室町時代

石塔義憲は多賀国府を奪還するも短期間で奪われた

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宮下悠史

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名前石塔義憲https://rekishi-shizitsu.jp/ishidouyorifusa/
別名義元、義基
時代南北朝時代
一族父:石塔義房 兄弟:頼房、範家
コメント多賀国府奪還するも短期間で奪い返された

石塔義憲は奥州総大将に任じられた石塔義房の子でもあります。

兄弟には石塔頼房と石塔範家がいます。

石塔義憲は父の義房が奥州総大将になると、共に奥州に向かいました。

観応の擾乱が勃発すると、石塔義憲も含めた石塔氏は直義派として活動する事になります。

太平記によると足利直義が亡くなり観応の擾乱が終わると、石塔義房は足利尊氏の暗殺を石塔義憲に持ちかけました。

ここで石塔義憲は足利尊氏の暗殺は不義にあたるとし、父親と袂を分かつ事になります。

石塔義憲は後に奥州に戻り吉良満家から多賀城を奪いますが、短期間で奪い返されたとも伝わっています。

その後の消息はよく分かっていませんが、斯波家兼により最後を迎えたとする伝承があります。

この記事は右京大夫政元氏の論文を読もうシリーズをベースに作成してあります。

右京大夫政元氏の動画に関しては、記事の最下部にあり視聴してみてください。

奥州に入る

1337年に石塔義憲の父親である石塔義房が奥州総大将に任ぜられました。

北畠顕家に苦戦する斯波家長を助ける為に、石塔義房が奥州総大将になったのでしょう。

石塔義憲も石塔義房や石塔頼房と共に、奥州に入る事になります。

兄の石塔頼房は比較的早い時期に、奥州を離れましたが、石塔義憲は父と共に奥州に残りました。

北畠親房小田治久に迎え入れられ常陸合戦が勃発しますが、高師冬と協力し勝利しています。

しかし、足利尊氏が石塔氏を警戒した為か、石塔義房は奥州総大将の位を剥奪されてしまいました。

これにより石塔義房及び石塔義憲は奥州を離れる事になります。

石塔義憲は1345年までの9年間に渡り、奥州にいた事になります。

石塔義憲は奥州を離れましたが、9年間の中で当然ながら在地勢力との繋がりを持ったわけです。

これが後に石塔義憲の多賀国府奪還の原動力となります。

石塔義房が解任されると室町幕府では、畠山国氏と吉良定家を奥州管領に任命しました。

父との別れ

観応の擾乱で石塔氏は足利直義に味方しますが、最終的には敗者側の人間となります。

足利直義死後に直義派の上杉憲顕や南朝の新田義宗、新田義興、北条時行らが挙兵し武蔵野合戦が勃発しました。

旧直義派と南朝の軍は足利尊氏を破ると、鎌倉に向かって進撃する事になります。

南朝の北条時行や新田義興は三浦高通を味方とし、鎌倉奪還の為に兵を繰り出しました。

石塔氏は尊氏方として参戦はしていましたが、父親の石塔義房は尊氏に対して、大して忠誠心は抱いてはいなかったわけです。

太平記によると石塔義房は新田氏と通じており、鎌倉攻めの時に足利尊氏を暗殺してしまう様に、石塔義憲に持ちかけました。

石塔義憲は父とは別の感情を抱いており「武士に二心あるのは恥」として受け付けなかったわけです。

石塔義房は南朝の武将となり、石塔義憲は北朝として残りました。

この時点で石塔義憲は父親と袂を分かつ事になったと言えます。

尚、尊氏派として石塔義憲及び南宗継が新田義興や北条時行と戦い敗れました。

奥州に戻る

奥州では奥州管領の吉良貞家と畠山国氏が観応の擾乱で争い、吉良貞家が勝者となりました。

しかし、比較的早い時期に吉良貞家は亡くなっています。

こうした時期に石塔義憲は奥州に戻り、活動を再開しました。

1354年に石塔義憲は飯野八幡宮の今新田村を寄進しています。

伊賀盛光ら寺社勢力を味方につける狙いがあったのでしょう。

同様に相馬氏の岡田胤家にも所領安堵を行っています。

石塔氏が奥州で覇を唱えた時の原動力になっていたのが、相馬氏であり目を付けたのでしょう。

多賀国府奪還と敗北

吉良貞家が亡くなると、吉良満家が後継者になっていました。

こうした中で勢力を集めた石塔義憲は、吉良満家がいる多賀国府を攻め立てています。

石塔義憲は吉良満家を破り多賀国府を占拠しました。

ここにおいて石塔義憲は念願でもあった多賀国府を手にしたわけです。

しかし、吉良満家も直ぐに反撃の準備に移っており、予断は許されない状況でした。

吉良満家の反撃が始まると、石塔義憲は戦いに敗れて多賀国府を失っています。

石塔義憲の多賀国府奪還は短期間で終わったと言えるでしょう。

石塔義憲の最後

石塔義憲は吉良満家に敗れても奥州にいたと考えられています。

後に室町幕府の中枢では斯波家兼を奥州に派遣しました。

室町幕府では奥州管領二人制に戻したわけです。

尚、斯波家兼は斯波高経の弟でもあります。

詳細は不明ですが、伝承では斯波家兼が石塔氏を玉造郡赤栄館で攻め滅ぼしたと伝わっています。

この時に、石塔義憲も最後を迎えたのではないかとも、考えられているわけです。

多賀国府で敗れてからの石塔義憲の行方はイマイチ分かりませんが、石塔氏自体が歴史から消えて行く事になります。

石塔義憲と義元、義基は同一人物なのか

石塔義憲と石塔義元及び義基は同一人物だと考えられています。

石塔義憲の最初の名前は「石塔義元」だったとされています。

ただし、尊卑分脈などでは左衛門佐義基となっています。

石塔義基の名は相馬文書や飯野文書にありますが「左馬助・義元」と「左衛門佐・義憲」の花押が一致しており、石塔義基及び石塔義元と石塔義憲は同一人物だと考えられるわけです。

石塔氏の動画

右京大夫政元氏の動画となっております。

数少ない石塔氏の貴重な動画であり、視聴してみてください。

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