室町時代

斯波詮持は鎌倉府転覆を考えるも露見して自害した

2025年10月6日

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宮下悠史

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名前斯波詮持(しばあきもち)
別名大崎詮持、彦三郎、法英、金龍寺殿、瀬ケ崎殿など
生没年生年不明ー1400年
時代南北朝時代
一族父:斯波直持 正室:葛西詮清 子:満持(満詮)、兼持
コメント伊達政宗と共に鎌倉府の転覆を考えるも逃亡し自害した。

斯波詮持は奥州大崎氏の三代目であり、南北朝期から室町期に奥州管領となり活躍した人物です。

後には伊達政宗を通じて、奥州探題にもなっています。

斯波詮持の時代に奥州管領として覇を競った吉良氏、石橋氏、畠山氏は弱体化しました。

国人らが一揆を盛んに結び奥州管領に対抗した事で、斯波詮持の奥州管領の権限も弱体化しています。

それでも、斯波詮持は領国化を進め勢力基盤を整えようと努力しました。

後に奥州管領は鎌倉府の傘下となり、鎌倉府では稲村公方と笹川公方を奥州に派遣すると、鎌倉府に反発を持つ様になります。

斯波詮持は伊達政宗と結び鎌倉府を転覆させようとしますが、露見し仙道大越で自害しています。

当時の奥州情勢

斯波詮持の時代は奥州の吉良氏は衰退しており、石橋棟義が補強勢力となっていました。

ただし、石橋棟義は軍事指揮権のみを有し、所領宛行や官途の推挙などの管領の様な権限はなかったわけです。

それでも、斯波詮持の時代は石塔氏は既に奥州戦線から脱落し、斯波氏(大崎氏)、吉良氏、石橋氏、畠山氏で勢力を競う状態でした。

岩切城の戦い以来、吉良氏と畠山氏は宿命のライバルともなっており、斯波詮持の時代に第二次・吉良・畠山合戦も勃発しています。

尚、斯波詮持の時代に本拠地を志田郡師山から長岡郡小野に移しています。

長岡郡は大掾氏の所領であり、斯波氏と大掾氏は深い関係にあり、長岡郡の小野に移ったともされています。

第二次吉良・畠山合戦と斯波詮持

畠山国詮は吉良貞経を討つために、北上して長岡郡の沢田要害に軍を進めました。

しかし、付近には斯波詮持が本拠地としていた小野があり、斯波詮持は出陣し羽黒堂山、地蔵堂山に布陣しています。

斯波詮持は吉良貞経を支持したわけです。

これを見た畠山国詮は軍を引き長世保に三十番町に館を築きました。

畠山国詮は最終的に長田城に籠城しますが、吉良貞経の攻撃により敗れ海路を使い二本松に逃れています。

尚、長田城は相馬胤弘の所領にあり、相馬胤弘が畠山国詮を支持していたのが分かる事例です。

奥州戦線の勝利者

吉良貞経は斯波詮持と手を組み畠山国詮を破りますが、過去の様な求心力を得る事は出来ませんでした。

斯波詮持の威勢に敵わないと判断した吉良貞経は、奥州管領の職務も行えないと判断し多賀国府を離れる事になります。

これにより、多賀国府は奥州の中心地では無くなり、留守氏の城下町となっています。

斯波詮持の時代に吉良氏が没落し、多賀国府の時代は終焉しました。

吉良貞経の消息は不明となり、吉良治家は武蔵の小領主になった事が分かっています。

石橋氏も石橋棟義の至徳三年(1386年)に相馬憲胤に対して、兵粮料所として預け置いた記録を最後に行方が分からなくなります。

石橋氏も一領主の没落する事になりました。

斯波詮持だけが奥州管領として生き残り、奥州戦線の勝利者になったと言えるでしょう。

斯波詮持の勝因は河内の国人らを支配下に収め代々に渡り支持された事が大きかった様です。

奥州斯波氏の弱体化

奥州の覇者となった斯波詮持ですが、家督を継いだ頃よりも発給文書が少なくなった事が分かっています。

発給文書の低下は、斯波詮持の求心力の低下を表しています。

伊達政宗なども奥州管領の支配から独立していきました。

当時の奥州では一揆が結ばれる事が多くなり、幕府や奥州管領に対し、協力して立ち向かう一揆契約が結ばれたわけです。

一揆契約により吉良氏、畠山氏、石橋氏なども求心力を失ったと考えられています。

奥州斯波氏の戦略

斯波詮持は領域支配を目指して動きました。

これに対し足利義満の代になっていた室町幕府では、伊達氏と葛西氏を「両使」に任じて禁止令を出しています。

伊達氏と葛西氏が斯波詮持に対し、どの様に行動したのかは不明です。

斯波詮持は奥州管領としていながらも、河内地方を領国化する様に動き続けました。

斯波氏(大崎氏)や畠山氏の領国化する方針は功を奏し、両家ともに戦国時代まで生き残る事になります。

南北朝時代の末期の奥州では、奥州管領の統治下にありながら、領域拡大運動や国人領主たちの所領紛争が絶えなかったわけです。

また、国人たちが一揆契約を結ぶ事で、管領としての支配権も弱体化しており、斯波詮持自身も管領でありながら、領地の侵入を繰り返し幕府に咎められる有様でした。

鎌倉府の管轄に置かれる

斯波詮持自身も一勢力として拡大を考え実行する中で、明徳二年(1391年)に足利義満は奥州と出羽の両国を鎌倉府の治下に移管しました。

鎌倉公方の足利氏満は、白河結城氏の結城満朝に通達しています。

奥州と出羽の鎌倉府の移管理由に関しては、足利義満が足利氏満との関係修復を考えたとも、小山義政や小山若犬丸の乱を完全決着させる為に、奥羽を鎌倉府に移譲させたとされています。

他にも、奥州の一揆契約と混乱を問題視したとする説もあります。

奥羽は鎌倉府の管轄に移管されたわけですが、斯波詮持の奥州管領は従来通り保持されました。

鎌倉府もいきなり奥州を移管されても統治は難しいと考えたのか、奥州管領や出羽守護の官職を残したのでしょう。

それでも、斯波詮持は鎌倉府に出仕する必要があり、斯波詮持は出仕中に鎌倉付近の瀬ケ崎に宿泊した事で瀬ケ崎殿と呼ばれました。

尚、斯波詮持は奥州管領としての権威を見せる為か派手な振る舞いが多く、関東管領の上杉憲定は斯波詮持を非難した話が残っています。

斯波詮持の鎌倉出仕中に小山若犬丸の討伐が行われましたが、この時に嫡子の斯波満持が奮戦しました。

斯波詮持は鎌倉府の管轄下に入ってはいましたが、伊達氏、最上氏、芦名氏、結城氏と同様に将軍家とも密接な関係を続けています。

伊達政宗の夫人は足利義満の生母と姉妹であり、婚姻関係で言えば伊達宗遠の計らいなどもあり、伊達氏がリードしていたと言えます。

稲村公方と笹川公方

斯波詮持は奥州管領の権限を保持した状態で鎌倉府に、協力していました。

しかし、応永六年(1399年)になると、状況が一変します。

鎌倉公方の足利満兼は、足利氏満の遺命により弟の足利満貞と満直を稲村公方、笹川公方として奥州の地に派遣したわけです。

足利満貞と満直の奥州下向には、関東管領の上杉憲英も同行しました。

鎌倉府による奥州支配でもあり、斯波詮持や勢力の伸長を目指す奥州の諸勢力にとっては、好ましい事ではなかったわけです。

上杉憲英は稲村公方や笹川公方の為に、奥州勢に領土も割譲をしており、鎌倉府に対する不満が高まりました。

当然ながら、斯波詮持も鎌倉府の判断に反発を持ったわけです。

奥州探題就任

奥州では不穏な空気が流れ始めますが、こうした時期に斯波詮持は奥州探題の位を望み幕府からの新たなる援助を期待しました。

既に渋川満頼が九州探題となっており、奥州探題の位を望んだのでしょう。

室町幕府は斯波詮持を奥州探題としました。

この時期は幕府では三管領四職も制定されており、幕府機構の整備が行われています。

反鎌倉府戦線

稲村公方・笹川公方・鎌倉府に対する不満が高まり、斯波詮持は伊達政宗と結ぶ事になります。

伊達政宗の夫人は足利義満の母親の姉妹であり、政宗と結ぶ事で斯波詮持は足利義満の援助を期待しました。

さらに、伊達政宗の妹は最上直家や蘆名満盛に嫁いであり、伊達政宗を中心とする足利義満、伊達政宗、斯波詮持、最上直家、蘆名満盛の連合戦線が出来上がったわけです。

斯波詮持の最後

応永七年(1400年)に伊達政宗は国元から五百騎ほどを呼び寄せ、鎌倉府を急襲し一気に倒す策を実行しようとしました。

しかし、事は露見しており、誅伐を恐れた伊達政宗は国元に逃亡し、斯波詮持も瀬ヶ崎より逃亡しました。

斯波詮持は高齢であり、移動に困難を来たし逃げ切れぬと判断したのか仙道大越(田村郡)で切腹しました。

これにより斯波詮持は最後を迎えたわけです。

この時に孫の斯波定詮も逃亡しましたが、無事に大崎まで辿り着きました。

伊達政宗は国元に戻ると、直ぐに足利義満に連絡を入れ事件の顛末を報告しています。

ここで伊達氏と斯波氏は義満から所領を賜っています。

足利義満からしてみれば、伊達政宗や斯波詮持の行動は室町幕府に対する忠義として映ったのでしょう。

斯波詮持の子の斯波満持は左京大夫、奥州探題となり後継者として認められました。

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