
| 名前 | 魏(三国志) |
| 建国から滅亡 | 220年ー265年 |
| 皇帝 | 曹丕ー曹叡ー曹芳ー曹髦ー曹奐 |
| 年表 | 220年 後漢から禅譲により魏が建国される |
| 234年 五丈原の戦い | |
| 249年 正始の変 | |
| 263年 蜀の滅亡 | |
| 265年 禅譲により西晋が建国され魏は滅亡 | |
| コメント | 三国志の最強国 |
曹操は宦官の家柄でしたが、屯田制などの政策を行い群雄割拠を制し北方を平定しました。
赤壁の戦いで敗れて天下統一は出来ませんでしたが、魏の国力は呉や蜀を凌ぎ、常に三国志の最大勢力でした。
曹丕が後漢の献帝から禅譲により皇帝となり、ここに魏が始まる事になります。
魏では九品官人法を定めるなどしました。
魏は曹叡の時代までは皇帝に権力がありますが、正始の変で司馬懿が実権を握ると、魏の皇帝は傀儡となります。
さらに、司馬師は皇帝の曹芳を廃位するほどの権力を見につけました。
魏の第四代皇帝の曹髦は現状に憤慨し、司馬昭を討ちに出ますが、命を落としています。
最後の皇帝の曹奐の時代に鄧艾の活躍もあり蜀を滅ぼしますが、既に皇帝に実権はなく西暦265年に司馬炎に禅譲した事で魏は滅亡しました。
司馬炎が西晋の初代皇帝となっています。
魏を滅ぼしたのは、蜀でも呉でもなく重臣の司馬氏だったと言えるでしょう。
尚、春秋戦国時代にも魏(戦国)はありますが、今回は三国志の魏の紹介なので注意してください。
魏(三国志)の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
魏を建国した曹氏
魏を建国した曹氏について述べておくと、曹操の祖父の曹騰は、後漢王朝の皇帝に仕えて功績があった宦官です。
曹騰に関しては、優れた人物を好み抜擢した話があり、一般的には善良な宦官だったと考えられています。
宦官は後漢の順帝の時代に養子を貰い官爵を継承する事が認められていました。
曹騰は後漢の桓帝の擁立にも功績があり、列侯に封じられています。
曹騰は夏侯氏から養子を貰い、これが曹嵩であり、曹操の父親となります。
曹嵩は宦官に賄賂を贈り、さらに1億銭を納めて太尉にまで昇りました。
金で官位を買ったという事になるのでしょう。
当時は地方に土地を多く持っていて、儒教などの勉強をしている豪族らが、清流派と呼ばれたのに対し、宦官らは濁流派とも呼ばれていました。
曹操は明らかに濁流の本流にいたような人という事になります。
曹操は魏の実質的な建国者
曹操は一部の人からは「宦官の孫」と呼ばれ馬鹿にされていた話もありますが、這い上がる事になります。
それでも、スタートラインで考えれば、名士の中心にいるような袁紹ほどではないにしろ、劉備に比べたら、遥かに恵まれていたと言えるでしょう。
曹操が実質的な魏の建国者となります。
曹操は黄巾の乱では官軍として参戦し功績を挙げています。
霊帝が崩御すると、少帝と陳留王(献帝)を董卓が保護し擁立するも、袁紹と共に反董卓連合を結成しました。
曹操は董卓軍の徐栄に大敗し、反董卓連合の諸将に奮起を促す演説を行うも、全然支持されなかった話もあります。
後に董卓は長安に遷都するも、王允の計略で呂布に討たれ、呂布もまた李傕、郭汜に敗れ、東方に逃れる事になりました。
西暦196年に後漢の献帝を許に迎え入れる事になります。
この年に曹操は韓浩らの進言もあり、屯田制を行っており、魏の財政を豊かにする原因となっています。
農業に有利な中原の地で屯田を行った事で、魏では食糧事情が改善され、三国志の最強勢力になったとする指摘もあります。
関東の地では群雄割拠となるも、曹操は青州兵を得て、勢力を拡大し呂布や袁術を滅ぼしました。
西暦200年に官渡の戦いで袁紹を破り、西暦202年に袁紹が没すると、袁譚、袁尚の後継者争いもあり、曹操は両者を滅ぼし北方を平定しています。
この時点で三国志の魏が最強勢力になるのは、決定づけられたとも言えるでしょう。
曹操は西暦208年に三公を廃し、自ら後漢王朝の丞相となりました。
しかし、同年に行われた赤壁の戦いでは周瑜の活躍もあり、孫権と劉備の連合軍に敗れています。
赤壁の戦いでは敗れてしまいましたが、曹操は西暦211年の潼関の戦いでは、馬超や韓遂らの連合軍に勝利しました。
曹操と唯才令
当時は豪族の力が強く、家柄さえよければ将来は安泰でしたが、後に曹操は唯才令を出し、徳とか家柄よりも才能さえあれば評価するとしました。
曹操は人材コレクターと一部界隈では言われていますが、能力さえあれば、素行は問わないと宣言した事になるのでしょう。
しかし、豪族(名士)らの政治のポストを能力ある人物に与えるともみて取る事ができ、魏では豪族の力を何とかして実力主義を採用したかったとみる事が出来るはずです。
曹操は唯才令を出し、有能な者が力を発揮できる環境を構築したかったと感じますが、名士の力が強く中々うまくいかなかった部分もあるようです。
魏の建国
曹操は213年には魏公となり、冀州の十郡を領有する事になりました。
魏公国が誕生し、陳羣、荀攸、鍾繇、華歆、司馬懿などの多くの名士が、重要ポストに就任する事になります。
曹操は216年には魏王に昇進しました。
ただし、曹操は漢中の張魯を降すも、定軍山の戦いで劉備に敗れています。
曹操は天下統一出来ませんでした。
この後に関羽が北上し、樊城の戦いが勃発しますが、曹仁や満寵らの活躍があり、凌ぎ切り関羽も孫権により斬られています。
関羽は西暦220年に世を去りますが、この数カ月後には曹操も亡くなりました。
曹操は最後まで皇帝にならずに亡くなったと言えるでしょう。
尚、劉備は荊州を孫権に奪われており、この頃には魏、呉、蜀の領域はほぼ確定しています。
禅譲により魏の皇帝が誕生
曹操が亡くなると、曹丕が魏王の位を継承しますが、曹丕は後漢の献帝から禅譲により、皇位につき、正式に後漢が滅亡し、魏帝国が誕生する事になります。
曹丕は皇帝になり、魏が正式に誕生した事になるでしょう。
曹操と曹丕の二代に渡る魏帝国の誕生を見ると、曹操は実力者でありながら、形式の上は後漢の献帝を奉っていました。
ここから、曹操は魏公となり、後には魏王に就任しています。
そして、最後に曹丕が皇帝となり、正式に後漢が滅亡して魏王朝が誕生しました。
禅譲により最初に皇帝になったのは王莽だとされていますが、王莽は禅譲の儀が欠けており、魏が正式な手続きにより禅譲が行われた最初だとされています。
魏の禅譲は後年の人々も皇帝の即位するのに同じ手順を踏んでおり、極めて完成度が高いものだった事が分かります。
九品官人法の制定
魏では曹丕の時代に陳羣により九品官人法が制定されました。
九品官人法は郷里での評判を元に中正なる役人が、一品から九品まで等級を選定し、これを郷品と呼びランク付けします。
中央の官職も一品から九品に分かれているのが特徴です。
郷品で二品がついた場合は中央に上申すると、六品の官職からキャリアをスタートする事になります。
郷品よりも4ランク下がった中央の官職からキャリアをスタートする事になります。
ここでポイントなのが、郷品で二品の判定を受ければ、官職の方でも二品まで昇進する事が出来るという事です。
つまりよほどのことがない限りは、二品に選ばれれば、一品にはなれません。
これを考えると、中正の評価がその人物の一生を決めてしまう怖い制度でもあると言えるでしょう。
魏で九品官人法が制定されたのは、本来は個人の才能に応じて、しかるべき役職に就かせる為の制度だったとも、考案したのが名士の陳羣であり、最初から貴族社会形成の為の仕組みだったとも言われています。
それでも、九品官人法は最初は能力主義だったのかも知れませんが、最終的には貴族社会の形勢に繋がってしまいました。
郷品は最終的に能力ではなく、家柄によって決定される事になったわけです。
九品官人法を現わす言葉で「上品に寒門なく、下品に勢族なし」とする言葉まで生まれています。
能力があっても、家柄が低ければ評価されない仕組みとなってしまいました。
曹操は能力主義を掲げましたが、魏では頓挫してしまったと言えるでしょう。
九品官人法による家柄重視の問題点は、隋の文帝の時代に科挙が行われる様になり改善される事になります。
科挙により、有能な人材の確保が図られる様になりました。
九品官人法については、日本の官位制にも大きく影響したと言われています。
魏の曹丕の時代の出来事
魏王朝は禅譲により後漢から皇位を譲り献帝は皇帝の座を降りて山陽公となりましたが、献帝が殺された噂が流れ、蜀の劉備が皇帝に即位しました。
劉備は漢王朝の復興を掲げており、自らが漢を継ぐものとしたわけです。
この時点では、まだ孫権は皇帝になっていません。
中華に二人の皇帝が出現しましたが、魏は後漢から正式に禅譲されたのに対し、蜀の劉備は噂を利用して皇帝になりました。
献帝が生きている事が分かっても、劉備は当然ながら皇帝を降りたりはしていません。
こうした理由もあり、三国志の中で正統なる後漢の後継者は魏だったとする見方が強いです。
魏の曹丕の時代に蜀の劉備が呉を攻撃し夷陵の戦いが勃発しました。
この時に、孫権は魏の曹丕に頭を下げ呉王に封じられています。
形式上は呉は魏の軍門に降った事になるでしょう。
夷陵の戦いでは呉の大都督の陸遜の活躍もあり、呉が大勝しました。
この時に、呉が蜀軍を追撃しようとしますが、この隙に曹丕は呉に侵攻しており、魏と呉の関係が破綻する事になります。
魏と呉の戦いは三方面で戦いが行われるも、呉軍が全て勝利しました。
蜀の劉備は紀元前223年に崩御しており、劉禅が皇帝となり、諸葛亮が補佐する体制が出来上がる事になります。
蜀は夷陵の戦いで歴史的な大敗北を喫しており、諸葛亮は蜀を早急に立て直す必要がありました。
魏にとっては蜀を攻める好機到来と思うかも知れませんが、曹丕の時代の魏は呉を攻めており、蜀と戦う事はなかったわけです。
曹丕は西暦226年に崩御しており、後継者になったのが曹叡であり、明帝と呼ばれる事になります。
因みに、曹操は武帝と呼ばれ、曹丕は文帝と呼ばれました。
曹叡の時代
曹休・曹真の死
曹丕は崩御する時に、後事を一族の曹真、曹休と名士の司馬懿、陳羣に託しています。
曹休は西暦228年に呉との石亭の戦いで敗れて、ちょっと気の毒な亡くなり方をしました。
曹真は諸葛亮の北伐をよく防ぐも、231年に世を去っています。
曹丕が託した皇族側の曹真と曹休が早い段階で、亡くなってしまったと言えるでしょう。
ただし、皇帝の曹叡が優秀だった事もあり、この時代はまだ問題には発展していません。
司馬懿の台頭
曹真が亡くなると、後任になったのが司馬懿です。
ここで、注目したいのは、曹操の時代から方面軍を任せられるのは、夏侯淵、曹真、曹休を代表される曹氏の一族でしたが、名士の代表格である司馬懿が軍の指揮官になった事でしょう。
蜀の諸葛亮は司馬懿と対峙した五丈原の戦いの最終である西暦234年に世を去っており、これにより蜀の脅威も激減しました。
こうした中で魏の曹叡は緊張の糸が途切れたのか、宮殿造営などを熱心に行う様になります。
司馬懿の方は遼東の公孫淵の征伐に成功するなど、その地位は揺るぎないものになったと言えるでしょう。
魏と邪馬台国
司馬懿が遼東の公孫氏を平定した事で、邪馬台国の卑弥呼は難升米と都市牛利を魏に派遣しています。
卑弥呼は魏から親魏倭王に冊封されました。
魏では張政を倭国に派遣し、張政は台与の時代に帰還した話があります。
お気づきの方も多いかも知れませんが、魏志倭人伝の魏は三国志の魏の事です。
ただし、魏志倭人伝には台与の時代で終わっており、その後にどうなったのかは分からない状態です。
魏は東では倭国の卑弥呼を親魏倭王にしましたが、西ではクシャーナ朝のヴァースデーヴァが、親魏大月氏王に就任しています。
魏が新魏〇〇王としたのは、倭国とクシャーナ朝だけです。
幼帝・曹芳の即位
曹叡は西暦239年に崩御しますが、子がおらず、養子の曹芳が魏の皇帝として即位しました。

曹芳の父親は曹楷で、そのまた父親が曹丕の弟の曹彰だとされていますが、イマイチはっきりとしません。
ただし、一般的には上記の図のようと考えられています。
ここで問題が生じており、曹芳は8歳で魏の皇帝に即位しました。
8歳の子供に政治は行う事が出来ず、後見人の曹爽と司馬懿が中心となり政治を行う事になります。
曹爽は曹真の子です。
それでも、曹氏一族代表の曹爽と名士代表の司馬懿が、政治を行う事になったと言えるでしょう。
しかし、これが魏帝国の運命を決める事になってしまいました。
曹爽が実権を握る
魏は新体制でスタートしますが、最初のうちは曹爽が年配で実績もある司馬懿を尊重した事で、何の問題もありませんでした。
しかし、曹爽は何晏、鄧颺、丁謐らを重用し、尚書省の官職に就けたことで対立に発展する事になります。
曹爽は司馬懿を名誉職の太傅に追いやり、自分の息の掛かった者達を重職につけました。
この時の威勢は曹爽が圧倒しており、魏の政治を私物化したなんて話もあります。
曹爽は実績が欲しいと思ったのか、西暦244年に魏は6万程から7万の大軍で蜀の討伐を行いました。
曹爽は駱谷道から漢中へ進軍しますが、これを興勢の役と呼びます。
興勢の役では蜀軍の王平の策が的中し、魏の軍は興勢山の蜀軍に苦戦し、蜀の蔣琬や費禕の援軍もやってきました。
楊偉や夏侯玄が撤退を進言した事で、曹爽は軍を引き上げています。
ここでも、費禕の追撃があり、魏軍は死傷者が続出してしまいました。
興勢の役は失敗だったと言えるでしょう。
これにより曹爽の名声が落ちただけではなく、羌族から徴発した輸送用の牛や馬が殆ど喪失しており、羌族からも恨まれる結果となりました。
蜀は魏を撤退に追い込んだのであり、蜀や呉にとってみれば、好機到来と思うかも知れません。
しかし、呉では紀元前241年に孫権の皇太子の孫登が亡くなっており、孫和と孫覇による「二宮の変」と呼ばれる後継者争いが勃発していました。
蜀の方では費禕が実権を握るも北伐反対派であり、北伐は鳴りを潜める事になります。
こうした事情もあり、両国とも国として一丸となって、北伐が出来るような状態ではなかったと言えるでしょう。
魏の高句麗征伐
魏の北方に目を向けてみると、西暦242年に高句麗の位宮が遼東郡に進軍しました。
高句麗の侵攻に対し、魏では紀元前244年に、幽州刺史の毌丘倹に命じて討伐を行わせています。
毌丘倹は高句麗討伐に成功し、高句麗王の位宮は妻子のみを連れて逃げ隠れたなどの話があり、魏の大勝だったと言えるでしょう。
西暦246年にも高句麗討伐を行い王頎の活躍もあり、魏軍が殺害したり降伏させた高句麗兵の数は八千にも及んだと記録されています。
またもや魏軍が高句麗に大勝しました。
魏と羌族の戦い
西暦247年になると、今度は西方の隴西や南安で羌族を中心とした大規模な反乱が起きました。
羌族は魏に対して反乱を起こしたのであり、蜀に助けを求めています。
蜀では姜維が動き出し、夏侯覇は為翅(いし)に駐屯しました。
姜維は夏侯覇を攻撃しますが、魏の郭淮が援軍に駆け付けた事で逃走しています。
郭淮らは勢いに乗り羌族を討伐しますが、降伏した部族は1万を数えたとあり大戦果を挙げたと言えるでしょう。
翌年の西暦248年に羌族の蛾遮塞(がしゃさい)らが、河関(かかん)や白土(はくど)に駐屯するも、郭淮は一気に鎮圧してしまいました。
魏軍は武威を包囲しますが、羌族の治無載(ちぶたい)と遭遇し撃破しています。
治無載は蜀に降る事になりました。
郭淮の活躍が大きいと言えるでしょう。
姜維は治無載を出迎える為に動き、廖化には成重山の守備をさせました。
これを見た郭淮は夏侯覇に沓中(とうちゅう)の姜維を追撃させ、自らは廖化の軍を攻撃しています。
姜維は廖化の救援に動きますが、郭淮は動きを読んでおり、蜀軍を待ち伏せ大勝しました。
これを見ると姜維がいいところなく敗れた様にも見えますが、当時の蜀で実権を握っていたのは、北伐反対派の費禕であり、姜維には大した兵を与えなかったわけです。
費禕は姜維に軍勢を与えても、せいぜい1万だったとも言われています。
それでも、姜維は腐る事もなく、功績を挙げ北伐を成し遂げる事を目標にしました。
司馬懿が魏の実権を握る
正始の変
魏の中央に目を向けると、西暦247年5月に司馬懿が病気と称して、出仕しなくなりました。
曹爽の息が掛かった李勝が司馬懿の様子を見に行くと、司馬懿は耄碌した老人を演じたわけです。
李勝は司馬懿の様子を曹爽に報告すると、曹爽は司馬懿への警戒を解いてしまいました。
司馬懿の方では裏では着々と手まわしを行っており、曹爽を追い落とす気満々だったと言えるでしょう。
西暦249年正月に魏の皇帝の曹芳は曹爽の兄弟らを引き連れて、先帝の曹叡が葬られている高平陵に行幸しています。
これを好機と考えたのが司馬懿でした。
司馬懿は曹叡の妻の郭太后に曹爽らの解任を上奏し、許されると皇帝直属の禁軍を掌握してしまいました。
司馬懿は軍権を抑えたと言えるでしょう。
司馬懿は皇帝の曹芳には曹爽を弾劾する上奏分を奉っており、曹爽にとってみれば、青天の霹靂だったはずです。
桓範は曹爽に皇帝の曹芳を奉じて許昌に向かい兵を集めて戦う様に進言するも、司馬懿は許允や陳泰に「処分は免官のみ」として、曹爽に伝えさせました。
曹爽は司馬懿に降伏する事になります。
後の事を考えれば、この決断が魏を滅ぼす結果となりました。
曹爽は司馬懿の甘い言葉に惑わされ、自宅で監禁されるも、最終的には曹爽一派の何晏らと共に世を去る事になります。
司馬懿が魏の実権を完全に握った瞬間でもありました。
曹爽は本当に無能だったのか
曹爽は一般的には無能扱いされていますが、実際には、豪族(名士)たちの力を削ぐ政策を行おうとしたとも考えられています。
曹爽は豪族たちに不利な政策を行おうとし、司馬懿が曹爽に不満を持つ、豪族らの受け皿になったったとみる事も出来るはずです。
先にも述べましたが、九品官人法は人事権を握るのは、中正となります。
地方の中正が高い評価をしないと、中央でも出世できない仕組みだからです。
しかし、曹爽陣営では人事権は中央の尚書台が握るべきだと考えていました。
名士たちは中正が名士出身者が大半であった事で、人事権が中正が握っていてくれた方が助かる事から反発があったわけです。
これを考えると、曹爽は国内の豪族問題を対処しようとし失敗した様にもみえ、やろうとしていたこと自体は魏にとって必要な事でもあると考えられ、全くの無能と言うわけでもないのでしょう。
司馬懿の名士優遇政策
司馬懿はクーデターで魏の政治を乗っ取る事には成功しましたが、豪族らの支持を失うわけには行かず、州大中正を設置し、名士の優遇政治を行いました。
州大中正は郡の上に位置する州に強力な権限を持つ統括官を設置し、当然ながら名士の中から選ばれる事になったわけです。
司馬懿が州大中正を設置した事で、能力主義から家柄主義に、さらに加速したと言えるでしょう。
貴族化が加速されたとみる事も出来ます。
尚、司馬懿はクーデターにより政権を奪取しており、名士たちの支持を失わない為に、名士優遇政策を行いました。
しかし、こうした政策が後に司馬懿の子孫が建国した西晋を滅ぼす事になったとする見解もある状態です。
因みに、司馬懿が実権を握った事で、身の危険を感じた夏侯覇は蜀に亡命しました。
詳細は省きますが、劉禅の皇后は張飛の娘であり、張飛の妻が夏侯覇の従妹であった事から、蜀で受け入れられる事になります。
姜維の北伐
西暦249年に姜維は北伐を行っています。
当時の蜀のナンバー2は姜維と言ってもよく、功績を挙げ続けた事で、費禕も抑えつけるのが難しくなってきたのでしょう。
それでも、当然ながら大軍は預けなかったと考えられています。
この時に魏軍は郭淮や陳泰が中心となり守る事になりますが、魏軍の中に鄧艾や徐質もいたわけです。
鄧艾が後に蜀を滅ぼす事になります。
郭淮は蜀軍の退路を断ち切ろうとした事で、姜維の軍は撤退しました。
呉への三方面作戦
西暦250年になると、魏の王昶が呉は二宮の変で弱体化していると考え、呉や蜀を滅ぼす絶好の好機と上奏しました。
因みに、王昶は236年に司馬懿により推挙された人物です。
魏は三方面から呉を攻撃し、王昶が江陵を攻撃し、荊州刺史の王基が夷陵を攻撃し、州泰が巫などを攻撃する事になりました。
王昶は呉の朱績を相手に戦いを優位に進め、王基も呉の食糧を奪い歩協を降伏させるなど戦いを優位に進めていたわけです。
しかし、呉では陸凱と戴烈を送り込むと、王昶はこれ以上攻める事は出来ないと判断し撤退しました。
魏が撤退している事から敗北とみる事も出来ますが、戦いの後に王昶は昇進しており、魏は戦果を挙げたと言えるでしょう。
司馬懿への反発
西暦251年になると、司馬懿は体調を崩しており、出仕も出来ない状態になっていました。
こうした中でも、魏の皇帝の曹芳は、司馬懿にお伺いを立てていたと言います。
魏の高官は司馬懿の息が掛かった様な人ばかりになっており、司馬懿の意に反する事は、非常にやりにくい状態だったのでしょう。
司馬懿が魏の政治の実権を握るのを良しとしなかったのが、王凌と令狐愚であり、司馬懿を誅し、代わりに曹操の子の一人である曹彪を擁立する計画を立てていたわけです。
魏でも司馬懿が実権を握るのを嫌がる者がいた事が分かります。
ただし、令狐愚は西暦249年に病死しました。
251年に王凌は呉の討伐を上奏し、これが認められれば、軍を率いて司馬懿を討つつもりだったとも考えられています。
しかし、認められず、王凌は黄華を仲間に加えようと考え、楊弘を派遣するも、二人は連名で王凌の企てを司馬懿に密告しました。
司馬懿は素早く動き、王凌を討伐し、王凌は自殺しています。
曹氏一族が監視下に置かれる
王凌の謀叛には、曹彪や令狐愚も関わっていたと司馬懿の耳に入っていました。
関係者の全ての三族を処刑する事とし、厳しい処分をする事になります。
さらに、魏の皇帝の一族である曹氏も何とかしなければならない状態だったと言えるでしょう。
司馬懿は曹氏の一族を鄴に集め監視化に置きました。
この時点で、司馬懿が魏で圧倒的な権力を持っており、曹氏の一族にはどうする事も出来なかったはずです。
しかし、司馬懿は西暦251年の8月に病に倒れ、そのまま帰らぬ人になりました。
司馬師が実権を握る
司馬懿の後は司馬師が後継者となり、魏の皇帝の曹芳は司馬懿の権力を引き継がせました。
司馬師の最初の妻は魏の夏侯尚の娘の夏侯徽でしたが、夏侯徽は司馬懿や司馬師の野心に気付き、司馬師に毒殺されたとも言います。
二人目の妻は曹丕の寵臣である呉質の娘でしたが、家柄が低く得るものがないとして、別れた話があります。
三人目の妻は名族の羊衜(ようどう)の娘でした。
こうした事情から、司馬師は曹氏との縁を断ち切り、名族との繋がりを深めていったとみる事が出来るはずです。
司馬師が魏の実権を握りました。
東関の戦い
呉に目を向けると、長く君主を務めていた孫権が252年で崩御しました。
後継者の孫亮は10歳ほどの子供であり、代わりに諸葛恪が政治を行う事になります。
諸葛恪は首都の兼業の防備を固める為に、東興に大きな堤をつくり、堤を挟む形で二つの城を築きました。
魏では諸葛恪の動きを知ると、胡遵や諸葛誕に呉が築城した二つの城を落す様に命じました。
これが東関の戦いとなりますが、呉の丁奉の活躍もあり、魏軍は大敗北を喫しています。
司馬師は東関の戦いの責任は「慎重な意見を聞き入れず出撃許可を出した自分にある」とし、諸将に罪を問わず、監軍として諸軍を統帥していた弟の司馬昭の爵位を削るに留めました。
これにより司馬師の名声は益々高まったと伝わっています。
曹芳が郭脩を表彰
蜀の方をみると、過去に姜維は西平郡を落し、郭脩という魏の武将を降伏させていました。
しかし、郭脩の心は魏にあったのか、劉禅の命を狙うも近づく事が出来ず、代わりとして蜀の国政を担っていた費禕を暗殺してしまったわけです。
これが西暦253年の事であり、ここから蜀は姜維が中心となり、大規模な北伐を行う時代に突入する事になります。
魏の皇帝の曹芳は郭脩の話を聞くと「我が身を犠牲にして仁を成し遂げ、命を捨て信義を選んだ」とし郭脩の子に爵位を継がせ、奉車都尉の官を与えました。
郭脩は魏の為に行動し、曹芳は高く評価しています。
曹芳の廃位
魏では中書令の李豊は曹叡の娘を妻としており、張緝は曹芳の皇后である張氏の父だったわけです。
李豊と張緝は魏の皇室に近い人だったと言えるでしょう。
李豊や張緝は司馬師を排除し、代わりに夏侯玄を大将軍とし、曹芳を補佐させようと計画を練りました。
しかし、この計画は発覚し、司馬師は関係者の三族を悉く誅する事になります。
さらには、皇帝の曹芳も李豊らの計画に加わっていたのではないかと考え、郭太后に圧力を掛け「曹芳が政治を省みず女色に溺れ、これでは祖廟を守る事が出来ない」とし皇帝の曹芳を廃位しました。
この時の曹芳の年齢は23歳だったと言います。
23歳であれば、政治を行う事が出来る年齢なはずですが、魏の皇帝の力も司馬師の前では、無力だとよく分かる話でもあります。
ただし、曹芳は殺害されたわけでもなく、斉王に降格しこの後も生き続け、司馬炎が西晋を建国すると、邵陵公となり、274年に43歳で亡くなりました。
魏の皇帝を廃位されても、曹芳は20年は生きた事になるでしょう。
曹芳は大人しくしていた事で、生き延びる事が出来たとみる事が出来ます。
曹髦の即位
魏では曹芳が廃位されると、司馬師は曹丕の子の曹拠を皇帝に擁立しようとするも、郭太后が反対した事で、曹髦が魏の四代目の皇帝として即位しました。
しかし、結局は曹髦も司馬師の傀儡だったと言えるでしょう。
曹髦はこの時に14歳でしたが、学問を好み覇気のある人物だったと伝わっています。
後のこの覇気が寿命を縮める原因となります。
毌丘倹の乱
しかし、司馬師の行動をよしとしない人物もおり、西暦255年に毌丘倹と文欽は寿春で挙兵し、乱を起こしました。
この時の司馬師は目のこぶを切開したばかりであり、万全の体調ではありませんでしたが、鍾会らの進言もあり自ら出陣する事を決めました。
この戦いで司馬師は勝利しますが、文鴦の急襲により体に負荷が掛かり、片方の目が飛び出てしまった話があります。
魏軍は毌丘倹は討ち取る事に成功するも、文欽と文鴦は呉に逃亡しました。
司馬師は凱旋すると、毌丘倹の三族と首謀者十余人を誅するも、殆どの者達の罪を許しています。
司馬師が多くの人々を許したのは、人心を掴むためと言われていますが、司馬師の病は悪化し、西暦255年に48歳で没しました。
文欽と毌丘倹の乱を鎮圧してから、司馬師は直ぐに亡くなったった事になるでしょう。
司馬師が亡くなると弟の司馬昭が後継者になりますが、相変わらず魏の皇帝の曹髦は傀儡のままだったわけです。
尚、この10年後には魏は滅亡する事になります。
諸葛誕の乱
毌丘倹と文欽の乱で活躍したのが諸葛誕であり、諸葛誕は功績により昇進し、反乱が起きた寿春に派遣される事になりました。
しかし、諸葛誕は親交のあった夏侯玄や王凌、毌丘倹が司馬氏により誅されていくのを見て、不安に思ったのか、貯えていた金銭を民に配るなど、人心掌握に務め、遊侠一千人に莫大な恩賞を与え、命知らずの者達を部下にしました。
司馬昭の耳に諸葛誕の話が入ると、司馬昭は諸葛誕を司空に任命し、都に呼び出そうとするも、諸葛誕は揚州刺史の楽綝を斬り乱を起こす事になります。
諸葛誕は末子の諸葛靚を人質として呉に派遣し、援軍を求めました。
呉では文欽や子の文鴦、文虎らを諸葛誕への援軍としています。
司馬昭は魏の皇帝の曹髦や郭太后を奉り、26万もの大軍で諸葛誕の乱の鎮圧に向かいました。
魏軍に攻められた諸葛誕は寿春で籠城しますが、仲違いなどもあり文欽を殺害しています。
先にも述べた様に、文欽は元々は魏に仕えていましたが、司馬師に対し乱を起こした過去がありました。
文欽の子の文鴦、文虎が魏に降伏すると、過去の罪を問わず許しているわけです。
しかし、司馬昭にも狙いがあった様で「文鴦、文虎ですら許されるなら・・」と諸葛誕の部下達は思うようになり、逃亡者が相次いだといいます。
諸葛誕を支えた将軍である蔣班と焦彝も魏に降伏しました。
寿春では兵糧も尽き、諸葛誕は包囲を破って脱出しようとするも、胡奮により討ち取られています。
諸葛誕を討ち取ると、魏では寿春の籠城する者達に降伏を呼び掛けますが、部下達は皆が「諸葛誕のために死ねるなら本望」とし、諸葛誕の死に殉じたと言います。
諸葛誕の人望が分かる話でもあるでしょう。
司馬昭は諸葛誕の三族は皆殺しにしましたが、寛大な処置を取り、呉の兵士であっても罪を問わず一人も殺害しなかった話があります。
王凌の乱、毌丘倹・文欽の乱、諸葛誕の乱をまとめて、寿春三叛と呼びます。
呉は皇帝に実権が戻る
話は遡りますが、呉では孫亮が皇帝になり諸葛恪が補佐していましたが、諸葛恪は北伐を行った時に、魏の張特が守る合肥新城を陥落させる事が出来ず、評判を大きく落とし、西暦253年に孫峻により誅されました。
呉では孫峻が諸葛恪を誅したわけですが、政治の方は順調とは言えず、最後は諸葛恪に殴られる夢を見て、256年に亡くなった話があります。
この後に、孫綝が呉の政務を見ますが、孫亮は廃位され孫休を擁立しました。
しかし、孫休は西暦258年に孫綝を誅しています。
これにより呉では皇帝に実権が戻ったわけです
魏の方では呉の様には行きませんでした。
曹髦の死
魏では曹髦が司馬昭の専横に憤りを覚えていました。
曹髦は傀儡の現状に納得がいかなかったのでしょう。
曹髦は司馬昭の排除を王沈、王経、王業に打ち明ける事になります。
これに驚いた王経は曹髦を諫め、王沈と王業は司馬昭に事の次第を告げました。
曹髦は計画が漏れた事を知っても諦めず、数百人の下僕と共に司馬昭の大将軍府に向かう事になります。
賈充の率いる軍と交戦になるも、賈充の部下達は皇帝の曹髦に恐れおののき、戦おうとしませんでした。
しかし、賈充は部下の成済に「罪は問わない」とし、暗に殺害を命じ、成済は曹髦を討ち取る事になります。
これにより、魏の四代目皇帝である曹髦は、西暦260年に世を去る事になります。
この時の曹髦は20才だったと伝わっています。
司馬昭は曹髦の死を聞くと、嘆き悲しみ、司馬孚は号泣したと漢晋春秋は記録しています。
同日に郭太后から勅が出されるも内容は、曹髦の人間性を非難したものとなっていました。
皇帝殺害は当然ながら重罪であり、司馬昭らは非道を繰り返す曹髦を誅殺した話にすり替えようとしたとみる事が出来ます。
罪に問わないとされた成済は、結局は罪に問われる事となり世を去りました。
曹奐の即位
魏では曹宇の子の曹奐が第五代の皇帝となりました。
曹奐は曹操の孫であり、この時に15歳だったと記録されています。
呉では皇帝に権力が戻りましたが、魏では皇帝に権力が戻らなかったと言えるでしょう。
尚、曹奐が魏の最後の皇帝となります。
蜀の滅亡
姜維の北伐
蜀に目を向けてみると、西暦253年に費禕が亡くなり、タカ派の姜維を抑える事が出来ず、蜀は北伐を開始しました。
費禕は姜維に大軍を与える事がありませんでしたが、蜀の朝廷にいた陳祗と協調し、北伐を再開しています。
費禕がいなくなった事で、姜維は大軍を動員できる様になりました。
姜維は254年の北伐で魏の徐質を討ち取り、255年の北伐では夏侯覇と共に揚州刺史の王経の軍を破るなど戦果を挙げています。
しかし、魏では西部戦線に鄧艾を派遣すると、鄧艾は段谷の戦いで蜀軍を大破しました。
姜維は魏との戦いで敗れた事で蜀でも孤立しだし、西暦262年に再び北伐を行うも、ここでも鄧艾に敗れています。
蜀の方では宦官の黄皓が閻宇と結託し、姜維を排除しようとする動きもみせました。
こうした事情もあり、姜維は蜀の首都である成都に戻ろうとしなかったわけです。
三国時代の終焉
魏では司馬昭が蜀の討伐を決意し、263年に皇帝の曹奐が蜀討伐の詔を発給しています。
鍾会を総大将とし、鄧艾らと共に蜀を攻撃しました。
蜀の方では黄皓の言葉もあり、魏が攻めて来るとは思っておらず、後手に回る事になり、遅れて廖化を姜維への援軍としました。
魏軍は漢中を落しますが、姜維は蜀の入り口である剣閣に立てこもったわけです。
剣閣は一人で一万人を相手に出来る場所だと言われており、要害の地でした。
姜維は張翼や董厥らと共に良く守り、鍾会が率いる魏軍は攻めあぐねる事になります。
剣閣の戦いは魏は兵站を繋げる難しさもあり、撤退するべきとする意見まで出ました。
こうした中で鄧艾は別行動を取り、崖を転がるような形で蜀の本拠地を目指していたわけです。
鄧艾は困難を乗り越え、突如として蜀の江油に魏軍が姿を現す事になりました。
蜀の中心部の近くに突如として魏軍が現れ、驚いたのが蜀の朝廷であり、諸葛瞻を鄧艾に当たらせ、綿竹の戦いが起きるも魏軍が勝利しています。
劉禅は譙周の言葉もあり、魏に降伏する事になりました。
三国志の蜀を滅ぼしたのは、魏だったって事になるでしょう。
蜀が滅亡し魏と呉しかいない事から、三国時代は終わったとみる事も出来るはずです。
鍾会の乱
劉禅が降伏すると、姜維は鍾会の元に身を寄せ蜀の再興を夢見ていました。
蜀を滅ぼした鄧艾は蜀の群臣に官位を授けるなどしており、これを聞いた鍾会は「鄧艾に謀反を起こす意図がある」と、魏の朝廷に上奏したわけです。
魏の朝廷では衛瓘に命じて、鄧艾を捕らえてしまいました。
蜀を滅ぼす大功を挙げ英雄であるはずの鄧艾が、一気に罪人になってしまったと言えるでしょう。
鍾会には野心があり、姜維と協力し皇帝になろうとするも、胡烈が機転を利かせ、流言を流し魏の兵士は鍾会及び姜維を討ち取りました。
最終的に衛瓘が騒乱を収拾し鄧艾も殺害され、蜀の地は平定されました。
蜀の皇帝の劉禅は魏の洛陽に送られ、安楽県公に封じられ、一万戸の領地と絹や奴婢を下賜されています。
劉禅は楽しく生きたようであり、西暦271年まで生き65歳で亡くなりました。
魏でも西晋でも劉禅を殺害せず、劉禅は幸せに暮らしたとも言われています。
司馬昭が晋公・晋王へと昇進
蜀の平定が行われている時に話を戻しますが、司馬昭は晋公になる様に魏の皇帝の曹奐から打診されていました。
司馬昭は何度も要請されるも固辞していたわけです。
大半の人が分かっていると思いますが、これは明らかに「ポーズ」でしょう。
西暦263年の10月に、司馬昭は魏への忠誠と功績を讃えられ、晋公となりました。
司馬昭は春秋戦国時代の晋の故地あたりの十郡を封地として授けられ、相国へと官位を進めています。
さらに、蜀が平定された264年3月には司馬昭は封地が20郡に加増され、晋王へと昇進しました。
王朝内で権力を握り「公」「王」へと進むのは、曹操が後漢の献帝にした事と同じだと言えるでしょう。
曹操は魏公になってから、数年で魏王になりましたが、司馬昭は半年もしないうちに、晋公から晋王になりました。
五等爵制の実施
晋王になった司馬昭は五等爵制を施行しました。
当時は王と散侯のみで構成されていた封建諸侯の爵位に、公、侯、伯、子、男を加えたものだったわけです。
官位は世襲できるとは言えませんが、爵位は確実に世襲する事が出来ます。
「侯」になった人がいれば、後継者もまた「侯」の身分になれるという事です。
西晋の時代にも五等爵制は継続されており、公や侯になった人物を見ると、西晋の建国に功労があった者や蜀や呉の平定で高い功績があった者。司馬氏との婚姻関係を持った者が多いと言えます。
子爵を与えられた者は、魏の三公や九卿などの高官の子弟が多くを占めました。
西晋にとって功績があった者を上位とし、魏の功臣の子孫は低位にしたとみる事が出来ます。
こうした事情から、西晋の五等爵制は新たなる貴族制の秩序を構築する為のものだったと言えるでしょう。
さらに、見方を変えれば、魏から西晋へ新しい秩序を作る宣言でもあったとみれます。
ただし、司馬昭は晋王になった数カ月後には、突然亡くなりました。
司馬昭自身が皇帝になろうとしていたのかは不明です。
晋王の位は世襲され、長子の司馬炎が後継者になりました。
魏の滅亡
西暦264年に司馬昭が亡くなりましたが、この年に呉では皇帝の孫休が崩御しており、孫晧が即位しました。
孫晧が呉の最後の皇帝となります。
魏では皇帝の曹奐に石苞や陳騫に魏の暦数(寿命)天命は尽きているとし、禅譲を促した話もあります。
当然ながら、司馬炎の方からも働きかけはあり、西暦265年12月に曹奐は司馬炎に「いま暦数はあなたのもとにあります」と述べ、司馬炎に皇帝の座を譲りました。
魏は禅譲により滅亡したと言えるでしょう。
これにより西晋が建国されています。
曹奐は陳留王に封じられ1万戸の食邑も与えられ、記録によれば、曹奐は302年まで生きた事になっており、八王の乱で司馬氏の諸王が争う中で亡くなったと言えるでしょう。
曹奐は八王の乱をどの様に見ていたのかは不明です。
魏の一族のその後
魏王朝は滅亡しましたが、曹氏の一族がどの様になったのか解説します。
魏の曹氏の一族で言えば、曹彰(曹丕の弟)の子の曹楷は晋の太后宮殿付きとなり、曹植の子の曹志は散騎常侍となり、曹操の孫の曹嘉は東莞太守、曹徽の子の曹翕は廩丘公になった事が分かっています。
このように、魏の一族は西晋に仕え時代を生き抜く事になりました。
魏が滅亡して出来た西晋は、呉を滅ぼし三国志の世界を終わらせています。
三国志の勝者は、魏でも呉でも蜀でもなく、西晋だったと言えるでしょう。
西晋は豪族たちを優遇する政策で天下統一を成し遂げますが、魏の時代からの政策が問題となり、短期間で滅亡する事になります。
西晋が滅び北方は五胡十六国の時代となり、南方では東晋が建国されました。
この時に、東晋の2代目の皇帝の司馬紹が、臣下の王導に西晋が天下を取った方法を訪ねました。
王導は正直に述べると、司馬紹はショックを受けて「こんな王朝が長く続くはずがない」と言い放った逸話が残っています。
東晋の皇帝の司馬紹は、子共ながらに、その卑劣さにショックを受けたと言えるでしょう。
魏の皇帝一覧
魏の動画
三国志の魏を題材にしたゆっくり解説動画となっています。
前半:曹操の時代から曹叡の時代まで
後半:曹芳の時代から滅亡まで
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