室町時代

佐竹義盛は嫡子がおらず後継者問題が起きた

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宮下悠史

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名前佐竹義盛(さたけよしもり)
生没年1365年ー1407年
時代南北朝時代ー室町時代
一族父:佐竹義宣 弟:佐竹義有
娘:源姫、那須資重 養子:佐竹義人
コメント嫡子を決めなかった事で佐竹氏混乱の原因となった。

佐竹義盛は佐竹義宣の子で、母親は河越氏の娘だと伝わっています。

佐竹氏の第十一代の当主となります。

関東八屋形に佐竹氏の名前が挙がるのは、佐竹義盛の時代からです。

佐竹義盛は佐竹氏宗家の当主ではありましたが、男子に恵まれず二人の娘がいただけです。

こうなると当然の如く後継者問題に発展しており、佐竹氏の混乱を作ってしまった君主だとも言えるでしょう。

佐竹義盛の死の前後で後継者問題が勃発し、結局は関東管領の上杉憲定の二男である龍保丸(上杉義人)を婿養子として迎え後継者となりました。

庶子家筆頭の山入与義は反対し、佐竹氏は佐竹義盛の死後に混迷の時代に突入しました。

尚、佐竹義盛は多福寺(大宝寺)を創建した話が残っています。

名前住所電話番号
大宝寺神奈川県鎌倉市大町3丁目6−220467-22-2973

関東八屋形

佐竹義盛の時代に佐竹氏は関東八屋形の一角として名を連ねる事になります。

残りの関東八屋形は小田氏、那須氏、小山氏、宇都宮氏、長沼氏、結城氏、千葉氏の七氏です。

関東八屋形に任命された者は鎌倉時代もしくは、それ以前からの伝統的な関東の豪族勢力でもあります。

佐竹義盛の佐竹氏も関東八屋形に任命され、形の上では厚遇されたと言えるでしょう。

ただし、関東八屋形に関しては、色々と論争されている状態でもあります。

佐竹義盛の後継者問題

佐竹義盛の死の前後で後継者問題が発生しています。

佐竹家の宗家の当主である佐竹義盛には、娘が二人いましたが、嫡子となる男子がいなかったわけです。

嫡子がいない問題を佐竹義盛がどの様に考えていたのかは不明であり、誰を後継者にしようとしたのかも分かっていません。

佐竹義盛には弟の佐竹義有がおり、後継者に推す声もありました。

しかし、佐竹義有は病弱であり、これがネックになっていたとされています。

佐竹氏の重臣・江戸通景、小野崎通綱・小田野自義らは関東管領の上杉憲定の子を佐竹氏の養子にしようと考えました。

佐竹義盛の後継者を関東管領の上杉憲定の子にする事により、鎌倉府との繋がりを強くしたいとする思惑もあったのでしょう。

佐竹氏の庶子家筆頭である山入与義は猛反対しますが、佐竹氏では上杉憲定の子である龍保丸を迎え入れる事になります。

鎌倉公方の足利満兼も納得し、9歳の龍保丸(佐竹義人)が佐竹義盛の娘の源姫の婿養子となり、後継者となりました。

ただし、当然ながら山入氏は納得しておらず、佐竹の乱と呼ばれる100年の混乱に突入する事になります。

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