名前 | 楠木正行 |
生没年 | 生年不明ー1348年 |
時代 | 南北朝時代 |
勢力 | 南朝 |
一族 | 父:楠木正成 兄弟:正時、正儀 |
年表 | 1348年 四條畷の戦い |
コメント | 太平記のヒーロー |
楠木正行は南北朝時代の武将であり、楠木正成の子でもあります。
楠木正行は挙兵してから藤井寺合戦や住吉合戦で活躍し武名を挙げますが、四条畷の戦いで高師直に敗れました。
太平記では楠木正行を非常にドラマチックに描いており、悲壮感が出ており泣けるシーンも多いと言えます。
楠木正行の戦場での活躍は1年ほどしかありませぬが、多くの人々にインパクトを与えた事だけは間違いないでしょう。
尚、近年の研究では楠木正行は四条畷の戦いでも「勝てると思って出陣したのではないか」とも考えられる様になってきました。
今回は史実の楠木正行がどの様な人物だったのか解説します。
楠木正行の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
楠木正行の誕生
太平記によると楠木正行は桜井の別れ(1336年)の時点で、11歳だったと記録されています。
この記述を逆算すると、楠木正行は1326年頃に生まれた事になります。
ただし、太平記の26巻では正平2年(1347年)の時点で25歳とする記述もあり、この記述を元に考えると楠木正行の生まれは1322年頃となります。
楠木正行が1340年に建水分神社に奉納した扁額が残っており「左衛門少尉橘正行」と記述されている事から、既にこの頃には成人していたとみる事も出来ます。
このように楠木正行の年齢がはっきりとしない部分もありますが、元服したのが15歳だったと考えてみると、桜井の別れの時に楠木正行はまだ少年だったと考える事が出来ます。
楠木正成の死
楠木正成は桜井の別れで楠木正行に後事を託し、湊川の戦いに赴きました。
楠木正成は新田義貞と共に湊川で奮戦しますが、寡兵虚しく足利軍に敗れ去る事になります。
敗北を悟った楠木正成は楠木正季と共に自害し世を去っています。
楠木正成は元々は親尊氏派であり、足利尊氏も楠木正成の実力を知っており好意で正成の首を妻子の元に送り届けたわけです。
父の変わり果てた姿を見た楠木正行は衝動で自害しようとしますが、母親が「正成が湊川に連れて行かなかったのは、一族郎党を纏め上げ成長し南朝を支える為であり、父親の遺恨を晴らす為だ」と諭しました。
母の言葉により楠木正行は思い止まる事になります。
尚、楠木正行の生涯を考えると室町幕府と戦い続けており、父親の死で人生の方向性が決まったとも見る事が出来ます。
それでも、楠木正行はまだ子供であり、臥薪嘗胆の始まりでもありました。
楠木正行の忠義
湊川の戦いの後に、後醍醐天皇は比叡山で足利軍に包囲される事になります。
1336年8月に持明院統の光明天皇が即位し、光厳上皇が治天の君となりました。
後醍醐天皇は足利尊氏と和睦し三種の神器を光明天皇に引き渡し幽閉されますが、吉野に脱出し南北朝時代が始まる事になります。
後醍醐天皇は北朝の打倒を望みますが、1339年8月に崩御しました。
後醍醐天皇の崩御に伴い後村上天皇が即位しています。
この時の南朝には楠木正成だけではなく、北畠顕家、新田義貞も戦死しており、危機的な状況だったわけです。
こうした中で楠木正行は一族の和田正氏と共に二千騎を引き連れて吉野を訪れています。
楠木正行は後村上天皇への忠義を誓い皇居の守備なども行っています。
後醍醐天皇が崩御した時点で南朝は揺れており、楠木正成が忠義を示した事で南朝に活気が戻ったとも伝わっています。
河内国司と守護
楠木正行は河内国の国司や守護を兼務する事に、なったと考えられています。
延元五年(1340年)四月に、河内国小高瀬荘を祈祷費用を捻出する為の所領として、観心寺に寄進した事になっています。
楠木正行の観心寺への所領寄進に関しては、後村上天皇の命令により楠木正行が実施したとされています。
1347年までに楠木正行は観心寺、河合寺、金剛寺、西琳寺などへの所領給付や境内の治安を守る活動をしました。
この他にも、南朝の河内国司及び守護として軍事や行政に関わる活動もしていたと考えられています。
太平記では楠木正成が戦死してから、臥薪嘗胆の生活を送り、戦死した武士の子たちを養い日々苦心を重ねた事になっています。
当時の1340年から1347年までの楠木正行は軍事行動も起こさず、耐え忍んでいたと見る事が出来るはずです。
楠木正行と北畠親房
1344年頃に常陸合戦で高師冬に敗れた北畠親房が吉野に戻ってきました。
当時の南朝では和平派が優勢だったともされていますが、北畠親房が吉野に戻った事で主戦派に勢いがついたとされています。
楠木正行は主戦派として戦ったともされていますが、楠木家では父親の楠木正成と弟の楠木正儀が和平派であり、楠木正行も和平派だったのではないかともされています。
楠木家では和平派の風潮が強くあり、楠木正行も和平派でしたが、和平派として戦いに臨んだとも考えられているわけです。
楠木正行が本当に和平派だったのかは、活動期間が余りにも短く真相の究明には困難を擁すると言えるでしょう。
藤井寺合戦と住吉合戦
1347年8月に楠木正行は挙兵し、紀伊の隅田荘を攻撃しました。
楠木正行は池尻、八尾城と転戦しますが、幕府軍は北朝の河内守護である細川顕氏を派遣する事になります。
これが藤井寺合戦です。
藤井寺合戦では楠木正行が勝利する事になります。
細川顕氏はまだ諦めておらず、山名時氏と共に楠木正行へのリベンジを計り、これが住吉合戦です。
住吉合戦でも楠木正行は山名時氏が深手を負い、一族の重鎮である山名兼義が戦死するなど、完膚なきまでに打ちのめしました。
尚、住吉合戦では楠木正行が寒水で溺れる敵兵を助けた話があります。
政務を行う
過去に楠木正行は後村上天皇の綸旨により、河内守護代和田左衛門に対し小高瀬荘を観心寺に引き渡すように命令していました。
しかし、河内には幕府軍の勢力もあり、施行する事が出来なかったわけです。
藤井寺合戦と住吉合戦に勝利した事で、河内国内の幕府勢力の力が弱まり、楠木正行は後村上天皇の綸旨を遂行する事が出来る様になりました。
細川顕氏と山名時氏を破った楠木正行は河内国司及び守護の任務を行えるようになったと言えるでしょう。
楠木正行は短い期間ですが、平和な時を過ごしたと考えられています。
四条畷の戦い
決死の覚悟だったのか
太平記を見る限りでは楠木正行は絶望的な戦力差の前に悲壮感を漂わせて戦に臨んだ事になっています。
後村上天皇には「慎みて命を全うすべし」との言葉を貰ったのに、楠木正行は決死の覚悟を固め後醍醐天皇の陵墓に向かいました。
ここで討死する覚悟せ戦場に挑む事を告げ、如意輪堂には「返らじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞ留むる」の辞世の歌を詠んだ程です。
歌の内容が「放たれた弓は戻っては来ない」とする意味であり、将兵らも髪の毛の一部を仏殿に投げ入れ戦場に向かいました。
しかし、生駒孝臣氏は南朝の和泉守護代である大塚惟正が和田氏に出した手紙の中で「いつも申している事であるが、存亡を決する大事である」と書いた事に注目しました。
手紙の内容は司令官である楠木正行とも同じ心意気だとも考える事ができ、楠木正行は四條畷の戦いで「普通に勝つために出陣したのではないか」と考えたわけです。
楠木正行は藤井寺の戦いや住吉の戦いで室町幕府の軍に勝利していますが、その時と同じ気持ちで戦場に挑んだのではないかと読み解く事も出来ます。
ただし、本当に楠木正行が勝てると思って出陣したのか、悲壮感を以って出陣したのかは本人でないと分からない部分も多いと言えるでしょう。
高師直の進軍
楠木正成の猛攻に焦りを感じたのが足利尊氏や足利直義などの幕府首脳部であり、執事の高師直の出陣を決める事になります。
高師直の兄弟の高師泰にも二十カ国からなる兵を与え、東寺に向かわせた話が太平記にあります。
楠木正行は幕府軍は淀川を下り渡辺津に上陸し、天王寺から河内の東条に進むと予測しました。
しかし、高師直と高師泰は軍を二つに分けて、高師泰の軍だけが淀川を進む事になります。
高師直は生駒山の麓を通り東条を目指しました。
高師直は飯盛山付近にある河内国讃良郡野崎に布陣しています。
楠木正行は高師直が予想外の行動をして驚いたのではないかともされています。
当時は深野池があり狭く険しい道で高師直は待ち構えたと言えるでしょう。
楠木正行の最後
楠木正行はおびき出される形で、摂津から河内に転戦する事になります。
楠木正行は不利な地形である東高野街道を進み、四条畷の戦いが始まる事になります。
ここで四条隆資が楠木正行の軍に合流したともされています。
楠木正行は楠木正時と共に、高師直の首を目指し突撃を繰り返しました。
高師直を追い詰めるも結局は、大量の矢を浴びて最後を迎えています。
楠木正行は弟の楠木正時と共に奮戦しますが、戦いに敗れ従弟の和田賢秀らと共に世を去りました。
四条畷の戦いで楠木正行は戦死という結果になってしまったわけです。
幕府に脅威を与えていた楠木正行
楠木正行は四条畷の戦いで散ったのですが、北朝では幕府軍の勝利に誰もが喜んだとあります。
この事は洞院公賢の日記である園太暦に書かれている事であり、史実だと考えられています。
山名時氏や細川顕氏を破った楠木正行を幕府軍は恐れ戦上手で有名な高師直、高師泰兄弟に圧倒的な大軍を授け勝利を目指したのでしょう。
それと同時に楠木正成の意思を継ぎ、とことんまで勝利を目指した事は疑いようのない事実だと感じました。
尚、楠木正行が戦死した事で、楠木氏の棟梁は弟の楠木正儀に継承されて行く事になります。
楠木正行の動画
楠木正行の史実をベースにしたゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は南北朝武将列伝北朝編及び、楠木正成・正行 (シリーズ・実像に迫る6)をベースに作成しました。