室町時代

今川了俊は九州探題となり活躍するも寂しい晩年を迎えていた

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宮下悠史

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名前今川了俊(いまがわりょうしゅん)
本名今川貞世
生没年1326年ー1420年?
時代南北朝時代
一族父:今川範国 兄弟:範氏、氏兼、仲秋
子:貞臣、名和貞継、言世、尾崎貞兼、満範娘(吉良俊氏室)
コメント九州平定目前までいくも挫折

今川了俊は九州探題として活躍した人物であり、文化人としても名が通っており、難太平記や様々な著作物や歌を残しました。

教養も高く文武両道の武将だと言えるでしょう。

九州での戦いでは南朝勢力を太宰府から駆逐し、九州南朝の中心勢力である菊池氏を追い詰めました。

九州南部を制圧すれば、九州の覇者となっていたのでしょう。

ただし、脇が甘い部分もあるのか、水島の変では少弐冬資を殺害した事で、島津氏久と敵対する事になり、大友氏のお家事情に介入した事で大友親世の離反を招き九州経営は頓挫しました。

足利義満から九州探題を解任されてからは、鎌倉公方の足利満兼や大内義弘に接近するなどしています。

しかし、結局は上手くいかず義満に詫びを入れていれました。

九州探題としての華々しい活躍が有名ですが、晩年は寂しい時を過ごしていたと考えられています。

尚、今川了俊の本名は今川貞世であり、出家して「了俊」を名乗りました。

今川了俊の生い立ち

今川了俊は鎌倉幕府が滅亡するまでは、鎌倉におり、その後は今川範国の本拠地である遠江国の見付にいたと考えられています。

今川了俊は後に上洛すると、和歌を京極為基や冷泉為秀に習い、連歌は二条良基、禅や儒学は仏海禅師に学びました。

足利義詮は冷泉為秀を深く信頼しており、今川了俊は冷泉為秀の優秀な門下生として、高い評価を受ける事になります。

今川了俊の武将としての活躍は観応の擾乱から見られるようになり、兄の今川範氏と共に足利義詮の配下として機内を転戦しています。

足利尊氏が亡くなり、義詮の時代となると侍所頭人や引付頭人、山城国守護を務めました。

後に引付頭人は弟の今川仲秋に交代しています。

尚、足利義詮が死去した時に、出家し了俊と名乗りました。

九州探題に就任

足利義満の時代になると、細川頼之が管領となりました。

この時に、九州では南朝の懷良親王菊池武光を得て猛威を奮っており、室町幕府では危険視していたわけです。

斯波氏経が九州に下向したりもしましたが、島津貞久を怒らせ九州から撤退しました。

渋川義行にいたっては、九州に入る事すら出来ず撤退しています。

こうした中で細川頼之は今川了俊を抜擢し、九州統治を目指しました。

応安三年(1370年)に今川了俊は九州探題に就任しています。

安芸に入る

翌年に今川了俊は九州に下向しました。

この時の今川了俊は46歳だったと伝わっています。

今川了俊は九州探題に補任されるだけではなく、安芸守護にもなっています。

今川了俊はいきなり九州には入らず、手始めに安芸に入り国人を集め兵力を増やし九州制圧の策を練りました。

中国地方の大勢力である大内弘世や大内義弘を軍事の中心として、九州入りを果たす事になります。

太宰府を攻略

今川了俊の九州での最初の目標は太宰府の奪還でした。

今川了俊は長男の今川義範(貞臣)を豊後に派遣し、今川仲秋を肥前に派遣し、今川了俊自身は中央から太宰府を目指しました。

今川了俊の三方向作戦となります。

今川義範は豊後に向かいますが、豊後守護の大友氏は北朝派と南朝派に分裂しており、菊池武政に包囲されるなど苦戦が続きました。

肥前方面の今川仲秋は烏帽子岳城に入っています。

今川了俊は豊前門司から九州に上陸すると、筑前の諸城を攻略し今川仲秋と合流しました。

この時期に今川了俊は九州の筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向の六カ国の守護となっており、細川頼之による強力な後方支援があったのでしょう。

今川了俊は南朝の九州征西符の中心地である太宰府を攻略し、懷良親王菊池武光らは高良山に退いています。

菊池氏の弱体化

太宰府を攻略した今川了俊でしたが、筑後川を越える事が出来ず苦戦しました。

こうした中で九州南朝の武の柱であった菊池武光が文中二年(1373年)に亡くなり、後継者の菊池武政も翌年に没しています。

九州南朝は求心力が低下し弱体化し、懷良親王や菊池一族は肥後の隈府に撤退しました。

今川了俊は自ら兵を率いて肥後に進出し、菊池武朝の軍と対峙しています。

菊池氏の当主が相次いで亡くなっており、天は今川了俊に微笑んだと言えそうです。

水島の変

今川了俊は「ここが勝負時」と考えたのか、水島に少弐冬資、大伴親世、島津氏久、島津伊久に召集を掛けました。

大友親世、島津氏久、伊久は水島にやって来ましたが、少弐冬資は来るのを渋りました。

島津氏久は少弐冬資を説得し、少弐冬資も水島に着陣したわけです。

今川了俊は宴席を開きますが、少弐冬資に恨みを持っていたのか、今川仲秋に命じて刺殺させました。

少弐冬資は世を去りますが、これに激怒したのが、島津氏久です。

島津氏久は少弐冬資を説得した事もあり、今川了俊により面子を潰される形となりました。

島津氏久は水島から本国に戻り南朝に鞍替えしました。

これが水島の変と呼ばれる事件であり、今川了俊は少弐氏の権益を手に入れたと評価されたりもしますが、島津氏だけではなく、大友氏からも人間性を疑われる結果となります。

水島の変で信頼を失った今川了俊は、長い目で見れば九州経営を行き詰まらせる結果となりました。

菊池氏を追い詰める

天授二年(1376年)に菊池武朝は、肥前に侵攻し今川了俊と戦いました。

今川了俊は大内義弘の支援もあり、千布・蜷打の戦いで大勝しています。

この戦いで南朝方の有力武将である菊池武安や阿蘇惟武が戦死したと伝わっています。

永和四年(1378年)になると、肥後への攻勢を強め今川義範、今川氏兼、大内義弘らが隅本城を陥落させました。

九州八カ国の守護

今川了俊は島津氏久とも敵対しており、南九州にも手を入れました。

島津氏久の兄である島津師久が亡くなると、子の島津伊久には本領安堵を連想させ、島津氏久に味方しない様に要請しています。

さらに、今川了俊は今川満範を薩摩、大隈、日向の三カ国大将として派遣すると、薩摩国人の入来院重頼や島津氏久の義兄である伊集院久氏に伝えました。

今川了俊は薩摩勢力を懐柔し、島津氏久打倒を目指したわけです。

室町幕府では今川了俊に薩摩、大隈の守護を加えました。

これにより今川了俊は八カ国もの守護となっています。

今川了俊は薩摩、大隈守護に補任された事をアピールし南九州の国人たちの支持を得ようとしています。

尚、今川了俊は九州にいましたが、1384年から1388年までは遠江守護にもなっていました。

ただし、遠江守護は後に弟の今川仲秋に譲っています。

今川了俊の九州経営

今川了俊を見ていると、九州に上陸する時から今川一門を派遣し、各地を制圧して行った事が分かります。

子弟らは国人と結びつき一揆契約を結び組織化しました。

これらは島津氏久に対抗する為の手段とも考えられていましたが、後には島津氏久が幕府に帰順しており、九州国人が自らの所領を守ための手段とも考えられています。

国人たちの不満

中央から遠く独自色が強かった九州ですが、今川了俊は九州探題は将軍の分身だと考え、忠誠を尽くすべきだとも九州の諸将に説きました。

しかし、今川了俊は九州の最大の敵は菊池氏だと考えており、島津氏久が幕府への帰順を申し入れる度に許していました。

今川了俊は島津氏の帰参を許し、島津氏と対峙する国人らを肥後の菊池氏との戦いに向かわせようとしたわけです。

島津氏を倒し権益を奪いたいと考えていた国人らは、今川了俊に対し不満を持つ様になりました。

国人らは一期契約を結び今川了俊に対抗する様になります。

島津氏久討伐に失敗

永和四年(1378年)の暮れに再び南朝に降った島津氏久に対し、今川了俊は今川満範を大将として、日向都城を包囲させています。

都城の後詰として、島津氏久が現れ今川満範に決戦を挑みました。

この戦いで今川満範は大敗北を喫しました。

今川了俊は島津氏久に敗れたのは、一揆勢が島津氏久に内通したなどを理由とし、責任転嫁しており、国人衆の不満が高まる結果となります。

菊池氏を肥後の南部に追いやる

永徳元年(1381年)になると、今川了俊は菊池武朝の本拠地である隅部城を陥落させています。

菊池武朝は宇土城に行き、さらには名和顕興の八代に移りました。

弘和三年(1383年)には懷良親王も亡くなっています。

今川了俊は南朝の最大の支持者である菊池氏を、肥後南部まで追いやったと言えるでしょう。

九州南部支配の難航

今川了俊は九州南部の制圧するかに思われましたが、九州南部の支配は難航する事になります。

国人らは今川了俊に反発する者も多く、島津氏久の方でも切り崩しを積極的に行いました。

懷良親王が亡くなってから数年の間に、相良氏や祢寝氏などが南朝に鞍替えしています。

嘉慶二年(1388年)には島津氏久が死去しますが、後継者の島津元久は今川了俊への敵対を継続しました。

南北朝時代の終焉

今川了俊の九州経営は島津氏との戦いが泥沼に陥りますが、肥後南部の戦いは順調に進み八代も陥落させる事に成功しています。

後征西将軍府は矢部に逃れました。

この頃に中央では明徳の乱も終わり、明徳三年(1392年)には明徳の和談により北朝と南朝が一つになり南北朝時代が終焉となります。

今川了俊が九州南部の争乱を片づければ、南北朝時代は完全に終わる状態にまで来ていました。

ここで今川了俊は、躓く事になります。

九州諸将との関係の崩壊

応永二年(1395年)に今川了俊は大友親世と庶子家の田原、吉弘氏との対立に口出しをしました。

大友親世は怒り、今川了俊との武力衝突に発展しています。

大友親世は大内義弘や島津伊久、島津元久らと結び今川了俊に対抗しました。

今川了俊と九州の諸将との間で対立が深まり、今川了俊は大友親世との戦線を維持出来なくなったわけです。

九州探題解任の噂も流れており、九州経営が頓挫したと言って良いでしょう。

今川了俊は九州の中心地でもある博多からも追われ、肥前国小木に入りました。

九州探題の解任

足利義満は今川了俊に京都に戻るように命じました。

今川了俊は応永二年(1395年)八月に京都に戻りました。

足利義満は今川了俊が京都に戻ると、そのまま九州探題の職務を解任しています。

足利義満は今川了俊に代わり、渋川満頼を九州探題に任じました。

今川了俊の九州探題更迭は、過去には足利義満が九州で独自に動き出す今川了俊を警戒したとされてきました。

しかし、近年では先にも述べた様に、今川了俊の九州での戦線が維持出来なくなり京都に戻り更迭されたと考えられています。

その後の今川了俊

京都に戻った今川了俊ですが、駿河・遠江の半国守護となり、京都を離れ下向しました。

駿河守護の今川泰範は駿河半国を取り上げられる形となり、今川了俊に不満を持った話しがあります。

今川了俊の方でも足利義満に対し不満を持ち、鎌倉公方の足利満兼と大内義弘を仲介したともされています。

応永の乱では大内義弘が堺で討ち取られており、今川了俊自身は挙兵はしませんでしたが、相模の藤沢に蟄居しました。

今川泰範は今川了俊とは不和でしたが、この時は了俊の助命を幕府に働き掛けました。

今川了俊自身も足利義満に詫びを入れ事なきを得ています。

しかし、駿河と遠江の守護は今川泰範に与えられました。

今川了俊の最後

今川了俊は政界復帰出来ぬ状態となりましたが、難太平記、了俊一子伝、了俊歌学書などを著しました。

晩年は遠江国の堀越で過ごし、87歳から93歳の間で亡くなったとされています。

一時は九州を席巻する直前まで行きながらも、何処か寂しい最後だったと感じました。

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