サルゴンはアッカド帝国の基礎を作り人類最初の帝国を築いた人物とも言われています。
メソポタミア南部にいたシュメール人を傘下に組み込み、メソポタミアに一大帝国を築く事になります。
サルゴンは知名度は低いですが、古代メソポタミアやオリエント全体で考えても英雄と呼ぶに相応しい人物です。
尚、アッカドのサルゴンはサルゴン1世と呼ばれたりする場合もあります。
古アッシリアにもサルゴン1世と二世がいてややこしいですが、ここでは呼び名をサルゴンで統一します。
サルゴン王伝説
サルゴンは旧約聖書に出てくるヘブライ語名であり、アッカド語ではシャル・キンと呼ばれています。
尚、サルゴンには「真の王」という意味があり、生まれながらにして王になる運命にあった様にも感じます。
しかし、一説では生まれながらの王族であれば「真の王」は名乗らないのではないか?とする説もあるのです。
サルゴン王の伝説によれば、サルゴンの母親は子供を産んではいけない事になっている女神官だったとされています。
母親はサルゴンが誕生すると密かに、サルゴンを籠に入れユーフラテス川に流したとされています。
赤子をユーフラテス川に流すのは神明裁判であり、結果は吉と出てサルゴンは庭師に拾われ成長するとキシュ(都市名)のウルザババ王の近侍となります。
キシュのウルザババはサルゴンを危険人物だと知り殺害を企てますが、サルゴンは逆にウルザババから王位を奪う事になります。
サルゴンは捨て子から大出世を果たし、王として君臨する事になったわけです。
サルゴンの出生の物語は、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世、旧約聖書で出エジプトを果たしたモーセ、ローマ建国神話であるロムルスの最古の例となっています。
捨て子伝説の元祖がアッカドのサルゴンとも言えるでしょう。
逆に見方をすれば、サルゴンは生まれながらの王ではなく、成り上がりの王とも解釈する事が出来ます。
サルゴンのメソポタミア統一
サルゴンはメソポタミア統一を果たしますが、その過程などを解説します。
アッカドを本拠地とする
サルゴンはアッカド(都市名)を本拠地にしたとされていますが、アッカドの場所はイマイチ分かっていません。
有力な説としてはメソポタミア地方南部であるバビロニアのキシュとシッパルの間の辺りにアッカドがあったと考えられています。
他にも、現在のバグダードの付近だとか、チグリス川の支流であるディヤラ川の付近とする説もあります。
サルゴンが生きた時代は大都市だったアッカドも現在では砂に埋もれてしまったか、放棄され忘れ去られた都市になってしまっているのでしょう。
常備軍を創設
アッカドのサルゴンが行った画期的な事例として、自らの直属の親衛隊を作った事を挙げる事が出来ます。
サルゴンの王碑文によれば、「サルゴンの前で5400人が食事をした」とする記録があります。
この5400人がサルゴンの親衛隊であり、戦う為だけにサルゴンが雇っていたとも考えられます。
サルゴンは5400人の常備軍が原動力となりウルやウルク、ラガシュなどの都市を制圧したと考える人もいる程です。
今では当たり前でもある戦闘のプロフェッショナル集団である常備軍ですが、メソポタミア文明の初期の頃であれば画期的なものだったのでしょう。
それと同時にサルゴンの征服欲の強さも分かる気がします。
短弓を実戦に用いる
サルゴンの軍事改革の一つとして短弓を使いだした話があります。
アッカド帝国の第4代国王であるナラム・シンの時代に戦勝碑が作られた話があります。
シュメール人とアッカド人の対決を描いているとされていますが、シュメール人が槍で戦うのに対し、アッカド人は短弓を使っているのです。
短弓を戦いで効果的に使った事により、アッカド人はシュメール人を相手に戦いを優位に進めたとする説もあります。
新兵器の導入により戦いを有利に進めるのはよくある事です。
短弓を使った事がサルゴンによるメソポタミア統一を後押しした可能性もあるでしょう。
シュメール人と天下分け目の戦い
アッカドを統一したサルゴンとシュメールを統一したルガルザゲシの間で天下分け目の戦いがあったようです。
ルガルザゲシは、元々はウンマの王でしたがラガシュ王であるウルイニムギナを倒し、ウルクなどのシュメールの主要都市を制圧します。
ルガルザゲシは本拠地をウルクに移しウルク第三王朝を建国する事になります。
バビロニア北部のサルゴンとバビロニア南部のルガルザゲシの間で天下分け目の戦いが起きますが、アッカドのサルゴンが勝利しバビロニアの主となります。
尚、ルガルザゲシのウルク第三王朝は一代で滅亡する事になります。
人類初の帝国が誕生
シュメール人の王であるルガルザゲシに勝利した事で、サルゴンはバビロニアの全域を領有する事になります。
シュメール人を傘下に取り入れた事で、サルゴンはアッカド人以外に民族も配下にした事になり、これが人類最初の帝国だと考える人もいます。
帝国の定義が他民族を傘下に置く事であれば、サルゴン1世は人類最初の帝国を築いたと言えそうです。
尚、この当時で考えればエジプトでは、エジプト古王国があり国力で言えばアッカド帝国よりもエジプト古王国の方が上だと考えられます。
しかし、エジプトはハム語系のエジプト人が治める国であり、他民族を従えていない為、人類最初の帝国はサルゴンのアッカド帝国に譲る事になるのでしょう。
サルゴンの王碑文
サルゴンの王碑文なる物が残されており、下記の様な記述が残されています。
国土の王サルゴンにエンリル神は敵対者を与えない。エンリル神はサルゴンに上の海から下の海まで与えた
サルゴンの王碑文には「上の海から下の海まで」という表現がありますが、これがペルシア湾から地中海までを指すともされています。
この表現が正しいのであれば、サルゴンはメソポタミア地方南部のバビロニアだけではなく、メソポタミア全域を制圧し、さらにはシリア地方にまで遠征した事になります。
しかし、実際には東方はエラムを制圧し、西はマリ(都市名)までだったとする説が有力です。
サルゴンは地中海までは制圧する事が出来なかったと考えられています。
地中海まで制圧するのは、アッカド帝国四代目であるナラム・シンの時代だとされています。
アッカド帝国の繁栄
サルゴンは戦いに強かっただけではなく、交易により国を繁栄させた話があります。
メソポタミア南部を制圧した事で、港を手に入れ外国を交易をした話があります。
サルゴンの王碑文によれば「メルッハの船、マガンの船、ティルムンの船を停泊させた」とする記述があります。
メルッハはインダス文明の勢力、マガンはオマーン、ティルムンはメソポタミアから見て東南の勢力ともされています。
尚、ティルムンに関しては諸説がありバーレーンの事だとか、日本ではないかとする珍説?まである状態です。
サルゴンはシュメール王のルガルザゲシに勝利した事で、ペルシア湾の交易を確保し多くの富を手にする事になります。
サルゴン死後のアッカド帝国
サルゴンの最後が、どの様なものだったのかはよく分かっていません。
一般的には、サルゴンは紀元前2279年に死去したと考えられています。
サルゴンが亡くなると息子のリムシュが即位しますが、シュメール人などの反乱に手を焼いた話があります。
サルゴンの娘である王女エンヘドゥアンナもウルから追放される事件も起きている程です。
リムシュは反乱の首謀者であるカクを捕虜とし、エラム地方に出兵するなど勢力を拡大しました。
アッカド帝国はサルゴンの死後も支配領域を広げ、リムシュ、マニシュトゥシュと続きナラム・シンの時代が全盛期だとされています。
ナラム・シンの時代が終わるとシャル・カリ・シャッリが即位したりしますが、この時にはアッカド帝国は弱体化し、「誰が王で誰が王でなかったのか」という混乱状態となります。
アッカド帝国はザグロス山脈にいたグティ人に滅ぼされたとも言われていますが、気候変動による打撃も大きかったようです。
尚、サルゴンが築いたアッカド王朝の歴史が分かっているのは、古バビロニア時代の王碑文の写本が出土されている為だとされています。