室町時代

宇都宮満綱は鎌倉府と良好な関係を築く

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宮下悠史

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名前宇都宮満綱
生没年1376年ー1407年
時代南北朝時代ー室町時代
一族父:宇都宮基綱 母親:細川頼元の娘
養子:宇都宮持綱
年表1405年 長楽寺建立
コメント関東八屋形となる

宇都宮満綱は宇都宮氏の第12代の当主となった人物です。

父親の宇都宮基綱が小山氏との戦いで戦死した事で、幼少で家督を継ぎました。

宇都宮満綱は長楽寺を建立し、長楽寺にあった阿弥陀如来座像は「汗かき阿弥陀」とも呼ばれ国指定重要文化財にもなっています。

鎌倉府とも良好な関係を築いており、鎌倉公方の足利満兼は関東八屋形の一つに宇都宮氏を選出しました。

幼少から当主になった宇都宮満兼ですが、32歳の若さで亡くなり養子の宇都宮持綱が家督を継ぐ事になります。

幼少の宇都宮満綱

宇都宮満綱の父親である宇都宮基綱は小山義政との裳原の戦いで命を落としました。

これにより宇都宮満綱が宇都宮氏の当主となります。

ただし、父親の宇都宮基綱が亡くなった時に、まだ宇都宮満綱は5歳だったとも伝わっています。

5歳の子供に政務を行わせるのは不可能であり、叔父の宇都宮氏広が中心となり政務を行ったともされています。

宇都宮氏は宇都宮氏綱の時代に越後・上野の守護を得ましたが、罷免されており平一揆の乱に加担するなどもあり、苦難の時代に入っていました。

こうした中で幼くして宇都宮氏を継いだのが、宇都宮氏広となるのでしょう。

長楽寺を建立

宇都宮満綱の業績の一つとして、応永12年(1405年)に長楽寺を建立したと言うのがあります。

長楽寺の開山は一向寺七世忍阿上人となっています。

宇都宮満綱が長楽寺を建立した理由ですが、阿弥陀如来座像を鋳造し本尊としており、30歳ほどで亡くなってしまった父親の宇都宮基綱や一族の霊を慰める為のものだったのではないかとも考えられています。

阿弥陀如来坐像は別名として「汗かき阿弥陀」とも呼ばれ、現在では国指定重要文化財となり一向寺に移されています。

(画像:宇都宮の歴史と文化財

長楽寺は残念ながら、1869年に廃寺となりました。

汗かき阿弥陀の由来ですが、宇都宮に悪い事が起きる直前になると、阿弥陀如来坐像が汗をかくとするとも言われており、汗かき阿弥陀の名前が付けられています。

関東八屋形

宇都宮満綱の時代は、鎌倉府との良好な関係を築く事に成功しています。

鎌倉公方の足利満兼は関東八屋形として、宇都宮満綱を優遇しました。

宇都宮氏以外の関東八屋形は小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏が選ばれています。

足利満兼が制定した関東八屋形ですが、守護と同程度の扱いを受け、守護不入権も与えられる事になります。

ただし、関東八屋形に関しては存在しなかったなどの異説もある状態です。

宇都宮満綱の最後

鎌倉府と良好な関係を築いた宇都宮満綱ですが、足利義満の時代の末期である1407年に32歳という若さで亡くなっています。

子が無かった事で分家の武茂家から、宇都宮持綱が婿養子として家督を継承しました。

宇都宮持綱と宇都宮満綱の娘が結婚しており、宇都宮氏の家督を継ぐ事になったわけです。

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