名前 | 新田義貞 |
生没年 | 1300年?ー1338年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
主君 | 北条高時ー後醍醐天皇 |
一族 | 父:新田朝氏 弟:脇屋義介 |
子:新田義顕、義興、義宗 | |
コメント | 鎌倉幕府を滅ぼした人物として有名 |
新田義貞は鎌倉時代から南北朝時代を生きた人物です。
新田義貞が何をした人なのか?と言えば、鎌倉幕府を滅ぼした人となるでしょう。
後醍醐天皇による建武の新政が始まると重用されますが、中先代の乱で足利尊氏が建武政権を離脱すると、君側の奸として扱われてしまいました。
新田義貞は足利尊氏と各地で戦いますが、全体的には押され気味でした。
それでも、新田義貞は後醍醐天皇と決別し恒良親王を天皇として仰ぐ北陸王朝を建国しようとしていたのではないかとも考えられています。
新田義貞は藤島城の戦いの様子を見に行った時に、室町幕府の軍と遭遇戦となり不慮の事故の様な死で最後を迎えています。
今回は鎌倉幕府を滅ぼし、南北朝時代でも南朝方として活躍した新田義貞を解説します。
尚、新田義貞は松井優征先生が描く逃げ上手の若君でも、色黒の武将として登場し知名度が高くなっています。
因みに、同じく南朝の楠木正成は楚漢戦争の張良の様な武将だとされていますが、新田義貞は韓信の様な武将だとされています。
新田義貞の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴出来る様になっております。
新田義貞と足利尊氏の家柄
過去には太平記の記述に従い新田義貞は「源氏嫡流」として家柄もよく足利尊氏のライバルだとされてきました。
しかし、近年の研究では新田氏は足利氏の庶流に過ぎなかった事が分かって来たわけです。
南朝の重鎮で同時代の人である北畠親房の神皇正統記にも「上野国の源義貞(新田義貞)は足利高氏(足利尊氏)の一族」と書かれています。
増鏡や保暦間記にも新田義貞は尊氏の一族とする記述があり、最近では家格において足利氏と新田氏がライバル関係にあったと考える人は殆どいない状態です。
人によっては豊臣秀吉の例を挙げて「家柄など関係ない」と思うかも知れませんが、実際には足利尊氏と新田義貞の勝敗を分けたものは家格だった様に感じています。
無名の新田義貞
新田義貞は1300年頃に生まれたと考えられています。
1318年に上野国新田荘内の在家・畠を売り渡した源義貞(新田義貞)が最初だとされています。
新田義貞の事を鎌倉幕府では「新田孫太郎貞義」と認識していた話もあり、既に名前が間違っている所から大した人物だと思われていなかったのではないかともされています。
1324年にも新田義貞は荘内の在家・畠を売っており、この時には鎌倉幕府は「新田小太郎義貞」と認知していた事が分かっています。
このノーマークに近い様な新田義貞が鎌倉時代を終焉させるとは、鎌倉幕府の首脳部も思ってはいなかったはずです。
新田義貞と鎌倉幕府
従来は足利家は北条氏と深く結びつき勢力は大きく強大で、それに反し新田義貞は貧乏で弱小勢力だとも考えられてきました。
しかし、現在では新田氏は地域の有力武士であり、新田義貞の妻にしても得宗被官・安東氏の娘だと考えられ近しい仲だという事も分かって来たわけです。
新田氏は重要拠点である世良田宿を抑えるなどもしており、幕府にとっても重要な一族だったとも考えられています。
上野に帰国
1333年よりも前に新田義貞は京都大番役の為に、在京していましたが、この時に後醍醐天皇や護良親王を主犯とする元弘の乱が勃発しました。
楠木正成も千早城に籠城し幕府軍と戦っています。
鎌倉幕府の首脳部も大軍を近畿に向かわせ、この軍に新田義貞も合流する事になります。
新田義貞も最初から倒幕に舵を切っていたわけではなく、最初は幕府軍の一員だったわけです。
ただし、新田義貞は幕府軍として最後まで戦う事は無く、途中で本国である上野に帰還しました。
新田義貞が無断で帰国したのか幕府の許しを得て帰国したのかは不明ですが、上野国に戻った事は間違いないでしょう。
尚、新田義貞は在京時に護良親王とコンタクトを取っていたのではないかとも考えられています。
幕府の方では名越高家と足利尊氏に命じ乱の鎮圧を目指しますが、赤松円心らにより名越高家は呆気なく討ち取られました。
こうした状況の中で足利尊氏を上杉重能や細川和氏が説得し、遂に足利尊氏も倒幕に舵を切る事になります。
鎌倉幕府の滅亡
新田義貞の挙兵
足利尊氏が反旗を翻すと鎌倉にいた千寿王(足利義詮)は、鎌倉を脱出し上野国世良田までやってきました。
ここで足利尊氏は新田義貞に千寿王と共に幕府軍と戦う様に命令しています。
足利尊氏は庶流の新田義貞に命令しており、東国の足利一門に幕府軍と戦う様に大号令を発したと言えるでしょう。
足利一門の棟梁とも呼べる立場から倒幕を目指す様に言われた新田義貞ですが、北条氏との関係も決して悪かったわけでもなく迷いはあったはずです。
実際に新田義貞が上野で挙兵するとなれば、鎌倉から大軍が送られ一気に滅ぼされる可能性もあり、難しい決断だったと言えるでしょう。
ここで新田義貞は幕府との決別を選択し生品神社で挙兵し、鎌倉に向けて進軍する事になります。
太平記によると挙兵した時の新田義貞は僅か150騎だったと伝わっています。
尚、新田義貞はこれを最後の本拠地である上野に戻る事はありませんでした。
新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす
新田義貞は上野国で挙兵すると山名氏、里見氏が従う事になります。
山名や里見は新田家の庶流であり従ったのでしょう。
さらに、新田軍には堀口氏、大舘氏、岩松氏、桃井氏らも加わり、上野だけではなく信濃、越後、甲斐などの武士も集まってきました。
千寿王も挙兵に参加しており、名目上の総大将は足利千寿王でしたが、実質的な総大将は新田義貞だったわけです。
新田義貞は東国の足利一門を率いて鎌倉を目指しました。
武蔵国の小手指原の戦いや分倍河原の戦いで勝利し、新田義貞の軍は多摩川を超えて瀬谷原と続き鎌倉稲村ケ崎まで到達しています。
新田義貞が鎌倉に到達した頃には多くの武士たちが新田義貞の軍に加わっており、鎌倉幕府の軍勢を圧倒していました。
新田義貞は鎌倉を陥落させ幕府の最高権力者である北条高時を自害に追い込んでいます。
ここにおいて鎌倉幕府は滅亡しました。
当然ながら新田義貞は倒幕の大功臣となり、無名だった新田氏を飛躍させた言ってもよいでしょう。
尚、新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼした時点で、足利尊氏にとって警戒すべき相手になったとする見解もあります。
それと同時に鎌倉幕府を滅ぼした将軍となってしまった新田義貞には、重い足かせが付いて回った様にも感じています。
新田義貞の上洛
新田義貞は鎌倉を制圧すると、五大院宗繁が内通し北条邦時を差し出してきました。
鎌倉では千寿王をトップとし新田義貞は戦後処理に奔走する事になります。
後醍醐天皇も京都に戻り建武の新政が始まりました。
しかし、鎌倉では騒動があり足利尊氏は細川和氏、頼春兄弟や細川師氏らを派遣しています。
結果的に新田義貞に問題があるという事にもなり、新田義貞は上洛する事になりました。
論功行賞
後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、武士の中で最大の功臣は六波羅探題を攻め滅ぼした足利尊氏となりました。
足利尊氏は武士たちの中でもトップの家格を持ち、尊氏の寝返りが倒幕の決め手になったと後醍醐天皇は考えたのでしょう。
ただし、当時から足利尊氏の六波羅探題滅亡よりも、新田義貞の鎌倉陥落の方が難易度が高く、新田義貞をもっと評価すべきとする声もあった様です。
足利尊氏は領地と共に従三位・武蔵守になっており3カ国を任せられたのに対し、新田義貞は従四位と共に上野や播磨など2カ国を任せられています。
足利一門の嫡流である足利尊氏と庶流の新田義貞で差が付いたと言えそうです。
ただし、足利直義よりも新田義貞の方が官位を上としており、後醍醐天皇としては足利尊氏を抑え込む役割を新田義貞に期待したとみる事も出来ます。
後醍醐天皇は楠木正成と同様に新田義貞を重用したと言えるでしょう。
尚、倒幕の功績により新田義貞は勾当内侍を妻とした話も残っています。
中先代の乱
北条氏の残党は当然ながら建武政権に不満を持っており、活発な動きを見せる様になります。
旧幕府勢力からしてみれば新田義貞や足利尊氏は最大級の悪人であり、両者の暗殺計画まであったわけです。
1335年に中先代の乱が勃発し北条時行や諏訪頼重が、鎌倉を急襲し足利直義を破りました。
足利尊氏は素早く動き配下の者達を連れて電光石火の動きで北条時行の軍を鎌倉から駆逐しています。
足利尊氏は身の危険を感じたのか鎌倉に留まり建武政権から離脱する事になります。
新田義貞も中先代の乱を鎮圧しようとしていた話もありますが、素早く動いた足利尊氏に先を越されてしまったとも伝わっています。
新田義貞と足利尊氏の対立
足利尊氏と直義は勝手に論功行賞を始めますが、後醍醐天皇の怒りを買う事になります。
後醍醐天皇は鎌倉討伐を立案しますが、この時に新田義貞を総大将にするという風聞が流れました。
ここで足利尊氏と直義は新田義貞との戦いは不可避と考えたのか、上野の守護に上杉憲房を任命しています。
上野は新田義貞の本国とも呼べる地域であり、足利尊氏と新田義貞の対立が表面化する事になります。
尚、足利尊氏が建武政権から離脱した時に、新田義貞には足利尊氏に味方すると言う選択肢もあったはずです。
しかし、足利尊氏が上杉憲房に上野を与えてしまった事で、新田義貞は足利一門として動けなくなり、後醍醐天皇に味方する以外に道は無くなったともされています。
他にも、足利尊氏は新田一族の者にも恩賞を与え主従関係になってしまった新田系武士たちもいた様です。
足利尊氏の方でも新田義貞や公家たちが自分を陥れようとしているなどとし、細川和氏を使者とし新田義貞を「君側の奸」として誅罰する様に後醍醐天皇に伝えています。
こうした事情もあり新田義貞は足利一門ではありましたが、尊氏と決別しました。
尚、足利幕府では上野守護を上杉憲房が亡くなると上杉憲顕とし世襲し、上杉家は後に関東管領へと発展していきます。
下剋上
後醍醐天皇は新田義貞を総大将とする討伐軍を鎌倉に派遣する事を決定しました。
新田義貞は尊良親王と共に足利尊氏討伐の為に鎌倉を目指す事になります。
足利一門の堀口氏、脇屋氏らが新田義貞に付き従い、足利尊氏には仁木氏、細川氏、山名氏、畠山氏、岩松氏、今川氏、吉見氏らが付き従いました。
先にも述べた様に新田義貞は足利一門であり、建武の乱は足利氏を二分した戦いとも言えそうです。
別の言い方をすれば庶流の新田義貞が足利氏嫡流の尊氏に挑んだ戦いであり、下剋上とする見方もあります。
箱根竹ノ下の戦い
新田義貞は東海道を進撃しますが、足利尊氏は細川頼春と共に浄光明寺に引き籠りました。
新田義貞は足利直義、高師泰らを矢作川の戦いや手越河原の戦いで破りますが、ここにおいて足利尊氏が自ら出陣して来たわけです。
ここにおいて箱根竹ノ下の戦いが勃発する事になります。
箱根方面では新田義貞や宇都宮公綱の活躍もあり足利直義を相手に優勢に戦いを進めますが、竹ノ下方面では尊良親王、脇屋義介が足利尊氏に敗れました。
竹ノ下方面で敗れた事で新田義貞は態勢を維持する事が出来なくなり、宇都宮公綱の進言もあり近畿に兵を後退させました。
この時に、全国各地に新田義貞に与する勢力が複数いましたが、足利方による追討対象となっています。
新田勢は敗走しましたが、奥州からは凄まじい速さで北畠顕家が近畿を目指しており、新田勢にもまだまだ挽回の余地がありました。
足利軍を破る
足利尊氏と新田義貞は京都の周辺で激戦を繰り返し、後醍醐天皇が東坂本に移るなどもしています。
新田勢は奮戦しますが、戦いの趨勢は足利勢にあったと言えるでしょう。
こうした中で新田義貞が北陸に下向したなども情報も流れていた様であり、様々な噂も飛び交っていたはずです。
新田義貞は苦しい戦いを強いられますが、北畠顕家率いる奥州軍が到着すると状況は一変しました。
新田義貞、北畠顕家、楠木正成の三将は足利尊氏を破り丹波に敗走させ摂津国でも足利軍を破っています。
足利尊氏は赤松円心の進言を聴き入れ石橋和義を後方の抑えとして配置し、自らは九州に落ち延びています。
新田義貞の追撃
足利尊氏は九州に向かいますが、新田義貞は追撃戦を行っています。
この時に新田義貞は妻の一人である勾当内侍との別れを惜しみ、これが原因で出陣が遅れて明暗を分けた話しもありますが、これは脚色が加えられているのでしょう。
新田義貞は脇屋氏や江田氏と共に播磨、備前、備中を転戦しますが、赤松円心や石橋和義に手こずり思った様な戦果を挙げる事が出来ませんでした。
この頃には奥州も荒れてきており、奥州軍は帰国しています。
尚、この時期に新田義貞の子である新田義顕や一族の脇屋義介、義治、世良田氏などが武者所に就任しており、後醍醐天皇の新田一族への信頼度の高さが分かる話にもなっています。
湊川の戦い
九州に落ち延びた足利尊氏ですが、少弐頼尚の助力を得て多々良浜の戦いで勝利し復活しました。
足利尊氏は四国の細川勢も呼び寄せ大軍勢となり上洛軍を興しています。
新田義貞は楠木正成と共に足利軍を迎え撃ち、摂津国で湊川の戦いが勃発しました。
楠木正成は過去に新田義貞を処刑し、足利尊氏と和睦する様に後醍醐天皇に進言した事もありましたが、ここでは楠木正成と新田義貞が共闘する事になったわけです。
楠木正成と新田義貞は決戦の前夜に酒を酌み交わし、お互いの心情を述べた話も伝わっています。
戦力で言えば足利尊氏が圧倒しており、楠木正成は戦死し新田義貞は小山田高家が馬を差し出した事で戦場を離脱しています。
足利軍は京都に雪崩込み後醍醐天皇は比叡山に入りますが、京都では激戦が繰り広げられました。
新田義貞や脇屋義介らは奮戦しますが、名和長年が戦死し、新田義貞も東国に没落したなどの噂が流れています。
尚、太平記にはこの戦いで足利尊氏と新田義貞による一騎打ちで決着をつけようとした話があり、上杉重能が足利尊氏を項羽と劉邦の例を出し、諫止した事で取りやめになった話があります。
後醍醐天皇との別れ
新田軍と足利軍は激闘を繰り返しますが、戦いに関しては新田勢が不利でした。
足利尊氏は光厳上皇の院宣を獲得し光明天皇を即位させ、建武式目の制定を行うなど室町幕府発足の方向に動いています。
ここで室町幕府の勢力は光明天皇の皇太子として、後醍醐天皇の皇子である成良親王を指名しました。
足利尊氏や直義は後醍醐天皇が上皇となり治天の君となる道を残していた事になります。
こうした中で足利尊氏は後醍醐天皇に和議を申し入れ、後醍醐天皇は比叡山を降り京都に向かおうとしました。
後醍醐天皇が下山する最中に、新田家臣の堀口貞満は涙ながらに訴え掛け「新田一族の忠義を忘れてはいけない」と説いています。
下山する後醍醐天皇を見た新田義貞は沈黙したとも言われていますが、堀口貞満は猛抗議を行ったわけです。
新田義貞も後醍醐天皇に意見し、後醍醐天皇は新田義貞を宥めなければ下山できぬ状態になってしまったのでしょう。
後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を新田義貞に預け、恒良親王に天皇の位を譲る事で新田義貞を納得させています。
新田義貞は天皇の権威を背景に北陸で再起を目指す事になります。
尚、この頃から新田義貞は後醍醐天皇の人間性に疑問を持ち始めたのではないかとも考えられています。
新田義貞は後醍醐天皇から離れ北陸に移動しますが、これが今生の別れとなります。
幻の北陸王朝
新田義貞は比叡山を出ると北陸を目指しました。
新田義貞は恒良親王という天皇を擁立し、北陸王朝の建国を狙ったのではないかとする説もあります。
後醍醐天皇の方は足利尊氏らにより花山院に幽閉されますが、脱出し吉野で南朝を開く事になります。
ここにおいて南北朝時代が始まりました。
恒良親王は越前で綸旨を発行するなど天皇の様に振る舞っていましたが、後醍醐天皇が南朝を開くと遠慮したのか皇位継承は取り下げています。
これにより新田義貞による北陸王朝は幻となりました。
金ヶ崎城の戦い
新田義貞は金ヶ崎城に入り防備を固める事になります。
足利方の越前守護・斯波高経が金ヶ崎城に攻撃を仕掛けてきますが、新田義顕や脇屋義介と上手く連携し敵を打ち破りました。
この後に、敦賀湾で恒良親王、尊良親王、新田義貞、脇屋義介、洞院実世らが船からの雪見を行った記録も残っています。
しかし、平穏な時は長くは続かず、足利勢は高師泰に大軍を授け越後、信濃の軍勢にも動員を掛け新田義貞を討とうとしています。
室町幕府の勢力としては新田義貞を危険視しており、早めに息の根を止めたいと考えていたのでしょう。
金ヶ崎城は堅城ではありましたが、新田勢は戦力的に大きく劣っており、尊良親王が自害し、新田義貞の子の新田義顕も戦死し、恒良親王は捕虜となっています。
金ヶ崎城は落城しましたが、新田義貞は落城時に城にはおらず、脱出しており生き延びる事になっています。
恒良親王も「新田義貞は自害し火葬した」と虚言を述べた事で、幕府の新田義貞への追及は弱まりました。
ただし、金ヶ崎城の戦いで新田義貞は自らの権威である恒良親王と尊良親王を失っており苦しい立場は続く事になります。
新田義貞と北畠顕家
金ヶ崎城を失った新田義貞は杣山城を本拠地として抗戦を続けました。
ここでも苦しい戦いが予想されましたが、後醍醐天皇の命令に従い北畠顕家率いる奥州軍が近畿に進撃してきたわけです。
北畠顕家は関東では斯波家長を討ち取り、美濃の青野原の戦いでは土岐頼遠らを破る活躍を見せました。
ここで北畠顕家は北陸の新田義貞と合流する選択もあったはずですが、進路を伊勢路に変え大和を目指しています。
北畠顕家が新田義貞と連携しなかった理由ですが、北畠顕家や北条時行の個人的な感情とも言われていますが、実際には青野原の戦いでのダメージが大きかった為でしょう。
幕府は黒血川に高師泰を派遣し必死の抵抗を見せた事で、損害を嫌った北畠顕家が南朝が優勢な伊勢を通り吉野を目指したのが実情だと思われます。
尚、北畠顕家は後に近畿を転戦し室町幕府の軍を破ったりもしましたが、後に石津の戦いで高師直に敗れ世を去りました。
新田義貞と後醍醐天皇の決裂
新田義貞も平泉寺の助力を得て斯波高経を破るなど勢力を回復させています。
斯波高経は足羽七城を建造し新田義貞に対抗しました。
こうした中で後醍醐天皇は新田義貞に上洛する様に綸旨を発行しています。
石津の戦いが終わった後に、石清水八幡宮に籠城する北畠顕信や新田義興は高師直ら幕府軍に包囲され苦しい戦いを続けており、後醍醐天皇は戦況を打開する為に、新田義貞の上洛を期待したのでしょう。
この時に新田義貞は弟の脇屋義介に命じ上洛軍を起こした話もありますが、新田義貞本人は越前から動く事はありませんでした。
一つの説として新田義貞は上洛するよりも北陸での地盤固めを優先させたのではないかと考えられています。
この時の新田義貞は金ヶ崎城を奪還する所まで来ており、当時の新田氏は勢力をかなり挽回させていた事も分かっています。
新田義貞の戦略が順調に進めば新田義貞が北陸で第三極となったのではないかともされています。
新田義貞が上洛しなかった理由は不明ですが、既に後醍醐天皇に対し不信感を抱いていたのではないかとする説があるという事です。
新田義貞の最後
近畿の戦いでは高師直が石清水八幡宮を放火し、それを聞いた脇屋義介は北陸に撤退しました。
平泉寺が斯波高経に味方し藤島城に籠りました。
藤島城の様子がおかしいとの情報を新田義貞がキャッチすると、50騎ほどで藤島城に向かいますが、この時に幕府軍と遭遇してしまいました。
新田軍はほぼ丸腰状態だったのに対し、幕府軍は弓矢を持っており新田軍に襲い掛かったわけです。
中野宗昌は新田義貞に逃げる様に進言しますが、新田義貞は部下を見捨てる事が出来ず拒否しました。
新田義貞は幕府軍の矢を受けて落馬し、最後は眉間に矢が当たり、致命傷だと悟った新田義貞は自害し最後を迎えています。
鎌倉幕府を滅ぼした英傑の呆気ない最後だったと言えるでしょう。
尚、福井県福井市に藤島神社があり、主祭神が新田義貞となっています。
新田義貞は死後に神になったとも言えそうです。
名前 | 住所 | 電話番号 |
藤島神社 | 福井県福井市毛矢3丁目8−21 | 0776-35-7010 |
新田義貞が敗れ去った理由
新田義貞が敗れ去った理由は、個人的には家格にあると感じています。
足利尊氏は戦いに敗れても、次々に兵士が集まって来て復活しますが、新田義貞は戦いに敗れるとジリ貧状態が続く様に感じました。
足利尊氏は家格も高く求心力もあり、武士たち集まってきますが、新田義貞は元は足利一門の庶流でしかなく、武士たちからの支持を得られなかったと言えるのではないでしょうか。
他にも、足利尊氏は気前がよく武士たちに恩賞を多く与えており、この点は劉邦に似ている部分だと感じました。
ただし、足利尊氏は一つの所領を複数の人物に与える約束をするなど困った行動もあり、足利義詮や高師直が尻拭いをした話もあります。
それに対し、新田義貞は家格が低く恩賞を与える約束が武士たちに出来ず、これが求心力の差を生んでいるのでしょう。
それでも、新田義貞の臣下である小山田高家や堀口貞満などは忠臣であり、新田義貞は部下に対し気を遣っていたとみる事も出来ます。
楚漢戦争の敗者となった項羽は婦人の情とも言われていますが、部下に対して涙を流した話もあり、似た様な所が新田義貞にもあった様に感じました。
ただし、歴史を見ると人々が集まるのは、高い恩賞を与える事が出来る人物なのでしょう。
新田義貞の評価
南北朝武将列伝の中で新田義貞に対し、谷口雄太先生は次の様に述べています。
※戎光祥出版・南北朝武将列伝南朝編165ページより
義貞は死後、その名を歴史・文学など多方面に残している。
それだけではない。
彼による足利一門の分裂戦争、下剋上、実力主義、地域ブロック構想などは確実に次の時代を切り拓いている。
それゆえ、新田義貞はまさしく南北朝期を象徴するにたる人物であるといえるのである。
谷口先生が如何に新田義貞を好んでいるのかが分かる文章だと感じました。
新田義貞は歴史において重要人物の一人である事は間違いないでしょう。
新田義貞の動画
新田義貞のゆっくり解説動画です。
この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝をベースに作成してあります。