南アジア

インダス文明は謎が多い

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前インダス文明
地域インド、パキスタン、アフガニスタン
時期紀元前2800年頃ー紀元前1800年頃
コメント古代核戦争説もある。

インダス文明は、エジプトやメソポタミアと並ぶ世界四大文明の一つでありながら、その実態には多くの謎が残されています。

本記事では、インダス文明の起源や都市の特徴、交易の広がり、そして滅亡に至るまでのさまざまな説を紹介しながら、その魅力と謎に迫ります。

特に、エラム文明との関係性や、突然出現した高度な都市計画の背景に関する仮説を取り上げ、文明の発展における外部要因の影響を解説しました

また、インダス文字や権力など、他の古代文明とは異なる特徴にも注目しています。

インダス文明の滅亡については、気候変動説、地殻変動説、洪水説など多様な説を紹介し、特に「農耕の分散による都市の衰退」という平和的な滅亡説に焦点を当てました。

加えて、近年話題となる「古代核戦争説」などの都市伝説的な主張についても取り上げ、その根拠や問題点を批判的に検討します。

尚、インダス文明の動画も解説しており、記事の最下部から視聴できる様になっています。

インダス文明とは

インダス文明は謎が多く、分かっている事がかなり少ないと言えます。

インダス文明は、エジプト文明、メソポタミア文明、黄河文明などの文明と一緒に紹介される事が多いのに、分かっている事が極端に少ないです。

インダス文字自体も解読されていません。

もし解読されれば、全く違った事が真実になる可能性があります。

インダス文明は、多くの方が知っている様に、インダス川の流域に栄えた文明です。

インダス文明の有名な遺跡として、モヘンジョダロやハラッパーがあり、100年ほど前に発見されました。

インダス文明と言えば、インドに栄えた文明だと感じるかも知れません。

しかし実際には、パキスタン、インド、アフガニスタンの三カ国にまたがる文明です。

インダス文明の誕生

インダス文明はその誕生も謎とされています。

定説では、エジプトやメソポタミアなどと同じように、大河の周りで農耕が発展し、インダス文明に発展したとされています。

しかし、インダス文明は突然、巨大都市が現れたとも言われており、誕生について謎が多いと言われています。

インダス文明が形成されたのは、インダス文明の西にある、エラムとの関わりが深いとする説があります。

これは、エラム人のトランスエラム文明が、インダス文明に介入した説です。

インダス文明とエラム

エラム人とシュメール人

インダス文明を知る上で、エラム地方とシュメール地方の関係を考える事が重要です。

エラムの西には、メソポタミアシュメール文明があります。

エラムの人々は、飢饉が起きやすく、食糧事情が安定しないことで苦労していました。

エラム人はメソポタミアのシュメール人から、食料を調達していましたが、食料自給率は低く、見通しは暗いままでした。

彼らは木材や鉱物をシュメールに輸送しており、当面の食料は何とかなるものの、いざという時の為の蓄えも必要だったと言えるでしょう。

そこで、木材などの物資の単価を引き上げたと考えられています。

異説もありますが、エラムの物資単価が上昇した事で、一部のシュメール人の都市王の怒りを買いました。

メソポタミア南部では、シュメール人の王が、エラム人が「不当に物資の単価をあげている」として、必要な物資を強奪しようとします。

シュメール人達はエラムの首都スーサに向けて出陣し、その結果スーサは陥落しました。

その後、エラムの本拠地は東のアラッタに移されることになります。

紀元前2700年頃に、エラム人がシュメール人に敗れた事で、本拠地を東にあるアラッタに移したという話があります。

これがエラムとインダス文明を結びつける事になります。

インダス文明とエラム文明の交流

スーサを本拠地にした頃を原エラム文明と呼び、アラッタに移してからは、トランスエラム文明と呼ばれることがあります。

エラムの地は、元々凶作が起こりやすく、食糧はシュメール人からの輸入に頼っていました。

しかし、シュメールと戦争になった事で、シュメール人と険悪になり、メソポタミアから食料が手に入らなくなってしまったのです。

困ったエラム人達は、新たなる食料の輸入先を探す事になります。

その結果、エラムの東にあるインダス地方では、農耕が盛んであり、食料も豊富にある事が分かりました。

インダスの民は軍隊を持っておらず、比較的平和に農耕を営んでいたと考えられています。

エラム人はシュメールに代わる食料の輸入先をインダス地方に求める事になりました。

まとめると、エラム人がシュメール人に圧迫された事で、エラム人が首都を東に移し、新たなる食料の調達先として、インダス地方を選んだということになります。

インダス文明と都市

都市の始まり

当時のインダス地方では、農業は盛んであっても、大規模な都市計画などは無かったとされています。

しかし、メソポタミアからエラムに都市計画などの文化が伝わり、エラムからインダスに、都市計画の文化が伝わったとも言われています。

エラム地方の人々が食料を大量に購入していくため、インダス地方の人々は暮らしが豊かになっていきました。

エラムには都市国家があると聞いた彼らは、エラムの文化を吸収して、都市を作ることになります。

インダス地方では、ゼロから都市を作ったわけではなく、エラム地方から一気に最先端の文化を取り入れて都市が出来たという説があります。

現在では、インダス地方に突如として、最先端の都市が誕生する事も可能だと考えられる様になりました。

今でいうと、アフリカにおいて電話線ではなく、いきなり電波を飛ばす携帯電話が普及する話と似ているのかもしれません。

インダス文明の都市は、インダス川の中流域にあるハラッパーや、下流にあるモヘンジョダロなどが有名です。

モヘンジョダロは、都市がかなり綺麗に残っていますが、ハラッパーの方はそうとも言えないようです。

ハラッパー遺跡

ハラッパーは最初に見つかったインダス文明の遺跡なのですが、当時はその重要性があまり理解されていませんでした。

そのため、ハラッパーの遺跡の煉瓦が、鉄道工事に使われてしまったのです。

大部分の煉瓦が鉄道工事で運ばれてしまった事から、遺跡として確認出来る部分は少ないと言われています。

それでも、ハラッパーには直線の道路や排水溝、井戸が造られていた事が分かっています。

ハラッパーは紀元前3300年頃からあったとされていましたが、残念な結果となりました。

モヘンジョダロ遺跡

モヘンジョダロは、比較的遺跡が綺麗な形で残っています。

モヘンジョダロは、碁盤の目の様な綺麗な都市は出来上がっていますが、巨大神殿や王宮の様な権力の象徴が見当たらないともされています。

このことから、インダス文明には、絶対的な権力者が不在だった可能性が考えられます。

インダス文明の凄い所は、都市が焼き煉瓦で出来ている所でしょう。

インダス文明の都市の特徴

エジプトやメソポタミアの民間の家などが日干し煉瓦で出来ているのに対し、インダス文明の都市は焼き煉瓦が多く使われている、豪華な都市でした。

焼き煉瓦は全てが縦、横、厚さが4対2対1で出来ていて、精巧に作られていました。

他にも、井戸の数が700もあり、三軒に1つの割合で井戸があった計算になるなど、他の文明と比べても、井戸の数が圧倒的に多い事が分かっています。

また、モヘンジョダロには排水溝もあるなど、しっかりとした都市が構築されていました。

モヘンジョダロの遺跡からは、踊り子の像や神官王とされる像なども見つかっています。

モヘンジョダロには絶対的な権力者はいなかったと考えられていますが、宗教的な要素は存在した可能性が高いです。

インダス文明においては、権力者が不在であっても、宗教的な影響力があり、それによって国が治められていたとも考えられています。

インダス文明とアッカド人

紀元前2350年頃になると、メソポタミアでは、中部にいたアッカド人が力を持ち初のメソポタミア統一を成し遂げる事になります。

アッカドに英雄的な王であるサルゴン1世が現れて、メソポタミア南部にいたシュメール人も傘下に入っています。

アッカド帝国の王であるサルゴン1世は、上は地中海、下はペルシア湾までを征服する事に成功しました。

彼は人だけでは飽き足らず、動物も支配下に置きたいと考えるようになります。

そこで、世界中の珍しい動物を集め、王家の動物園を作ることになりました。

サルゴン1世の作った王家の動物園には、メソポタミアにはいない水牛が存在したことなどから、インダス地方との交易があったことが示唆されています。

また、メソポタミア側の記録でメルッハと交易をしていた話があり、メルッハがインダス文明だとする説もあります。

しかしながら「メルッハはエチオピアである」という説もあり、インダス文明と断定できるわけではありません。

インダス文明は国際都市

インダス文明の遺跡は、東西で1500キロ、南北で1100キロに渡り広範囲に分布されている事になります。

インダス文明の遺跡の分布はエジプト、メソポタミア、黄河などの文明と比べても圧倒的に広いと言われています。

インダス文明は商人が支配していたという説や、活性化された国際都市だったという説を受けて、インダス文明の交易範囲も、西アジアのメソポタミアだけではなく、中央アジアにまで及んだと考えられる場合もあります。

インダス文明の遺跡の墓地には、外来者とみられる男性の隣に、原住民の女性が埋葬されている例も多くあります。

これは伴侶を求めてインダス地方に訪れたためであると考える専門家もいます。

インダス地方は商業も盛んで、交易で発展した部分もあったため、外国人が訪れるようになったのかもしれません。

インダス文字

インダス文明には、インダス文字があり、先ほど述べたように、解読はされていません。

インダス文字は、印章に刻まれた像と文字から成り立っているのですが、これがそもそも文字ではないとする説(ピクトグラムだったとする説など)もあります。

(画像:ウィキペディア

牡牛、虎、像や神像らしきものが描かれていることから、ピクトグラムである可能性は十分に考えられます。

コンピューターを使っての解読も行われたようです。

残念ながらコンピューターを用いても文字を解明することは出来ませんでした。

インダス文明と民族

インダス文明の言語は今の南インドに多くいるトラヴィダ系だとも考えられています。

しかし、インダス文明を作ったのはアーリア系との説もあります。

インダス文明の遺跡から見つかった遺骨を科学的に調べた結果、イラン高原の方から来た民族である可能性があることが分かりました。

近いうちに真相が明らかになる日が来るかも知れません。

インダス文明の滅亡

インダス文明はアーリア人に滅ぼされたのか

インダス文明は核戦争で滅んだという説も存在するのですが、都市伝説的要素の強いものなので、今回は補足として最後に紹介するにとどめます。

まず、一般的なインダス文明の滅亡を解説します。

過去には、インダス文明はアーリア系の民族がやってきた事で、滅ぼされたとも考えられていました。

インダス文明は、強大な軍隊を持っていた形跡もなければ、都市を守る城壁も低く、平和に暮らしていた様にも見えますから、武器を持ったアーリア人が滅ぼしたとされたのでしょう。

インダス文明の遺跡から見つかっている武器は、貧弱であり軍事力は殆ど無かったと考えられています。

アーリア人がインダス地方に住んだ事は間違いないようなのですが、アーリア人の移動は紀元前1500年頃だとされており、インダス文明が崩壊する時期と重なっていません。

インダス文明の滅亡は紀元前1800年頃とされているので、アーリア人が訪れた時期とは、300年ほどのずれがあることになります。

インダス文明の遺跡から、都市は一気に壊滅したわけではなく、徐々に住民がいなくなった事も分かってきています。

このことから、他民族に攻められて滅亡した可能性は低いです。

インダス文明の滅亡と自然現象

インダス文明滅亡の一つの原因は、住民の自然破壊による、砂漠化が原因だとする考えもあります。

インダス文明では焼き煉瓦を多く使っている事から、煉瓦を焼くために森林を伐採し過ぎたという話もあります。

しかし、インダス文明が消滅した後も農耕が行われていた事が確認されていることなどから、インダス文明砂漠説は疑問視されている部分もあります。

他にも、地殻変動によりインダス川の流れが変わってしまい、滅亡したという説もあります。

これについても、インダス川の流れが変わっただけなら別の場所に都市を築けばよいという理由で、否定的な見解が存在します。

インドにはモンスーンと呼ばれる季節風があり、気象変動による洪水が起きた事で、下流域が洪水し滅亡したという説もある状態です。

しかし、洪水しただけなら、地殻変動説と同じように都市を移動すれば良いので決定打に欠けるとも言われています。

インダス文明は平和的に滅亡していた

最後に、最も信憑性があるとされる、「気候変動による農耕分散説」を紹介します。

これは、インダス川付近の気候が変わった事で、インダス川の流域でなくても農耕が行える様になり、都市から人が徐々に拡散されて離れた、という説です。

インダス文明の最大級の都市であるモヘンジョダロやハラッパーでも、人口は4万人から8万人程度と言われていて、分散されて都市が廃れるのも早かったのかも知れません。

他の文明が争いで滅びる中、インダス文明だけは平和的に滅亡した可能性があります。

ただし、インダス文明末期のハラッパーの墓地からは、頭蓋骨が勝ち割られた様な痕跡や、殴られた跡、刃物で額に傷を負った跡があるなど、暴力的の犠牲になったと見られる人骨も発見されています。

こうしたことを考えると、インダス文明の末期に何かしらの混乱があり、人々が都市を離れるようになったという可能性も考えられます。

インダス文明の滅亡については文献資料が存在しないため、想像に基づく説が多く、実際のところは不明であると言えます。

地域の砂漠化、モンスーン、住民の拡散など複数の要因が混ざり合った結果、滅亡が起こったのではないか、という説もあるようです。

インダス文明古代核戦争説

核戦争説が唱えられた理由

最後に、インダス文明の古代核戦争説を紹介したいと思います。

因みに、私はインダス文明で古代核戦争が起きたとは思っていません。

原爆の父と呼ばれたオッペンハイマーが講演で、「あなたの原爆実験は本当に世界初なのか?」と質問された時に、「近現代においては、初めての事だろう。」と答えた事から、彼が古代に原爆があったのではないか、と考えていたとされています。

しかしながら、オッペンハイマー自身は、古代に原爆があったとは言っておらず、この言葉だけでは彼が古代に原爆があった事を認めた事にはならないでしょう。

古代核戦争説の裏付けとして、インダス文明のモヘンジョダロ遺跡にある人骨から、通常の50倍の放射能が検出された話があります。

他にも、モヘンジョダロで高熱で溶けたとしか考えられない容器や、砂漠で原爆実験をした時に出来る「トリニタイト」という人工鉱物が見つかったという話もあります。

高熱と言えば、火山の噴火による溶岩や、隕石の落下を思い浮かべる方もいるかも知れませんが、モヘンジョダロの付近に噴火する様な火山は見当たらないと言われています。

また、モヘンジョダロの遺跡の近辺にはクレーターがある様なのですが、隕石が落下した形跡はないとも言われています。

この辺りの真相はよく分かっていません。

ガラスの町は存在したのか

高温で砂漠の砂が溶けて出来た、ガラスの町があったとする話もあります。

ガラスの町の話は、イギリス人のデイヴィット・ダヴェンポートと、イタリヤ人のエットレー・ヴィンセンティが、現地人に聞いた話の内容を書籍として販売しました。

しかし、別の専門家が現地人にガラスの街について話を聞いても、「知らない」という答えしか返ってこなかったといいます。

その後、ダヴェンポートとヴィンセンティの行方が分からなくなるなどしたことから、ガラスの町の話はフェイクニュースだった可能性もあると言われています。

一部の人の間では、隠したい何らかの秘密があったため口封じをしたなど、陰謀論も流れているようです。

インド神話と古代核戦争説

さらに、インドの神話の中には、「太陽を一万個集めた程の光」や、「雲がそそり立つ柱」など、原子爆弾を彷彿とさせる記述もあります。

「死体が見分けのつかない程に焼きつくされた」「髪の毛と爪が抜け落ちた」といった話や「ヴィマーマ」と呼ばれる神々の乗り物が登場する話もあるようです。

これらの事から、古代に超文明が存在し、核戦争があったのではないかとも考えられています。

しかし、インダス文明古代核戦争説は、一部の学者たちからは、議論する必要もない様な話であると一蹴されているようです。

インダス文明と放射能

インダス文明の遺跡において「人骨から通常の50倍の放射能が検出された」という事実についてですが、紀元前の段階に核戦争が起きたとしても、放射能の濃度は通常に戻っていると考えた方が自然に感じます。

実際に原爆が投下された広島や長崎も、現在高濃度の放射能が検出されることはないためです。

モヘンジョダロには、放射能が籠りやすくなる、何かしらの原因があるのではないかとも考えられています。

以下は個人的な意見になりますが、核爆弾を使うには、核爆弾を扱う文明が必要となります。

インダス文明の周辺で大きな文明となると、メソポタミア文明でしょう。

しかし、シュメール人は高度な天文の技術を持っていたものの、鉄すらも作れない様な文明でした。

鉄の精錬技術すら持たなかったとされる文明が、核兵器を開発できたというのは、矛盾しているように思えます。

私は、その辺りの専門家ではないので、素人の意見になってしまうわけですが・・・。

これからの発掘調査に期待

2002年にインド西部のスラト沖合で海底遺跡が発見され、これが古代核戦争と関わっているという話もあります。

日本の与那国島にある海底遺跡も人工物だとする見解が大半を占めており、これを考慮すると、インドの海底遺跡が本当なのかどうかは疑わしいです。

古代核戦争説は、どかもやもやとして煮え切らない部分が多い様に感じました。

因みに、モヘンジョダロの周辺の地下には、発掘されていない地層が多く存在するとされています。

モヘンジョダロの近辺では、最低でも6回の大洪水があり、モヘンジョダロの近辺の地下には、遺跡が眠っているともされています。

ただし、文明があったとされる古い地層は、地下水の浸食で崩れ始めているという話もあります。

それでも、モヘンジョダロの地下には、インダス文明を知る上での重大な資料が眠っている可能性もあるため、これからの発掘に期待したいですね。

インダス文明の動画

インダス文明のゆっくり解説動画となっています。

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