名前 | イヲケノ尉 |
生没年 | 不明 |
時代 | 室町時代 |
コメント | 最強の桶屋 |
イヲケノ尉は室町時代に、堅田で桶屋をやっていた人物です。
裏では荒くれ者を束ね相撲の行司を行っていました。
比叡山延暦寺が大谷本願寺に攻撃を仕掛けた時は、蓮如を避難させ僧兵たちの前で一喝し事なきを得ています。
延暦との金が森攻防戦にも参加しており、敵の大将を討ち取る功績も挙げています。
イヲケノ尉は武士顔負けの武勇の持ち主であり、その名は都にまで知れ渡る事になります。
室町時代の商人や職人、農民などの実態と合わせて解説しました。
尚、イヲケノ尉の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
桶屋の堅田イヲケノ尉
イヲケノ尉が暮らす堅田は、琵琶湖の縊れの部分であり、通行料を求める人もいましたが商工業が発展していました。
当時の堅田は日本版の梁山泊とも呼ばれ、油屋、麹屋、研屋、大工など様々な商工業の人がいたわけです。
堅田の中でも特に注目を集めていたのが、堅田イヲケノ尉となります。
イヲケノ尉は「イヲケ(結桶)」を製造販売する桶屋でした。
イヲケノ尉は相撲の行司も行っていた事が分かっています。
中世の相撲業界は現代とは違ったものであり、力自慢の荒くれ者が多く参加していたわけです。
行司が単なる審判ではなく、興行主でもあり荒くれ者たちを束ねる存在でもありました。
荒くれ者を束ねているわけであり、イヲケノ尉が只者ではない事が分かるのではないでしょうか。
当時の相撲の行司の別名は「透波の手柄師」であり、特に腕が立つ男でなければ務まらなかったと言えます。
普段は桶屋の気のいい大将だった堅田イヲケノ尉も裏では、荒くれ者の力士たちを束ねて、闇の世界とも通じる盗賊団の稼ぎ頭でもありました。
さらに、イヲケノ尉は兵法も分かっていたのか、その名は都にまで鳴り響いていたと言います。
延暦寺の大谷本願寺襲撃事件
大谷本願寺とイヲケノ尉
イヲケノ尉が生きた時代の、比叡山延暦寺の者達は、一向宗の事を忌み嫌っていました。
こうした事から寛正六年(1465年)に、比叡山延暦寺の僧兵らは、一向宗の大谷本願寺に武力行使を行っています。
これが寛正の法難となります。
この時代の比叡山延暦寺は天台宗の総本山でもあり、日本仏教界の最高権威でもあり、一向宗などは異端な者であり、とても受け入れられるものではありませんでした。
規模は小さいですが、宗教戦争だと言えるでしょう。
しかも、大谷本願寺には開祖の親鸞が眠っている地であり、比叡山延暦寺側にとってみれば、格好のターゲットでもありました。
この様な時期に、たまたま堅田イヲケノ尉が大谷本願寺にいたわけです。
無防備な大谷本願寺
意外にも、イヲケノ尉は一向宗を信じており、傾倒していました。
比叡山延暦寺の僧兵が向かっているとも知らずに、イヲケノ尉は蓮如の前で桶制作の実演をしていたわけです。
大谷本願寺では比叡山の僧兵が攻めてくるなど思いもよらず、無防備な状態で構えていました。
丸腰の大谷本願寺に比叡山延暦寺の僧兵150人ほどが攻め込んで来ました。
室町の世界では敵に敗れた者には、落武者狩りが待っており、比叡山延暦寺の僧兵が攻めて来た事を知った人々は、我先にとばかりに大谷本願寺に集まって来たわけです。
イヲケノ尉の一喝
偶然にも大谷本願寺の蓮如の近くにいたイヲケノ尉は、機転を利かし、蓮如を捕縛する振りをして、門の外に出ました。
イヲケノ尉は蓮如を上手く外に逃がす事に成功しています。
比叡山延暦寺の僧兵たちの前に出たイヲケノ尉は相手を一喝しました。
集まって来た野次馬や落武者狩りの人々は、イヲケノ尉に気迫に押された恐怖し逃亡する事になります。
実如を送り返す
イヲケノ尉は蓮如の弟の実如が、蓮如の名を名乗り身代わりとして捕虜になった事を知りました。
実如を取り戻すと、蓮如の元まで送り返しています。
イヲケノ尉の一喝を見ていると、三国志の張飛が長坂橋の前で、曹操の軍を一喝したのと、何処か被る気がするわけです。
それと同時に、イヲケノ尉の活躍により、大谷本願寺も蓮如も救われたと言えるでしょう。
金が森攻防戦
延暦寺が金が森を襲撃
延暦寺では、大谷本願寺を襲撃した翌年にも、近江国の一向宗の拠点を弾圧しています。
この時に、一向宗の最大の拠点が金が森の寺内町でした。
金が森では防備を固め要塞化しており、300の比叡山延暦寺の軍に対し、頑強に抵抗していたわけです。
金が森防衛軍の中にイヲケノ尉おり、獅子奮迅の活躍をし延暦寺の大将・守山の日浄坊を討ち取る活躍を見せています。
蓮如の決断
イヲケノ尉の活躍も大谷本願寺の蓮如の耳に入る事になります。
蓮如はイヲケノ尉が三箇所の傷を負い、重症になったとする話も聞いていたのでしょう。
蓮如は比叡山延暦寺との争いを好まず、むしろ妥協し共存したいと考えていました。
蓮如は多くの血が流れる事を危惧し、金が森には武装解除し、延暦寺に明け渡すように指示しています。
これにより、イヲケノ尉もいた金が森の降伏も決まりました。
しかし、イヲケノ尉は金が森の戦いでは、獅子奮迅の活躍を見せてしまい名も通っていた事から、許されるのかは微妙な立場だったわけです。
イヲケノ尉は大食漢
イヲケノ尉は金が森を脱出し、堅田に向かいました。
堅田でイヲケノ尉は松田某に助けられる事になります。
当時の堅田には、義侠心で繋がった者たちが多くおり、松田某とイヲケノ尉も、義侠心で繋がっていたのでしょう。
松田某もイヲケノ尉と同じ堅田の西浦にいた事が分かっています。
イヲケノ尉は松田某に食事を提供されますが、大食漢ぶりを発揮した事で話題になりました。
この話を聞いた民衆は「イヲケノ尉が重症だったのは嘘だったのではないか」と噂した話が残っています。
イヲケノ尉の最後
イヲケノ尉は毎月18日の念仏講の12月の幹事として、本福寺由来記に名前が見えますが本福祉跡記になると、イヲケノ尉の名が見えなくなり、この間に死去したと考えられています。
イヲケノ尉ほどの猛者であっても、死は訪れるという事なのでしょう。
桶屋の家業は弟の又四郎衛門に引き継がれ、その子の弥六衛門に引き継がれて行ったと伝わっています。
現在、イヲケノ尉の子孫の桶屋が存在しているのかは不明です。
室町の民衆の実態
士農工商は本当なのか
室町の世界には普段は普通に桶屋や鍛冶屋、油屋などの商工業者であっても、侍以上に武勇を持った人は沢山いたとみる事が出来ます。
昔の身分制度を考えると「士農工商」が、頭に思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。
士農工商は、江戸時代の身分を表す言葉で、武士が偉く、次に農民で、工人(職人)で一番下が商人となっています。
しかし、室町時代の人も江戸時代の人も、特に職人や商人が武士や農民よりも下だとは、思ってはいなかった様です。
本福治跡書には、次の様に書かれています。
※室町ハードボイルドからの引用
・農業ほどつらい職業はない。
・桶屋は、毎年桶の枠が腐るから、飢饉の年でも仕事が無くならない。
・大工も飢饉の年ほど物価や人件費が値下がりするので、金持ちは盛んに建築する。
これだと、農業が酷評され、桶屋や大工は安定した利益を得られる様に聞こえるのではないでしょうか。
しかし、この上記を見る限りでは、職人や商人が農民より下だとは思ってはいないと見る事が出来るはずです。
当時の記録では商人や職人は手堅い仕事であり、こういう者を檀家に多く持てば、いざという時に頼りになるとも書かれています。
イヲケノ尉も自分が武士や農民よりも下だとは、微塵も思ってはいなかったのではないでしょうか。
室町農民の強さ
本福寺跡書には、次の事も書かれています。
※室町ハードボイルドからの引用
諸国の百姓には、みな主人をもたないよう、もたないようとする者が多くいる。
・・・。それに比べて、主人から施された飯で口を汚し、
主人の側に控えて冷たい板敷をただ温めるしか能のない侍たちは、貴人から接待されるという事もないだろう。
しかし、侍のように主人をもつことのない百姓や町人は、貴人の前でも堂々と接待を受ける事が出来る。
なぜなら百姓は王孫(天皇の子孫)だからである。
これを見ると農民は天皇の子孫であり、武士を軽蔑している様にも見えるはずです。
百姓は主人を持たず、へつらう必要もない自由な存在だという事なのでしょう。
日本人には「お百姓さん」という言葉があります。
お百姓さんは「御百姓さん」であり、自分の身分を名乗る時は「御百姓」と書いてい事が分かっています。
この「御」というのは、天皇に直結する潜在的な高貴な身分だとする現れだ、考えられてきました。
こうした幻想も含んだ民衆思想の事を、研究の世界では「御百姓意識」と呼びます。
中世を見ると、百姓から天下人になった豊臣秀吉のイメージが強く、誰もが農民から抜け出し、武士になりたいと願ったと思うのではないでしょうか。
しかし、全ての人が豊臣秀吉になりたかったというのは、幻想に過ぎないのでしょう。
イヲケノ尉も含めて中世の人は現代人が考える程「士農工商」の様な、身分秩序の意識はなかったと考えられています。
自己主張が強い農民
文亀二年(1502年)十二月に和泉国では、荘園の領主が都での生活費を工面する為に、財産を借り上げようとしました。
この荘園の領主は、元関白だった事も分かっています。
しかし、これに反対の意を唱えたのが、荘園で働く農民であり、形だけであっても荘園にいてこその領主であり、そういう領主様に奉公していると告げました。
都に資金を流すよりも、荘園を守る兵士の一人でも雇うべきだし、矢や盾に資金を費やすべきだと述べています。
百姓と言えば、悪代官に虐められているイメージもありますが、実際には自己主張も強かった事も分かっています。
百姓も百姓で領主が役目を果たさないのであれば、自分達も領主に従う必要はないと考えていたのでしょう。
中世の百姓は自尊心も強く、決して虐げられる存在でもありませんでした。
当然ながら、イヲケノ尉の様な商人であっても、自己主張が強く過激な人はいくらでもいたのでしょう。
堅田イヲケノ尉の動画
堅田イヲケノ尉を題材にしたゆっくり解説動画となっております。
この記事及び動画は清水克幸先生の「室町は今日もハードボイルド: 日本中世のアナーキーな世界」を元に作成しました。