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| 名前 | 鄧(とう) |
| 時代 | 殷→西周→春秋戦国時代 |
| コメント | 紀元前678年に滅亡した |
鄧は殷の時代からあったとされている国です。
曼姓鄧氏の国であり、現在の襄陽市もしくは鄧州市の辺りにあったとされています。
楚の武王の賢夫人として名高い鄧曼は、鄧の出身でもあります。
しかし、鄧曼の子の楚の文王により鄧は滅亡しました。
鄧は小国であり記録が殆どありませんが、楚に滅ぼされる逸話が春秋左氏伝にあり合わせて紹介します。
春秋左氏伝の鄧の記録
春秋左氏伝の魯の桓公の二年(紀元前710年)に、次の記録があります。
※春秋左氏伝より
蔡侯・鄭伯が鄧で会合を行った。
楚に対する警戒の最初である。
この頃の楚は武王の時代であり、勢力を拡大しており、危機感を抱いていたのでしょう。
尚、楚の武王の夫人の鄧曼は、鄧の出身ではありますが、この時に楚の嫁いでいたのかは不明です。
鄧曼が楚に嫁いだ時期はよく分かっていません。
それでも、この頃に鄧曼が嫁ぎ、楚の文王が誕生していれば、文王が鄧に立ち寄ったのが20歳を超えた頃となり、ありえない事ではないでしょう。
魯に来朝
春秋左氏伝によると、魯の桓公の7年(紀元前705年)に、穀伯綏、鄧侯吾離が魯に朝見に来たと言います。
鄧侯吾離が穀伯綏と共に魯に朝見に来た事になっていますが、何の為に、鄧侯が穀伯と共に魯に朝見に来たのかは不明です。
春秋左氏伝によると「吾離」や「綏」と名前で記録されたのは、これを低く扱った為だと記録されています。
鄧侯吾離らは何らかの頼みごとがあり、魯にやってきたのかも知れません。
鄧の祁侯と三人の甥
春秋左氏伝の魯の荘公の6年(紀元前688年)に鄧に関する記述があります。
春秋左氏伝によると、楚の文王は申を攻める為に、鄧に立ち寄りました。
鄧の祁侯は楚の文王を「私の甥だ」と述べて、持て成そうとしたわけです。
鄧の祁侯の言葉から楚の武王の夫人の鄧曼は、鄧の出身であり鄧の祁侯の姉もしくは妹だという事が分かります。
この時に鄧の騅甥、聃甥、養甥らは、この機会を利用して楚の文王を討つべきと進言しました。
春秋左氏伝には騅甥、聃甥、養甥ら三人は、鄧の祁侯の甥だと記述があります。
三人は鄧の祁侯に、次の様に述べました。
※春秋左氏伝より
鄧の国を滅亡に追いやってしまうのは、きっとこの人(楚の文王)です。
早くに手を打たないと、後になって臍を噛む事になります。
今なら間に合いますし、手を下すなら今が絶好の機会なのです。
騅甥、聃甥、養甥ら三人は楚の文王を危険視しており、楚の文王を暗殺してしまう事を進言したわけです。
楚は武王の時代に大きく勢力を拡大させており、楚に近い鄧は飲み込まれてしまうと考えたのでしょう。
尚、この発言の中で「臍を噛む」という言葉が入っていますが、「やり直しがきかず後で後悔する」の故事成語となっています。
騅甥、聃甥、養甥が楚の文王を殺害してしまう様に進言しましたが、鄧の祁侯は「そんな事をすれば唾棄されて、私の食べ残しに誰も手を触れなくなる」と答えました。
食べ残しと言えば、ご飯の食べ残しを連想するのかも知れませんが、実際には自分が用意した祭祀用の肉に、誰も触ろうとしなくなるという事なのでしょう。
しかし、三臣は引き下がらず「我らの言う事を聴かねば、鄧は滅亡し社稷を祀る者もいなくなり、祭祀の余肉もなくなります」と答えました。
鄧の祁侯は三臣の言葉に従いませんでした。
楚の文王は鄧を去り申を攻撃しますが、戦果を挙げています。
この戦いで楚は申を滅ぼしたとも考えられています。
申から楚は引き上げますが、この時に鄧を攻撃しました。
ただし、史記では楚の文王が申を攻撃する為に、鄧を通り国人が「今、楚を破るのは容易い事です」と意見したのに、鄧君が許さなかった話だけがあり、申を攻撃した後に鄧を攻めたとする記述はありません。
鄧の滅亡
春秋左氏伝の記述に従えば、鄧は楚の文王の攻撃を受けましたが、この時は持ちこたえたのか滅亡はしませんでした。
それでも、婚姻関係を結んだ鄧と楚の敵対が始まった事になるでしょう。
春秋左氏伝によると、魯の荘公の16年(紀元前678年)に、楚は再び鄧に侵攻し、攻め滅ぼしてしまったと伝わっています。
史記の楚世家でも楚の文王の12年(紀元前678年)に、楚が鄧を滅ぼした記述があります。
これが鄧の滅亡です。
尚、鄧の滅亡の時の君主が祁侯だったのかは、記録がなく分からない状態です。