立し楚王とし王翦の軍と戦う事になります。

楚は最後の力を振り絞っての戦いでしたが、正規軍は既に失われており王翦と蒙武の前に敗れ去り、楚は滅亡しました。

楚が滅亡した時に楚の南公は「楚はたとえ三家になろうとも秦を滅ぼすのは楚人なり」とする呪いの言葉を残しています。

楚の南公の預言は成就され、項燕の遺志は項梁項羽に引き継がれ、秦を滅ぼしました。

燕・代の滅亡

が滅亡した時点で残る国は、代、の三カ国しかない状態でした。

王賁李信に命じて遼東の燕を討たせると、燕王喜は呆気なく捕虜になります。

さらに、王賁、李信らは返す力で代王喜も捕虜としました。

この時点で残す敵は斉のみとなったわけです。

斉の滅亡

では斉王建が外戚の后勝を宰相にしていました。

斉は他国がに侵略されても延々と傍観し、秦と戦おうともしなかった国です。

しかし、秦が斉を生かしておく理由はなく王賁李信蒙恬の三将に斉の攻略を命じました。

斉の方でも身の危険を感じたのか秦への防備を固めますが、斉軍は秦軍と戦おうともせず、斉王建は降服する事になります。

これで秦以外の戦国七雄の国々が滅び、秦の天下統一が決まったわけです。

春秋戦国時代の初期には200もの諸侯がいたとされていますが、秦の勝利で幕を閉じる事になります。

紀元前221年に秦は天下統一を成し遂げました。

天下統一後の秦

春秋戦国時代の勝者となり500年を超える戦乱の世を終わらせたは国内の統一に邁進する事になります。

秦王政始皇帝を名乗り度量衡を整え、郡県制を設置するなど中央集権化を進めました。

秦は天下統一後には法治国家を強化し厳しく治める道を選びました。

春秋戦国時代の民は統一後の世界を夢見ていたはずですが、現実との違いに絶望した事でしょう。

始皇帝も各地を巡幸しましたが、民の喜ぶような政治は行わなかったわけです。

それでも、秦王政は栄華を極め蒙恬は北伐を行い匈奴を駆逐し万里の長城を築きました。

始皇帝自身は不老不死に憧れ徐福などの方士に莫大な資金を与えた話しがありますが、この辺りは真実かどうかは不明です。

始皇帝は長子の扶蘇を蒙恬に預け、自らは末子の胡亥、丞相の李斯、お気に入りの宦官である趙高、政務に実績がある蒙毅らと巡幸に出かけますが、病により亡くなりました。

ここで趙高が暗躍し胡亥を2世皇帝として即位させ、扶蘇や蒙恬、蒙毅を殺害する様に仕向けています。

秦は2世皇帝胡亥の時代となりますが、早々と陳勝呉広の乱が勃発し各地で反乱が相次ぎ、章邯王離が鎮圧に向かいますが、鉅鹿の戦いで楚の項羽に敗れました。

秦の宮廷では趙高の暴政があり一致団結出来ず、胡亥も趙高により殺害され、趙高も子嬰により暗殺されています。

子嬰は秦を立て直そうとしますが、既に劉邦が咸陽に迫っており、秦軍も敗れた事で降伏しました。

項羽が咸陽にやってくると子嬰を処刑し、これにより秦は滅亡したわけです。

春秋戦国時代を終わらせた秦は紀元前206年に滅亡しており、500年に及び戦乱を終わらせたにも関わらず、統一後は僅か15年で滅亡に至りました。

秦が滅亡すると項羽と劉邦の戦いである楚漢戦争に舞台は移り、勝者の劉邦が前漢の皇帝となります。

中華の歴史は前漢、新、後漢と時代は流れ三国志の時代となります。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細