鎌倉時代

五辻忠子は中流公家の娘だったが准后となる

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宮下悠史

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名前五辻忠子
読み方いつつじちゅうし/ただこ
別名藤原忠子、談天門院
生没年1268年ー1319年
時代鎌倉時代
一族父:五辻忠継、花山院師継
子:奨子内親王、後醍醐天皇(尊治)、性円法親王、承覚法親王

五辻忠子は後醍醐天皇の母親として有名な人物です。

五辻忠子は中流公家の娘であり、息子である後醍醐天皇も中々出世をする事が出来ませんでした。

後宇多天皇と五辻忠子の仲も上手くいっていなかったと考えられています。

しかし、五辻忠子は亀山上皇の寵愛を受ける様になり、准后となりました。

五辻忠子が准后となった事で尊治(後醍醐天皇)も親王宣下を受ける事が出来て天皇への道が開かれる事になります。

後醍醐天皇が践祚すると談天門院と呼ばれる事になり、天皇の母となりました。

五辻忠子は中流公家の娘でありながら出世はしましたが、最後まで後宇多法皇との仲は冷え切っていた様です。

中流公家の娘

五辻忠子は五辻忠継の娘として誕生しました。

父親の五辻忠継は従三位・参議までしか昇進出来ず、中流公家の出身だったと言えるでしょう。

五辻忠子の子が後醍醐天皇であり、後醍醐天皇の天皇親政などの理想の高さから名門のイメージがあるのかも知れませんが、後醍醐天皇の母親の家柄は決して高いわけではなかったわけです。

五辻忠子は花山院師継の養女にもなっています。

五辻忠子は後宇多天皇の女官である典侍として仕え奨子内親王、後醍醐天皇(尊治)、性円法親王、承覚法親王を出産しました。

五辻忠子が生んだ尊治は後宇多天皇の第二皇子であり、3つ年上の異母兄として邦治親王(後二条天皇)がいたわけです。

先にも述べた様に五辻忠子は中流公家であり家柄の低さから、尊治は中々親王宣下されませんでした。

邦治親王が2歳で親王宣下したのとは対照的です。

因みに、後宇多天皇と五辻忠子の仲は上手く言っていなかったとも考えられており、何処かのタイミングで仲違いした可能性もあります。

准后となる

後宇多天皇の子を授かった五辻忠子ですが、亀山上皇の元で暮らしていた事が分かっています。

理由は不明ですが、五辻忠子や尊治(後醍醐天皇)は後宇多天皇の元を離れ亀山上皇を暮らしていたわけです。

1301年に五辻忠子に転機が訪れ、三条実躬の実躬卿記によると五辻忠子は准后宣下を受けたとあります。

五辻忠子が准后となれた理由ですが、亀山法皇の後押しがあった事が原因でしょう。

五辻忠子が准后になった事で、尊治は親王となり奨子は内親王となり、尊治親王と奨子内親王が誕生しました。

尊治親王が後の後醍醐天皇であり、五辻忠子が准后になれなかったら後醍醐天皇の即位はあり得なかったはずです。

五辻忠子が准后にならなかったら、鎌倉幕府ももう少し延命していた可能性もあります。

遺産相続

亀山法皇は1305年に崩御する事になります。

亀山法皇は崩御する前に財産分与を行っており、五辻忠子は住んでいた御所と三カ所の荘園を譲り受ける事になります。

さらに、亀山法皇は五辻忠子が亡くなれば遺産は尊治親王が譲り受ければよいとしました。

晩年の亀山方法は恒明親王を可愛がり、恒明親王が天皇になれる様に後宇多天皇に約束させるなどもありましたが、五辻忠子や尊治親王の事も目に掛けていたのでしょう。

亀山法皇の崩御

亀山法皇が崩御すると五辻忠子及び尊治親王は最大の支援者を失う事になります。

最大の支援者を失った五辻忠子の人生に暗雲が立ち込め不安になったはずです。

続後拾遺和歌集に次の歌があります。

※続後拾遺和歌集より

寄船述懐を 談天門院

いかにせんよるべきさだめぬあま小舟

うき世の波に迷ひはてなば

上記の歌は五辻忠子が亀山法皇が崩御し不安な気持ちを歌にしたと考えられています。

談天門院

1305年に大覚寺統の亀山法皇が崩御したわけですが、1308年に同じく大覚寺統の後二条天皇が崩御しました。

後二条天皇の崩御が五辻忠子にとっての幸運となります。

後二条天皇には邦良親王がいましたが年は幼く病弱であり、ここで白羽の矢が立ったのが尊治親王となります。

後宇多法皇は尊治親王を中継ぎの天皇とし、最終的に邦良親王が天皇になれる様にと考えたわけです。

五辻忠子の子である尊治親王が持明院統の花園天皇の皇太子に選ばれた事で、五辻忠子は相応の地位を得る事になります。

1318年に尊治親王は持明院統の花園天皇の譲位により天皇となりました。

これが後醍醐天皇であり、五辻忠子は中継ぎではありますが、天皇の母となったわけです。

同年に五辻忠子は「談天門院」の院号を受ける事になります。

五辻忠子の最後

花園天皇の日記である花園天皇宸記に五辻忠子(談天門院)の最後が書かれており、1319年に亡くなった事が分かっています。

ただし、花園天皇宸記には簡略な記述しかなく具体的な亡くなった時の描写は不明です。

因みに、花園天皇は五辻忠子の死を聞くと使者を派遣し弔った事が分かっています。

持明院統では量仁親王(光厳天皇)の行事も延期しました。

現天皇である後醍醐天皇の母親だけあり、持明院統では五辻忠子の死に気を遣ったと言えるでしょう。

花園天皇の日記では後宇多法皇は喪に服したわけではなく、近辺に御所を為しただけとする記述があります。

花園天皇の日記から後宇多法皇は形だけの喪だったとも解釈されています。

過去に後深草天皇の皇女で寵愛していた遊義門院(姈子内親王)が赤斑瘡で亡くなった時は、後宇多天皇はショックを受けて出家までしてしまいました。

後宇多法皇は遊義門院の亡くなった時に比べ、五辻忠子が亡くなった時は本当に追悼する気持ちがあったのかも不明であり、寵愛の度合いの違いは明らかでしょう。

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