名前 | 朝倉広景 |
生没年 | 1254年?ー1352年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
一族 | 子:中野愚谷、朝倉高景、松尾宗景 |
コメント | 越前朝倉氏の初代 |
朝倉広景は但馬国にいましたが、長井氏の家来筋だったとされています。
鎌倉時代の末期に後醍醐天皇による元弘の変が起きますが、足利尊氏の元に馳せ参じました。
長井氏と足利一門の斯波氏は婚姻関係を結んでおり、朝倉広景は斯波高経の配下となります。
後に斯波高経と共に越前に入国し黒丸館を与えられました。
弘祥寺を創建するなどの功績があった事も分かっています。
尚、朝倉氏六代の動画も作成してあり記事の最下部から視聴する事が出来ます。
朝倉広景の出自
朝倉氏は欠史八代の開化天皇の子孫を名乗る日下部氏の系統だとされています。
朝倉広景の出自に関しては分からない事が多いです。
それでも、但馬国の養父郡朝倉郷出身だというのは研究者の間でも共通の見解となっています。
朝倉広景自身も朝倉信高の子とする説もあれば、朝倉高吉の子とする話もあります。
複数の説があるのは、朝倉広景の出自が戦国時代にはよく分からなくなっていたとも考えられています。
1352年に98歳で没したとする記述もあり、これを信じるのであれば、それを信じるのであれば1254年に生まれた事になるでしょう。
ただし、朝倉広景が98歳まで生きたとするのは、信憑性が薄いと考える人もいる状態です。
50代で亡くなったとする説もあり、はっきりとしませんが、鎌倉時代に生まれた事だけは間違いないでしょう。
尚、朝倉氏の通字となっている「景」の文字は、朝倉広景から始まったとされています。
長井時秀に仕える
朝倉広景は長井時秀に仕えていた事が分かっています。
長井時秀は鎌倉幕府の関東評定衆を務める幕府の中枢にいる実力者でした。
長井時秀の娘と斯波宗氏の間に出来た子が斯波高経となっています。
斯波氏は足利氏の中で吉良氏と並ぶ高い家格を保持していました。
長井一族の長井頼重が但馬の朝倉郷の地頭職も行っていた事が分かっています。
朝倉広景は斯波高経の母親である長井時秀の娘を通して、斯波高経と知り合ったと考えられています。
朝倉広景の越前入国伝説
朝倉家伝記によると、朝倉広景は丹後や但馬が乱れた時に、城に籠りました。
この時に夢のお告げがあり、法華経を背負い北国に向かう事になります。
朝倉広景は諏訪神主と二人で越前に府中に到着し、そこから北床を通り黒丸館に到着しました。
ここで足羽床黒丸の息女妙浄と夫婦となります。
この時の朝倉広景は50才であり、妙浄は22歳だったと伝わっています。
朝倉家伝記ではドラマチックな演出で、朝倉広景が越前入国を果たした事になっているわけです。
因みに、妙浄は元徳二年(1330年)に48歳で亡くなったと伝わっています。
これらの背景には後年に朝倉氏が斯波氏に反発し、幕府直臣を願った事で作られた説話だともされています。
斯波高経と朝倉広景
元弘の乱で名越高家が討たれると、足利尊氏は丹波国の篠村で反旗を翻しました。
この時に、朝倉広景は子の朝倉正景と共に、足利尊氏の元に赴く事になります。
この時に、朝倉広景は斯波高経配下になったとも言われています。
足利尊氏は後醍醐天皇の勅命を受けており、六波羅探題を陥落させ、新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させています。
後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、中先代の乱を決起として足利尊氏が建武政権を離脱しました。
後に足利尊氏は越前を斯波高経に任せますが、朝倉広景も同行し越前に入る事になります。
斯波高経は仁木頼章や高師泰らの協力を得て、金ヶ崎城を落城させ新田義顕や尊良親王らは自害し、恒良親王は捕虜としました。
斯波高経は北陸戦線で南朝の新田義貞を相手に優位に戦いを進め、朝倉広景も何らかの功績があったのでしょう。
黒丸城
越前に移った朝倉広景ですが、一条家の荘園足羽北庄の代官職となり、斯波氏の根拠地である黒丸館も預けられる事になります。
これに伴い朝倉広景は「黒丸右衛門入道」と呼ばれました。
朝倉広景は斯波高経の拠点にもなっている黒丸館で活動を繰り広げる事になります。
黒丸城の評定
戦いに敗れた新田義貞ですが、脇屋義介と共に逆襲し斯波高経の拠点である新善光寺城を攻め落としました。
新田義貞は勢いに乗り足羽の城に功績を掛けますが、藤島の戦いで命を落とす事になります。
新田義貞は世を去りますが、弟の脇屋義助が健在であり、黒丸城に籠城した斯波高経に攻撃を仕掛けてきました。
脇屋義助は畑時能、由良光氏、堀口氏政らと協力し、斯波高経は窮地に陥る事になります。
この時に上木家光なる武士が北朝に寝返っており、黒丸城にいました。
上木家光は斯波高経に籠城策の危険性を説きますが、斯波高経は独断で決める事が出来ず評定を開く事になります。
この表情に参加した者の中に「浅倉」の名があり、これが朝倉広景だと考えられています。
この事から斯波高経が新田氏と越前で争っていた頃には、朝倉広景は評定にも参加できる程の武士だった事が分かるはずです。
斯波高経は黒丸城を退き加賀の富樫城に落ち延びますが、後に逆襲に転じました。
1342年頃までには、脇屋義介を美濃に追い落とす事に成功しており、越前の大部分を制圧しています。
弘祥寺の創建
越前が平穏を取り戻した1342年4月に、朝倉広景は安居に弘祥寺を創建しました。
弘祥寺は朝倉広景の一代では完成しませんでしたが、越前朝倉氏の氏寺では最初で最大のものとなっています。
朝倉広景は弘祥寺を建立するだけの実力があったとみる事ができ、かなりの力を持っていたのではないかとも推測されています。
弘祥寺の開山には別源円旨が迎えられました。
弘祥寺は朝倉氏のみならず越前の歴史や文化に大きな影響を与える事になります。
朝倉家伝記によると、朝倉広景の後継者となる朝倉高景が弘祥寺を完成させていますが、別源円旨が「朝倉栄えれば弘祥寺栄うべし」と書き、朝倉高景は「弘祥寺栄えれば、朝倉栄うべし」と書いたとあります。
朝倉氏と弘祥寺の深い関係が分かるはずです。
朝倉高景の子である朝倉氏景の時代になると、弘祥寺に大仏殿が建立されました。
朝倉景広の後継者
朝倉景広は弘祥寺の完成を願い長男の中野愚谷に託そうとしますが、中野愚谷は「某では成就する事が出来ない」と断りました。
次男の朝倉高景に打診すると承諾した事で、朝倉広景は朝倉高景を後継者に決定したと言います。
ただし、朝倉高景は弟の松尾宗景と双六を巡って口論となり、殺害してしまった話があります。
朝倉広景はこうした高景の行動を心配し、朝倉広景は宗景の子を高景の猶子とした上で、別源円旨の弟子とし出家させました。
尚、戦国時代に朝倉義景や織田信長に仕えた朝倉景綱なる人物がいますが、中野愚谷の子孫ではないかとも考えられています。
朝倉氏と八木氏
太平記に越前守護代の八木光勝なる人物が登場しており、八木氏は朝倉氏と同族の但馬八木氏だとされており、朝倉広景と共に斯波高経に従ったのでしょう。
観応の擾乱では高師直の御所巻により、上杉重能と畠山直宗が江守で八木光勝により命を落とした話があります。
八木氏は足羽床の北に領地を持ち、高師直の命令で両者を処刑したと考えられています。
朝倉広景の書状の裏書に「八木美作入道」とあり、原本を忠実に写しているのであれば、朝倉広景が八木氏の一族だという事を認めていた事になるはずです。
朝倉広景の最後
観応の擾乱では足利尊氏と足利直義が激しく争いますが、最終的に足利尊氏が勝者となりました。
1352年に足利直義が亡くなっています。
足利直義が亡くなってから、三日後の1352年2月29日に朝倉広景は亡くなりました。
法名は空海覚性となっています。
朝倉広景は実在した人物あのか
越前朝倉氏の初代とも言うべき、朝倉広景ですが実在しなかったとする説もあります。
朝倉広景の最初の見せ場と言えば、足利尊氏の元に馳せ参じた時でしょう。
しかし、朝倉軍談によると足利尊氏の元に馳せ参じたのは、朝倉正景となっており、朝倉広景の名前が確認出来ない状態です。
さらに、弘祥寺を創建したのも朝倉正景(高景)となっています。
太平記に斯波高経配下の武将として朝倉下野守がいますが、これも朝倉正景の事ではないかとされているわけです。
これらを考えると、朝倉広景は架空の人物だったのではないかともされています。
しかし、1551年に朝倉広景の二百回忌が行われており、実在した可能性が高いとも考えられています。
一つの説として、朝倉広景が朝倉高景と共に越前に入国した時は既に高齢であり、朝倉氏の当主として活動していたのは、朝倉高景だったのではないかと考えました。
朝倉広景は朝倉氏の初代でもあり、朝倉氏を高揚させたい意味も加えられ朝倉高景の実績を朝倉広景に分けたとも考えられています。
朝倉氏の歴代当主
朝倉広景ー高景ー氏景ー貞景ー教景ー家景ー孝景ー氏景(八代)ー貞景(九代)ー孝景(十代)ー義景
朝倉氏六代の動画
朝倉広景も含む朝倉氏六代の動画となっています。
この記事及び動画は朝倉氏と戦国村一乗谷(吉川弘文館)、朝倉孝景(戎光祥出版)をベースに作成してあります。