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鮑叔は人を知る明があった

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宮下悠史

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名前鮑叔(ほうしゅく)
生没年不明
時代春秋戦国時代
主君斉の桓公
コメント管仲との管鮑の交わりが有名

鮑叔は管仲を斉の桓公に推薦した人物として有名です。

管鮑の交わりの話でも有名となっています。

史記では管仲が宰相になってからの鮑叔は、存在感が無くなって行きますが、管子や列子に逸話が残っており合わせて紹介します。

最近では管仲が実在しなかったとも言われており、同じように鮑叔も実在しなかったとも考えられています。

しかし、斉で鮑氏の大夫は実際に存在していた事が分かっています。

管仲と同様に鮑叔も実態がよく分からない人物だと言えるでしょう。

管鮑の交わり

鮑叔と管仲は若い頃に知り合い親友となりました。

管仲は鮑叔と共に商売をしたりすれば、自分の方の利益を多くするなど問題行動をしますが、鮑叔は咎めなかったわけです。

さらに、管仲が戦場で逃げても、事業で失敗しても「臆病」「無能」などの言葉を発しませんでした。

鮑叔は管仲の能力の高さや性格を誰よりも知っていたわけです。

史記などによれば、管仲は自分を生んでくれたのは父母であるが、自分を知ってくれた者は鮑叔だと述べています。

管仲は後に大宰相となり出世しますが、天下の人々は管仲の賢さよりも、鮑叔の人を見る目を讃えたと言います。

管仲と鮑叔の固い絆を管鮑の交わりと呼びますが、最近では春秋時代の時代背景に合わず、創作だとも考えられています。

管仲の言葉

管仲は召忽と共に公子糾に仕える事になり、鮑叔は小白に仕える事になりました。

公子糾と小白は異母兄弟であり共に、斉の僖公の子で兄には諸児(斉の襄公)がいます。

管仲は公子糾に仕えましたが、鮑叔は小白に仕えるのを嫌がった話があります。

鮑叔は小白に仕えるのを嫌がった理由は、小白には諸児と公子糾の二人がおり、小白が斉公になる可能性が極めて低いと考えた為です。

鮑叔は病気を理由に外出を止め小白に仕えようとはしませんでした。

家から出ない鮑叔に対し管仲が訪ねて来ると、斉の国に最後に立つのは諸児ではなく、公子糾か小白のどちらかだと伝える事になります。

ここで管仲は小白の事を高く評価していると伝え、難局となった斉を上手く軌道に乗せる事が出来るのは、小白ではないかと述べました。

管仲は小白を評価する人は少ないが、自分は大器だと思っていると伝えたわけです。

管仲は小白には鮑叔が必要だと告げます。

鮑叔は元より管仲を高く評価していた事もあり、小白に仕える事になります。

鮑叔と高傒

後に斉の襄公が没すると、国外にいた公子糾と小白は斉を目指しました。

管仲の策もありましたが、最終的に小白が先に斉に到着し斉公となります。

公子糾と管仲は魯に引き返しますが、小白は魯に圧力を掛け公子糾を処刑し、管仲と召忽の身柄を要求しました。

鮑叔は単に斉を治めるだけであれば自分と高傒だけで十分だが、天下の覇者になるには管仲が必要だと述べています。

つまり、鮑叔は自分や高傒よりも管仲の方が上だと述べた事になるでしょう。

斉の桓公は管仲を宰相にして富国強兵の道を歩む事になります。

この話は美談にされていますが、実際には高傒は上級貴族の卿であり、管仲や鮑叔は中級から上級貴族に過ぎません。

当時は上級貴族が要職に就くのが普通であり、ランクが劣る鮑叔が高傒を「管仲よりも下」と評価するわけがないとする見解もあります。

実際に春秋時代には身分が固定されており、これらも管仲や鮑叔が実在しなかった説にも繋がったりします。

鮑叔の忠言

斉の桓公と管仲、甯戚、鮑叔の四人で酒宴を開きました。

この頃は斉の桓公は覇者として君臨しており、斉の絶頂期とも言える状態だったわけです。

斉の桓公は気を良くしたのか鮑叔に向かって「祝いの言葉でも述べて欲しい」と告げています。

鮑叔は次の様に答えました。

※管子より

我が君は国を離れ莒に亡命していた頃の、苦労をお忘れになってはなりません。

管仲は魯に出奔した捕らえられた時の、苦労を忘れてはなりません。

甯戚は牛車の下で飯を食べていた頃の、貧しく惨めだった頃を忘れてはなりません。

鮑叔は酒宴の席ではありましたが、斉の桓公、管仲、甯戚に戒めの言葉を述べたわけです。

斉の桓公は鮑叔の話が聞き終えるや席を外し「私と管仲、甯戚が鮑叔の言葉を肝に銘じておけば、この国はいつまでも安泰だろう」と述べました。

鮑叔の真面目さが伝わる言葉でもあります。

尚、管子では、この前の話が斉の桓公が管仲の遺言を守らずに、佞臣である易牙、豎刁、開方を近づけて、斉の国は混乱し、最後は斉の桓公が亡くなると埋葬もされず、遺体から蛆が湧いた話になっています。

管子の中の鮑叔の忠言と斉の桓公の最後の話はセットにもなっているのでしょう。

管仲の遺言

管仲は病となり、斉の桓公は誰に国政を任せるべきか尋ねました。

すると、管仲は逆に斉の桓公に「誰が適任だと思っているのか」と問う事になります。

斉の桓公は「鮑叔はどうだろうか」と鮑叔を推薦したわけです。

しかし、管仲は次の様に答えました。

※列子より

管仲「いけません。鮑叔は清廉潔白で立派な人物ではあります。

しかし、自分以下の人間に対しては、人を人とも思いません。

さらに、一度でも人の過ちを知れば、生涯忘れません。

鮑叔が国を治めれば、上は国君に背き下は民を虐げて、国は乱れてしまいます」

列子では斉の桓公は鮑叔を後継者にしようとするも、管仲が諫めた事になります。

管仲にとって鮑叔は大恩人であり「この態度はあんまりだ」と思うかも知れません。

しかし、逆を言えば親友だからこそ、相手の欠点も見えていたとみる事も出来ます。

列子には管仲が鮑叔を軽んじたわけではなく、状況的に軽んじるしかなかったという説明がなされています。

因みに、管仲は自信の後継者として隰朋を推挙しています。

鮑叔と正反対の性格でもある隰朋を管仲は高く評価していたわけです。

史記などでは斉の桓公は管仲の後継者として易牙、豎刁、開方の誰かにしようとした話がありますが、列子では鮑叔を斉の桓公の後継者にしようとした話が掲載されています。

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