名前 | 金沢尼公 |
生没年 | 生年不明ー1364年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:足利高義? 母:釈迦堂殿? |
コメント | 赤橋登子の後見人になった |
金沢尼公は足利尊氏の正室の赤橋登子の後見人となった女性です。
正体不明の女性ではありますが、赤橋登子の後見人になっている事から、北条氏と関係が深い人物ともされています。
さらに、師守記では金沢尼公は武田入道(武田信武の子?)の養母になったとも記録されていました。
武田信武の妻の一人が足利高義の娘とする話が師守記にあり、この女性こそが金沢尼公だとする説もあります。
金沢尼公と赤橋登子
師守記の貞治3年(1364年)5月13日の部分に「一昨日、義詮の生母である赤橋登子を後見していた金沢尼公という女性が武田入道の宿で他界した。金沢尼公は武田入道の養母であり、入道が頼りにしていた女性だった」と書かれています。
義詮は当然ながら室町幕府の第二代将軍である足利義詮の事であり、赤橋登子は足利尊氏の正妻にして義詮と基氏を生んだ女性です。
赤橋登子は鎌倉幕府では得宗家の次に権勢があった赤橋氏の出身となります。
その北条家に近しい赤橋登子の後見人をしていた金沢尼公が1364年に武田入道の宿で亡くなった事になります。
金沢尼公ですが、誰の事なのかイマイチ分からない部分が多いです。
武田入道の養母だったともありますが、この部分も謎が多いと言えます。
武田氏中興の祖とも呼ばれる武田信武は1362年までには亡くなっていたと考えられており、武田信武の子の中の誰かが武田入道なのでしょう。
尚、1364年の時点では武田信武の子の武田氏信は出家しておらず、外される事になり、それ以外の子という事になります。
名前が伝わっていない子の一人なのかも知れません。
金沢尼公の正体
金沢尼公ですが、足利高義と金沢顕時の娘(釈迦堂殿)の娘ではないかとする説があります。
足利高義は足利尊氏や足利直義の異母兄にあたる人物で、一度は足利家の当主となりますが、父親の足利貞氏よりも先に亡くなってしまいました。
足利家では貞氏が現役復帰しますが、後に高氏(尊氏)が家督を継承する事になります。
足利高義の娘が武田信武の妻の一人になったとする記録が師守記にあり、この女性こそが金沢尼公ではないかと考えられています。
金沢尼公の母親は釈迦堂殿であり、鎌倉幕府と親しい関係にある女性で、同じく鎌倉幕府と関係が深い赤橋登子の後見人になってもおかしくはないからです。
こうした事情から武田信武の子の一人である武田入道の養母となったのではないかと考える事が出来ます。
ただし、これらはあくまでも憶測であり、真実は不明です。