名前 | 如意丸 |
別名 | 如意王 |
生没年 | 1347年ー1351年 |
一族 | 父:足利直義 母:渋川氏 |
コメント | 僅か五歳で夭折してしまった |
如意丸は足利直義と渋川氏の子です。
この時は両者ともに40歳を超えていました。
直義は実子が中々出来ず、40歳を超えてから待望の男児が誕生した事になるでしょう。
尚、如意丸の誕生が足利氏の和を乱し、観応の擾乱に突入する一因になったとする説があります。
足利直義は高師直を破りますが、同時期に如意丸が僅か五歳で夭折してしまいました。
この後の足利直義は精彩を欠く事になりますが、如意丸の死が響いた可能性も指摘されています。
如意丸は僅か五歳で亡くなっており、当然ながら実績などは一切ありません。
尚、漫画・逃げ上手の若君では、如意丸が誕生した時の足利直義と涙を流す渋川氏の姿が描かれました。
如意丸の誕生
足利直義は中々子が出来ずにおり、足利尊氏の子である直冬や基氏を養子として迎えていました。
しかし、貞和三年(1347年)六月八日に直義と渋川氏の間に男児が誕生しています。
この誕生した男児は如意丸(如意王)と名付けられました。
如意丸は吉良満義の二条京極にあった邸宅を産所としています。
足利直義も渋川氏も数え年41歳での出産であり、高齢出産だったと言えるでしょう。
尚、足利直義は如意丸の出産を願う余り、背中に腫物を患ってしまい発熱もあり、産所に訪問出来なかった話があります。
直義にとってみれば40歳を超えた後に初めての子が出来たのであり、凄まじい程の高揚感もあったのでしょう。
足利直義は真面目な人であり、野心など抱きませんでしたが、如意丸に自分の権限を委譲させたいと考え、野心を抱くようになり観応の擾乱を招いたとする説もあります。
観応の擾乱で高師直を失脚させた後に、足利直義の花押が巨大化しており、如意丸に権限を委譲させる為に、気分が大きくなったと考える専門家もいる状態です。
実際に足利直義は如意丸を将軍にするなどの野望はなかったのかも知れませんが、将来は室町幕府を支える重鎮になって欲しいなどの願いはあったのでしょう。
太平記では中先代の乱で足利直義が殺害した護良親王が転生した姿が如意丸だとしました。
太平記ではSFの要素が含まれており、死んでいった後醍醐天皇の側近たちが怨霊として高師直に乗り移るなどとした話もあります。
しかし、これらは真実でないとも言い切れませんが、常識的に考えて太平記の著者の創作なのでしょう。
如意丸と足利氏の一族
足利尊氏の夫人に赤橋登子がいます。
赤橋登子は自分の子である足利義詮を後継者になる様にと考えていました。
しかし、実質的な室町幕府の最高権力者である足利直義の子に如意丸が誕生したわけです。
赤橋登子は危機感を抱くだけではなく、足利義詮も「将軍になれないかも知れない」と考えた可能性があるはずです。
足利尊氏にしても「直義には子がいないから安心。義詮が後継者になる」と考えいてたとしてもおかしくはないでしょう。
如意丸の誕生が足利氏の和を乱したのではないかとする説もあるという事です。
如意丸の最後
観応の擾乱が勃発し、足利直義は御所巻で失脚するも、南朝に降伏し最終的に1351年の打出浜の戦いで勝利しました。
足利尊氏と直義の間で和睦が成立し、高師直は上杉能憲らにより殺害されています。
足利直義は観応の擾乱の前半戦では圧倒的な強さを見せて、勝利したと言えるでしょう。
しかし、高師直が亡くなる少し前に、足利如意丸がわずか五歳で息を引き取りました。
如意丸は陣中で没したとされています。
足利直義は宿敵であった高師直を滅ぼしましたが、如意丸の死で達成感などは感じられなかったはずです。
この後の足利直義は南朝の北畠親房との交渉にも失敗し、幕府内でも求心力を失って行きます。
足利直義の無気力ぶりが顕著になっていきますが、如意丸を失った喪失感もあったのでしょう。
如意丸と足利義詮
足利直義は観応二年(1351年)四月八日に如意丸の追善供養を行おうとしました。
但馬国太田荘内秦守を山城国臨川寺三会院に寄進しています。
この時に義詮が施行状を発給し、今川頼貞に直義寄進状の執行を命じました。
足利義詮は直義を嫌っており、観応の擾乱では強硬な態度を取り続けていましたが、子である如意丸の冥福を祈り寄進した所領の領有を保証したわけです。
義詮は直義は嫌いであっても、如意丸を嫌っていたわけではなく、肉親としての情を持っていたのかも知れません。
亀田俊和氏は肉親が殺し合う観応の擾乱の中で「数少ない救いの一つ」と述べています。