名前 | 上杉憲顕 |
生没年 | 1306年ー1368年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
コメント | 初代関東管領になった人物 |
上杉憲顕は南北朝時代の人物であり、鎌倉公方の下の関東管領に就任しています。
上杉氏と言えば上杉謙信を思い浮かべる人もいるかと思いますが、上杉憲顕は上杉氏繁栄に礎を築いた人物だと言えるでしょう。
上杉憲顕は上杉系図大概によると「京都安全、関東大治、皆これ公の計略なり」と記録されており、室町幕府の樹立にも深く関わった人物でもあります。
尚、足利尊氏や直義の生母は上杉清子であり上杉氏の出身であり、足利氏とも深く結びついている事が分かります。
上杉憲顕の父親である上杉憲房と上杉清子は兄妹の関係となっています。
上杉憲顕は上杉直義と近しい人物で高師冬との戦いは勝利し関東の中心人物にはなりましたが、足利直義が尊氏に敗れると没落しています。
一時は上杉憲顕は南朝に与しますが、尊氏の死後に幕政復帰し足利基氏により関東管領に就任しました。
上杉憲顕は平一揆の最中に最後を迎えますが、上杉家の興隆の礎を築いた人物だと言えるでしょう。
尚、上杉憲顕を題材にしたゆっくり解説動画を既に作成しており、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
各地を転戦
上杉憲顕は1306年に生まれたと考えられており、1333年の鎌倉幕府滅亡の時には既に27歳になっていました。
この時にはまだ父親の上杉憲房が健在であり、足利尊氏に味方しています。
父親の上杉憲房は建武の新政では雑訴決断所に名前が連なっていますが、上杉憲顕は成良親王や足利直義と共に鎌倉将軍府に配置されました。
上杉憲顕は鎌倉将軍府では関東庇番となっています。
足利直義は母親の兄の子である上杉憲顕を信頼し、高く評価し関東廂番にしたと考える事が出来ます。
北条時行や諏訪頼重による中先代の乱が勃発すると足利直義は戦いに敗れ一時は鎌倉を奪われました。
足利尊氏が後醍醐天皇に無許可で東国を目指しますが、尊氏の軍内には父親の上杉憲房の姿もあったわけです。
足利尊氏は北条時行の軍を蹴散らし鎌倉を奪還しており、この時に上杉憲房と上杉憲顕が久しぶりに顔を合わせたと考える事も出来ます。
中先代の乱が終わると足利尊氏や直義は独自に論功行賞を始め上野国の守護に上杉憲房を任じました。
後に足利尊氏は近畿に進撃しますが新田義貞、楠木正成、北畠顕家らに敗れており、この時に父親の上杉憲房も戦死しています。
足利尊氏は九州に落ち延びますが、上杉憲顕も同道しました。
少弐頼尚に足利尊氏は迎えられ多々良浜の戦いで菊池武敏と戦いますが、上杉憲顕も足利軍の一因として参戦しています。
足利尊氏は九州で復活し湊川の戦いで新田義貞と楠木正成を破り比叡山では後醍醐天皇と和議を結び幽閉しています。
足利家では光厳天皇を奉り光明天皇を即位させますが、後醍醐天皇は京都から脱出し吉野で南朝を開きました。
これにより室町幕府の北朝と後醍醐天皇の南朝が起こり、南北朝時代が始まる事になります。
足利直義が上杉憲顕を絶賛
室町幕府が成立すると、上杉憲顕は関東に戻り足利義詮を補佐する事になります。
建武四年(1337年)に足利直義が上杉憲顕に出した手紙の中で直義が上杉憲顕を激賞するものが見つかっています。
上杉憲顕は上野を上手く治め国中静謐となり、父親である上杉憲房が生き返った様だとも書かれており、忠功を高く評価しました。
この手紙からも足利直義と上杉憲顕の関係が上手く行っている事を現わしています。
青野原の戦い
後醍醐天皇の要請により奥州の北畠顕家や南部師行、結城宗広らは再び上洛を始めました。
上杉憲顕は奥州軍に対処すべく上野から小山城に移り、奥州軍と戦った記録が残っています。
奥州軍は鎌倉の斯波家長を蹴散らし、近畿を目指しますが、上杉憲顕ら関東軍は奥州軍を追う展開となります。
ここにおいて青野原の戦いが勃発しますが、上杉憲顕も上野や武蔵の武士を率いて参戦しました。
青野原の戦いでは北畠顕家の采配が光り幕府軍を寄せ付けませんでした。
しかし、美濃守護の土岐頼遠が奮戦した事で幕府軍は総崩れにはならず、奥州軍は伊勢から吉野を目指す事になります。
北畠顕家は石津の戦いで戦死し、後に北陸で新田義貞も命を落とし、北朝及び室町幕府は南朝に対して圧倒的優位に立ちました。
直義からの信頼
青野原の戦い以後に、短い期間ですが上杉憲顕は京都にいた事が分かっています。
上杉憲顕は関東管領上杉家の礎を築いた人物であり、率先して関東に行ったかに思うかも知れませんが、実際の上杉憲顕は幕府の中枢である近畿に居て足利直義を補佐したかった思惑があったと考えられています。
足利直義御教書によれば上杉憲顕は「関東警護の事。度々暇を申し」と記録されており、関東に行きたがらなかった様子が分かります。
しかし、足利直義は安定感があり関東の地を信頼できる上杉憲顕に任せたかったというのもあった様で、上杉憲顕は結局は関東に向かう事になります。
常陸では北畠親房が小田治久らと奮戦したり、北畠顕信も多賀城を巡って南朝勢力として戦うなどもあり、足利直義は上杉憲顕の忠誠心と能力に期待をしたのでしょう。
尚、上杉憲顕は直義だけではなく尊氏からも高く評価されていた話があり、尊氏から建長寺の人々が関東に行く時に道案内を頼まれた話も残っています。
越後国に出陣
南朝は北朝に対して不利な状況に追い込まれますが、後醍醐天皇は親王と重臣たちを地方に送り込み、地方からの逆襲を試みる事になります。
南朝では大船団を組織し各地を目指しますが、嵐により大船団は壊滅しました。
それでも懐良親王が九州を席巻し、北畠親房や伊達行朝が常陸の国に入り小田治久が小田城に迎え入れています。
幕府の方でも北畠親房の動きに対処する為に、中央から高師冬を派遣しました。
高師冬は奥州総大将の石塔義房と共に奮戦し、北畠親房は結城親朝を味方に付ける事が出来ず、小田治久も最終的に北朝に味方した事で北畠親房は関城に入りました。
関東や東北では北朝と南朝で激しく争っていましたが、上杉憲顕は越後に出陣する事になります。
越後は新田義貞が守護と国司に任命され寺泊に宗良親王が入り、南朝が優勢な地域であり、上杉憲顕は対処する必要に迫られていたわけです。
この時から上杉憲顕は越後守護も兼ねる事になります。
上杉憲顕が越後に出兵している最中に伯母にして、足利尊氏と直義の母親である上杉清子が亡くなりました。
直義の御教書によると上杉憲顕は葬儀には参加せず越後での戦いを続け息子の上杉憲将を葬儀には参列させています。
こうした上杉憲顕の態度を足利直義は高く評価しました。
上杉憲顕は越後で大きな戦果を挙げて帰国する事になります。
上杉憲顕と高師冬
関東や東北での戦いは関城も陥落し北畠親房は近畿に戻る事になります。
役目を遂げた高師冬は一度近畿に戻りました。
近畿の方では高師直が楠木正行を四条畷の戦いで破り吉野を焼き払うなど大戦果を挙げており、幕府内での権力が高まりました。
足利直義は一度は高師直を追放しますが、逆襲され出家に追い込まれています。
足利直義が出家すると関東にいた足利義詮が京都に行き代わりに、足利基氏が関東に下向しています。
この時の足利基氏は9歳の子供であり政務を行う事が出来ず、上杉憲顕と再び関東にやってきた高師冬の二人で補佐する体制となりました。
これまでの経緯を見ても上杉憲顕は明らかに足利直義に近しい人物であり、足利直義と高師直の対立は、そのまま関東の上杉憲顕と高師冬との対立に繋がるわけです。
観応の擾乱と関東
高師直により出家させられた足利直義ですが、南朝の後村上天皇に降伏するという禁じ手を使いました。
この時に足利尊氏と高師直は九州の足利直冬の討伐に向かっていましたが、九州遠征を中止し直義と戦う事になります。
関東の方でも直義に味方する上杉憲顕と高師直の一族の高師冬の戦いとなりました。
関東の観応の擾乱に関しては石塔義房が資料を残しており上杉左衛門蔵人なる人物が常陸で挙兵しており、名前からも上杉氏の人物だという事が分かるはずです。
上杉憲顕自身も上野に戻り挙兵し高師冬は足利基氏を奉じて鎌倉を出ました。
しかし、上杉勢が相模国の毛利荘で基氏を奪い返し上杉憲顕らを共として鎌倉に戻りました。
高師冬は甲斐国に落ち延びますが、ここで命を落とす事になり関東は上杉勢が優勢となります。
関東を取り仕切る
1351年になると足利基氏が判始を行う様になっていますが、足利基氏はまだまだ子供であり、上杉憲顕が主導したと考えられています。
足利直義は関東の戦いにおける論功行賞を行う様に、上杉憲顕に支持しており、上杉憲顕は独自の裁量で論功行賞を行ったとされています。
当時の武士にとって論功行賞は最重要項目であり、上杉憲顕に対する求心力が高まった事でしょう。
ただし、上杉憲顕の本心で言えば足利直義に近侍したいと考えていた書状が発見されており、上杉憲顕は中央で活躍したかったはずです。
しかし、足利直義は関東を治め基氏を補佐するのは、上杉憲顕が適任だと考えていた様で、上杉憲顕の上洛を許しませんでした。
上杉氏の没落
高師直は殺害されています。
足利直義は幕府内の政争に勝利しましたが、南朝との交渉や配下の武士への恩賞を巡って行き詰まり、今度は尊氏や義詮と対立する様になります。
佐々木道誉と赤松則祐ら南朝に鞍替えし、足利尊氏と義詮が出陣し直義は身の危険を感じ京都を出て北陸に向かい関東に入りました。
足利直義は鎌倉に入るわけですが、その十日ほど前に上杉憲顕と小笠原氏が戦った記録があり、小笠原勢は直義の関東入りを妨害しようとしたのではないかと考えられています。
足利尊氏と直義の間で薩埵山の戦いが勃発しますが、最終的に足利直義は尊氏に降伏しました。
直義はそれから間もなく亡くなっていますが、太平記では尊氏の毒殺だとする噂が流れた事になっています。
直義の敗北は上杉憲顕の敗北でもあり、上杉憲顕の上野守護と越後守護は宇都宮氏綱が任命されました。
関東執事に畠山国清が就任し、薩埵山体制が行われています。
南朝として戦う
観応の擾乱の後に上杉憲顕は信濃国に移りますが、宗良親王を奉じた新田義興や北条時行らが上野で挙兵し足利尊氏と戦う事になります。
南朝の新田義興や北条時行に旧直義派の上杉憲顕も合流しました。
南朝の軍は小手指原の戦いで足利尊氏を破り一時は鎌倉を奪還しますが、態勢を立て直した足利尊氏に笛吹峠の戦いで敗れています。
関東での武蔵野合戦は最終的に足利尊氏の勝利となり、上杉憲顕は信越方面に落ち延びて行く事になります。
上杉憲顕が南朝の武将になってまで足利尊氏と戦った理由はよく分かっていません。
しかし、親交があり自分を高く評価してくれた足利直義を死に追い込んだ足利尊氏を恨んでいたのではないかとする説があります。
高師直が亡くなってから1年後の同じ日に足利直義が亡くなっている事から、尊氏による毒殺説があります。
尊氏による直義の毒殺説に関しては様々な意見がありますが、上杉憲顕は足利尊氏が直義を毒殺したと認識しており、南朝に鞍替えしてまで尊氏と戦ったのではないかとされています。
尊氏は足利基氏を畠山国清らに任せ自らは近畿に戻りました。
尊氏という敵を見失ったのか上杉憲顕は息子の上杉憲将に家督を譲り出家し隠遁生活に入ります。
関東管領
1358年に足利尊氏が亡くなると旧直義派の人々が幕府に復帰する事になり、この中に上杉憲顕もいました。
足利義詮の時代に関東執事の畠山国清が兵を率いて近畿に行くなどもありましたが、活躍が出来ず後に乱を起こして亡くなっています。
足利義詮は1362年までには上杉憲顕を越後守護として復帰させていた事が幕府管領の斯波義将の文書から分かっています。
上杉憲顕は再び越後守護と上野守護を兼任する様になり、1363年には足利基氏が上杉憲顕を関東管領になる様に依頼しています。
しかし、足利尊氏により越後及び上野の守護となった宇都宮氏綱は上杉憲顕が越後、上野守護になった事により改替されており、激しい反発が予想されました。
足利基氏は宇都宮氏綱が合戦を仕掛けるとする情報をキャッチすると武蔵国へ出陣し、宇都宮氏綱の家臣である芳賀高貞を破りました。
宇都宮氏綱は「芳賀氏の事は知らなかった」としましたが、独力で基氏の軍に抵抗する力もなく、上杉憲顕の関東管領を認めるしかなかったわけです。
足利基氏は力で宇都宮氏綱を屈服させたとも言えるでしょう。
上杉憲顕は関東管領として鎌倉に入りました。
上杉憲顕は就任直後は積極的に内政に関わっていた様ですが、比較的早い段階で関東管領や上野守護を上杉左近将監(上杉顕能?)に譲った事が分かっています。
これを見ると上杉憲顕が政務から身を引いて行った様に感じるかも知れませんが、京都に行き足利義詮から関東への命令を受けるなど、幕府中枢と関東への橋渡し役にもなっているわけです。
当時の幕府は義詮の将軍家と基氏の鎌倉公方で成り立っており、上杉憲顕は調整役になったとも言えるでしょう。
足利基氏の死
1367年に足利基氏が僅か28歳で亡くなってしまいました。
上杉憲顕を関東管領に登用したのは、足利基氏であり上杉家にも暗雲が立ち込めたはずです。
さらに、その翌年には征夷大将軍の足利義詮も没しています。
足利義詮の後継者になった足利義満はまだ幼少であり、同じく東国を治める鎌倉公方は基氏の子である金王丸(足利氏満)が後継者となりました。
将軍と鎌倉公方の両方が幼少だという結果になってしまったわけです。
基氏が亡くなった時に、佐々木道誉が関東を訪れましたが、足利義詮が亡くなった時には上杉憲顕が近畿に赴いています。
征夷大将軍と鎌倉公方が共に幼少という事になり、幕府管領の細川頼之と関東の上杉憲顕は重要なポジションにいたと言えるでしょう。
平一揆と上杉憲顕の最後
上杉憲顕が上洛している最中に武蔵や相模の平姓武士で構成されていた平一揆が挙兵しました。
平一揆の中心人物は河越直重や高坂氏重らであり、薩埵山の戦いでは足利尊氏に味方し河越直重は相模国の守護にもなっていたわけです。
しかし、薩埵山体制で厚遇された人々は、上杉憲顕の幕府復帰により立場を失い河越直重も相模国の守護を改替されています。
河越直重ら平一揆は河越館に籠り挙兵しました。
平一揆の反乱を京都で聞いた上杉憲顕は急いで関東に戻る事になります。
関東に戻った上杉憲顕は金王丸(足利氏満)を奉じて平一揆の反乱を鎮圧しました。
上杉憲顕は平一揆を平定しただけでなく、平一揆に与した宇都宮氏綱をも制圧しています。
ここにおいて関東では鎌倉公方を頂点とし、上杉家が関東管領となり補佐する体制が出来上がったわけです。
しかし、1368年の乱を鎮定している最中に上杉憲顕は陣中で没しました。
享年は63歳だったと伝えています。
上杉憲顕は上杉氏交流の礎を築いた人物だと言えるでしょう。
上杉憲顕の動画
上杉憲顕のゆっくり解説動画です。
※この動画及び文章は戎光祥出版の南北朝武将列伝を元に作成してあります。