宇都宮基綱は宇都宮氏綱の子であり、宇都宮氏の第11代当主となります。
父親の宇都宮氏綱が紀伊で病死した事で、宇都宮氏の当主となりました。
宇都宮基綱の時代に小山義政と確執があり、小山義政の攻撃を受け最後を迎えています。
宇都宮基綱が亡くなると、子の宇都宮満綱が後継者となりました。
今回は下野宇都宮氏の宇都宮基綱を解説します。
宇都宮基綱の元服
宇都宮基綱の「基」の文字は、鎌倉公方の足利基氏からの偏諱だと考えられています。
足利尊氏の死後に、観応の擾乱で足利直義に味方した者達の、室町幕府への復帰が多くなされる様になります。
この時に宇都宮氏綱は越後・上野の守護でしたが、足利義詮や基氏は上杉憲顕を越後守護に任命しています。
反発したのが宇都宮氏の重臣である芳賀禅可ですが、足利基氏に岩殿山合戦で戦いを挑むもあえなく敗れ去りました。
宇都宮氏綱は「芳賀氏が勝手にやったこと」とし謝罪を入れますが、上野守護も剥奪されています。
こうした事情もあり、宇都宮氏は足利基氏に気を遣わねばならず、忠誠を誓う意味でも嫡男の宇都宮基綱は一字拝領させて貰ったと考えられています。
宇都宮氏綱は河越直重の平一揆の乱にも加担し、所領を削減され落ち目となっていました。
こうした中で宇都宮氏綱は紀伊遠征で南朝の軍と戦いますが、病により亡くなっています。
これにより宇都宮基綱が当主となりました。
宇都宮基綱の最後
康暦二年(1380年)に宇都宮基綱と小山義政の間で、裳原の戦いが勃発しました。
鎌倉公方の足利氏満は宇都宮基綱と小山義政の戦いに、ついて次の様に述べています。
※南北朝武将列伝北朝編104頁より引用
両者には確執があり固く制止していたのに、その決定に従わず、義政が基綱の在所を攻撃し、(中略)基綱が防戦して討ち死にした。
義政の狼藉について罪科は逃れ難い。
足利氏満の言葉から宇都宮基綱と小山義政が不和になっていた事も分かるはずです。
さらに、小山義政の攻撃を受けた宇都宮基綱が戦死した事も分かります。
宇都宮基綱と小山義政は所領問題を抱えており、確執が生じたと考えられています。
宇都宮基綱の最後を聞いた足利氏満は小山義政討伐に取り掛かり、関東管領の上杉憲方らが出陣しました。
この戦いで足利義満が制止したにも関わらず、足利氏満は撤退命令を無視しており、これらの行動も将軍と鎌倉公方の不和の原因にもなっています。
直、宇都宮基綱が30歳ほどで亡くなってしまった事で、幼少の宇都宮満綱が後継者となっています。