二人の兄が四条畷の戦いで命を落とした事で、楠木氏の家督を継ぎました。
楠木正儀は和平派であり、南北に別れてしまった朝廷の一本化を望んだ人物でもあります。
和平派と言えば、戦争を好まないイメージがあるのかも知れませんが、実際には京都奪還の為の戦いなど多くの戦場でも活躍しています。
楠木正儀は後村上天皇から絶大なる信頼を得ますが、長慶天皇の時代になると南朝で居場所を失い、細川頼之の誘いもあり北朝に鞍替えしました。
細川頼之の失脚に伴い再び南朝の武将に戻り、参議にもなっています。
楠木正儀の生きた時代に南朝は大きく衰退しており、最終的には楠木氏も没落しました。
これにより低く評価される場合もあります。
ただし、専門家の中には楠木正儀が活動した時期の長さなどもあり、父の正成や兄の正行よりも南朝に貢献したと評価される場合もあります。
楠木正儀は太平記では「のんびり屋」などと評価されたりもしていますが、実際には勇猛果敢な武将でもあった様です。
家督を継ぐ
楠木正儀の二人の兄である楠木正行と楠木正時は、四条畷の戦いで命を落としました。
四條畷の戦いの後に、高師直は南朝の本拠地である吉野に攻撃を加えると同時に、楠木氏の本拠地である河内の東条に攻め込んで来たわけです。
楠木正儀は二人の兄の死により家督を継いでおり、抵抗を続けました。
家督を継いで早々に楠木正儀は、困難に直面したと言えるでしょう。
しかし、翌年には室町幕府の軍を退けました。
尚、太平記では家督を継いだ楠木正儀の年齢は23歳だったと伝わっています。
大将軍
室町幕府では足利直義と高師直の対立により、観応の擾乱が始まりました。
足利尊氏と共に高師直は九州の足利直冬を討つために出陣しますが、直義が反旗を翻し南朝に降伏する事態となります。
足利直義は打出浜の戦いで高師直を破り勝利すると、南朝との間で本格的な交渉を持つ事になります。
楠木正儀は南北合一では、和平派の最右翼であり、自ら交渉の窓口にもなっています。
南朝と室町幕府による和平交渉は始まりましたが、大和国の丹原荘の源左衛門尉が蜂起し、和泉・紀伊の軍勢を率いて討伐に向かいました。
この時に楠木正儀は「大将軍」としての御旗を下されたと言います。
大将軍は「天下の大将軍」ではなく、討伐軍の大将とする意味だとされています。
しかし、南朝では楠木正儀に対し大きな期待があったのではないかと考えられています。
楠木正儀の激怒
南朝の首脳部は後村上天皇の子孫による皇統の一本化を条件にしますが、足利直義は北朝の皇室も考慮し両統迭立を条件としました。
最終的に北畠親房が後村上天皇に取り次ぎのせず、交渉の打ち切りを宣言しています。
こうした南朝の首脳部に対する態度に激怒したのが、楠木正儀です。
楠木正儀は足利直義に連絡を入れ「自分が幕府に寝返り将軍が出陣するなら、先方として軍忠を遂げ、南朝への通路を塞ぎ攻撃し、後村上天皇ら南朝を没落させる」と宣言しました。
しかし、この発言から二カ月ほどが経過すると、楠木正儀は南朝の為に活動している事が分かっており、南北合一を決裂させた南朝首脳部への一時的な怒りだと考えられています。
それと同時に「自分がやろうと思えば、いつでも南朝を没落させる事が出来る」という自信の現れだったのではないかともされています。
最初の京都奪還
京都を占拠
室町幕府では観応の擾乱により、今度は足利尊氏と直義の対立に発展しました。
足利直義は北陸に出奔し後に関東に入りますが、足利尊氏は南朝に降伏し関東に出陣して行く事になります。
これにより正平一統となり、南北の朝廷が一つになります。
しかし、この正平一統は幕府の苦し紛れの一手であり、楠木正儀が望んだようなものではなかったはずです。
足利尊氏は直義との戦いに勝利しました。
近畿では後村上天皇が入洛するという事で、京都に向かいますが、武装した楠木正儀らが警護と称し同行しています。
ここで楠木正儀や和田正氏らは突如として、室町幕府の軍を攻撃し細川顕氏らと交戦しました。
楠木正儀は千種顕経、北畠顕能らと協力し戦い抜き、不意を衝かれた足利義詮は皇族も置き去りにしたまま近江に逃れています。
楠木正儀ら南朝の軍は京都を奪還するだけではなく、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、直仁親王らを捕虜し、石清水八幡宮へと送りました。
楠木正儀の「心少し延びたる者」は本当なのか
足利義詮の軍勢が石清水八幡宮を包囲し、後村上天皇は籠城戦を強いられました。
八幡の戦いでは楠木正儀らを脱出させ、河内で兵を集めさせ後詰を行わせる作戦に出る事になります。
楠木正儀は八幡を脱出しますが、援軍として現れなかったわけです。
太平記では楠木正儀が援軍に現れず、後村上天皇は石清水八幡宮より撤退する事になりました。
こうした事情から楠木正儀は「父にも似ず、兄に替はりて、心少し延びたる者」と評価されています。
つまり、父親である楠木正成や兄の楠木正行と違い「のんびり屋」で「勇猛さに欠ける人物」と評された事になるでしょう。
ただし、現代では楠木正儀は和泉で幕府軍と戦っていた事が分かっており、楠木正儀は臆病風に吹かれて八幡への援軍に行かなかったわけではなく、幕府軍との戦いにより援軍に行く事が出来なかったと見られています。
楠木正儀は別に闘争心が無かったわけでも、のんびりとした性格でもなく、むしろ勇猛な人物だったと個人的は考えています。
後村上天皇からの信頼
後村上天皇は八幡から撤退し、大和方面に移りますが、これらの戦いで南朝の重鎮である四条隆資が戦死しました。
本拠地の賀名生を目指した後村上天皇ですが、道中で楠木正儀を呼び寄せ賀名生の様子を伺った話があります。
後村上天皇がわざわざ楠木正儀に賀名生の様子を聞いており、後村上天皇は楠木正儀に期待し信頼していた事が分かるはずです。
楠木正儀も後村上天皇に忠義を尽くし、存命中は裏切る事はありませんでした。
各地で戦う
後村上天皇及び南朝の軍は京都から完全に撤退しますが、楠木正儀の戦いは直ぐに始まる事になります。
観応三年(正平七年・1352年)八月からは、摂津や河内にて幕府軍との攻防を繰り広げました。
同年の十一月には旧直義派の石塔頼房が南朝の武将となり共に、尼崎、神崎で戦い室町幕府の摂津守護代の軍を破る事になります。
さらに、伊丹、吹田、神崎、渡辺などの地域での戦いでも勝利しました。
これらは兼綱公記や園太暦、土屋家文書に記録された楠木正儀の活躍でもあります。
二度の目京都奪還
文和二年(正平八年・1353年)になると、吉良満貞、山名時氏らが南朝の武将となっていました。
彼らと共に楠木正儀も二度目の京都奪還を目指す事になります。
楠木正儀の奮戦もあり、呆気なく京都を奪還しました。
義詮は前回の皇族置き去り事件に懲りたのか、後光厳天皇を離さず共に脱出したと言えるでしょう。
しかし、南朝の二度目の京都奪還も長くは続きませんでした。
足利義詮が美濃から反撃を始め、短期間で京都を取り戻す結果となりました。
楠木正儀は播磨の赤松勢の抑えとなり、摂津の神崎で戦っていましたが、南朝の京都撤退に伴い軍を退きあげています。
三度目の京都奪還
文和四年(正平11年・1355年)には、足利直冬を中心として三度目の京都奪還が行われました。
足利直冬は九州での戦いに敗れ幕府にも受け入れて貰えず、大内弘世や山名時氏らの後援により南朝の武将となっていたわけです。
この時に足利義詮が播磨に出陣しており京都に戻る時に、楠木正儀は迎撃するのが任務でした。
足利尊氏と直冬の間で文和東寺合戦が勃発し、摂津では楠木正儀や山名時氏と義詮の間で神南合戦も起きています。
神南合戦は激戦だったと伝わっています。
しかし、最終的に足利直冬は京都から撤退する事になり、楠木正儀も退きました。
楠木正儀が南朝の中心人物だった!?
当時の南朝の中心人物が楠木正儀だったのでは、ないかとも考えられています。
1354年に実質的な南朝の指導者であった北畠親房が亡くなりました。
南朝の重臣である四条隆資も既に亡く、足利直冬は尊氏の子で直義の養子となっており、急遽南朝軍として参戦した武将です。
これまでの楠木正儀は和平派でありながら、一武将として前線で戦っていたに過ぎませんでした。
しかし、北畠親房が没した事で南朝の戦略全体にまで影響を及ぼす立場に、代わったのではないかとされています。
楠木正儀は後村上天皇の信頼も厚く軍事・外交など南朝の重鎮となってもおかしくはないでしょう。
義詮の大規模な南朝遠征
楠木正儀の策
足利尊氏は1358年に亡くなり、足利義詮が後継者となり征夷大将軍になっています。
この時に執事になったのが細川清氏であり、大規模な南朝への遠征を画策しました。
鎌倉公方の足利基氏は畠山国清を援軍として、近畿に派遣しています。
義詮が摂津尼崎の大覚寺に布陣したとする情報が、南朝にもたらされました。
太平記では楠木正儀が和田正氏と共に後村上天皇の行宮である金剛寺に行き、様々な進言をしています。
楠木正儀は室町幕府との合戦になれば自分達が勝利すると考え、後村上天皇には金剛寺よりも防御に優れた観心寺に移る様に述べました。
観心寺は山深い場所にあり、防御に適していると楠木正儀は考えたわけです。
さらに、楠木正儀は自らは和泉・河内の兵を率いて千早城や金剛山で抗戦し、龍泉、石川で昼夜問わず戦いを挑むと告げました。
他にも、紀伊の南朝の武士が野伏となり、幕府の坂東勢を翻弄すると述べています。
後村上天皇や公卿らは楠木正儀の策が最良だと考え、後村上天皇らと共に観心寺に移りました。
尚、南朝の人々の中には、高野山や近江に避難した者もいたようです。
赤坂城の落城
楠木正儀は赤坂城、平石城、龍泉寺城などに味方の軍勢を分散させました。
幕府方の関東執事の畠山国清は、金剛山の北西にある津々山に陣を置いています。
畠山国清の攻撃が始まると、楠木正儀は数カ月に渡り持ちこたえました。
しかし、龍泉寺城が陥落するだけではなく、楠木正儀が籠城する赤坂城まで抜かれました。
楠木正儀は捕虜となる事もなく、さらなる奥地へと逃亡しています。
畠山国清は追撃を仕掛けず、幕府軍は撤退しました。
後に細川清氏は再び南朝攻撃の構えを見せますが、仁木義長との対立により本格的な南朝攻撃は勃発しなかったわけです。
左馬頭
これまでの楠木正儀は河内守や左衛門少尉などの官途で呼ばれていました。
しかし、この頃から左馬頭を名乗る様になります。
左馬頭は源経基、源義朝、木曾義仲、足利直義、足利義詮などの重要人物が任じられた官職でもあります。
この後に、足利義満も左馬頭となり、足利将軍が最初に任じられるべき官職となりました。
左馬頭に楠木正儀が名乗っている事には、注目すべきでしょう。
今までの南朝の左馬頭には吉良満義が名乗っている例もありますが、重要人物がなるボストでもあります。
これらの将軍クラスの武将と同じだけの官職に楠木正儀が就任していたのでしょう。
左馬頭の官職自体は低いわけですが、就任された人物を見る限りでは、当時の南朝の軍事の最高責任者として楠木正儀がいた事を物語っています。
後村上天皇や公卿たちの信頼を、楠木正儀は勝ち取っていたのでしょう。
最後の京都奪還
楠木正儀の進言
過去に執事として南朝総攻撃を行った細川清氏が佐々木道誉との対立もあり、南朝に降伏してきました。
細川清氏は四度目の京都侵攻を進言したわけです。
後村上天皇は楠木正儀の意見を求めました。
楠木正儀は京都奪還するだけなら「自分一人でも可能」としながらも、維持する事は出来ないとする意見を述べています。
南朝が今まで何度か京都を奪還しても、直ぐに奪い返されており、楠木正儀も京都を守る難さをよく理解していたのでしょう。
楠木正儀は反対しますが、後村上天皇や廷臣たちは、京都奪還に一縷の望みを抱いており、四度目の京都侵攻が決定しました。
それでも、後村上天皇は楠木正儀の助言を求めており、格別な信頼を持っていたのでしょう。
予言した通りの結末
康安元年(正平十六年・1361年)の十二月に、南朝の軍は京都に侵攻しました。
南朝の軍が京都に押し寄せると、足利義詮は後光厳天皇と共に京都を脱出しています。
これにより四度目の京都奪還が成功しました。
しかし、二十日ほどすると、義詮は近江から反撃しており、楠木正儀らが鴨川原で防戦しますが、京都から摂津に兵を退いています。
四度目の京都奪還も短期間で終わっており、占拠出来ていた期間も数週間で終わりました。
楠木正儀が予言した様に、京都は奪取出来ても維持は出来なかったわけです。
尚、四度目の京都奪還が、南朝の最後の京都奪還となります。
楠木正儀もこれが最後の大戦となり、幕府執事が斯波高経になると、旧直義派の復帰が進み南朝は沈む事になります。
ただし、楠木正儀は小規模な戦いは幕府軍との間で繰り広げています。
後村上天皇の崩御
足利義詮は南北合一へ舵を切る事になります。
貞治六年(正平二十二年・1367年)四月に南朝は、葉室光資を中心に交渉を始めますが、失敗に終わりました。
葉室光資の代わりに南朝の代表となったのが、楠木正儀です。
しかし、楠木正儀であっても南北合一の話を纏める事が出来ず失敗に終わりました。
和平交渉は最終段階まで行ったとされていますが、後村上天皇の綸旨には「義詮の『降参』を許す」と書かれており、義詮が激怒した為とも言われています。
この数カ月後には足利義詮が没し、翌年には後村上天皇も崩御しました。
長慶天皇が即位しますが、バリバリの強硬派だったわけです。
晩年の後村上天皇は和平派になっていたと見られ、強硬派の長慶天皇の即位により、楠木正儀に暗雲が立ち込めました。
楠木正儀が幕府に寝返る
繰り返しますが、長慶天皇は強硬派であり、楠木正儀は南朝の中で居場所を失っていく事になります。
室町幕府では征夷大将軍になったのは足利義満でしたが、まだ子供であり、細川頼之が管領となり政務を見ていました。
細川頼之は孤立する楠木正儀に目を付け、幕府への引き抜きを行っています。
楠木正儀は細川頼之を介して、室町幕府に降伏しました。
楠木氏は楠木正成、楠木正季、楠木正行、楠木正時と皆が南朝の為に戦い討死しましたが、楠木正儀は幕府に寝返ったわけです。
長慶天皇と考え方と合わず、幕府に寝返ったのでしょう。
細川頼之は楠木正儀の事を高く評価していたのか、楠木正儀の基盤を奪う様な事はせず、河内・和泉の守護と摂津の住吉郡を与えるなど厚遇しました。
南朝攻撃に参戦
応安六年(文中二年・1373年)八月に、細川頼之が南朝攻撃を画策しました。
この時に先導役を務めたのが、楠木正儀です。
楠木正儀は直義に「自身が先導し南朝を攻撃する」と告げましたが、これが現実になってしまいました。
楠木正儀は幕府軍の先方として河内の天野の行宮を攻撃し、四条隆俊らが戦死しています。
長慶天皇は吉野に撤退しました。
楠木正儀の南朝復帰と最後
康暦の政変により細川頼之が失脚し、斯波義将が管領となります。
細川頼之の失脚により、楠木正儀は後ろ盾を失い幕府で居場所を無くしました。
楠木正儀は南朝に戻る事になります。
永徳二年(弘和二年・1382年)の初めに、河内の平尾で南朝として戦っている事が確認出来ます。
楠木正儀は父や兄でも就任する事が、出来なかった参議になりました。
後亀山天皇の時代になっても楠木正儀は生きており、至徳三年(元中三年・1386年)に発給した文書を最後に楠木正儀の史実での行方が分からなくなります。
既に南朝は衰退しており、楠木氏も没落したと考えられています。
楠木正儀の最後は不明すが、1390年頃までには亡くなっていたのではないかとされています。
それが真実であれば、南北朝時代の終焉でもある明徳の和約まで生きてはいなかった事になるでしょう。
尚、1460年に楠木を名乗る者が乱を起こし幕府に捕らえられた事件がありました。
この人物こそが楠木正儀の、孫ではないかとも言われています。
楠木正儀の子孫は後南朝に、味方したとも考えられているわけです。