春秋戦国時代

楚(春秋戦国)の史実『歴史ある大国はなぜ滅亡したのか』

2024年2月10日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

国名楚(そ)
別名
時代西周→春秋戦国時代
建国と滅亡紀元前11世紀頃ー紀元前223年
首都丹陽→郢→陳→寿春
年表紀元前632年 城濮の戦い
紀元前597年 邲の戦い
紀元前278年 鄢・郢の戦い
紀元前241年 函谷関の戦い
紀元前225年 城父の戦い
コメント国土も兵も多かったが貴族の力が強かった
画像YouTube

楚は春秋戦国時代を通して活躍した国であり、周の武王の時代には「王」を名乗っており、周辺国を次々に滅ぼして行く事になります。

楚では春秋時代に楚の荘王が現れ、この時の楚は天下で最も強大な勢力でした。

楚の荘王は春秋五覇の一人として数えられる事もあります。

楚の昭王の時代に呉の闔閭により勢力が後退しますが、後に越を滅ぼすなど大きく領土を拡げています。

しかし、楚では貴族の力が強く、呉起の改革も不発に終わりました。

楚の懐王の時代から楚はパッとしなくなり、楚の懐王に至ってはに騙され最後は幽閉され亡くなっています。

楚の考烈王の時代には、春申君合従軍を率いて秦を攻めますが、函谷関の戦いで敗れて撤退しました。

後に楚の項燕李信蒙恬を破る活躍を見せますが、結局は王翦蒙武の前に敗れ去る事になります。

楚は項燕と昌平君が最期の反撃に出ますが、結局は破れ楚は滅亡しました。

尚、楚が滅亡する時に、秦のやり方がよっぽど酷かったのか、楚の南公は「たとえ三家になろうとも秦を滅ぼすのは楚なり」とする呪いの言葉を残しています。

この言葉は成就され、楚人の項羽劉邦が秦を滅ぼしました。

楚は大国ではありましたが、国としての纏まりが悪かったなどはよく言われる所でもあります。

今回は春秋戦国時代を通しての大国であった、楚国の解説です。

尚、戦国七雄の楚国以外の国は下記の様になっています。

楚の建国

楚の始まりですが、史記によると三皇五帝の顓頊まで行き着く事になります。

ただし、三皇五帝というのは、遺物が発見されておらず、記録から考えても戦国時代に創作されたのではないかとされています。

その為、楚王室が帝顓頊の子孫というのは、かなり怪しい部分でもあります。

殷の時代に陸終の子の季連が羋姓を名乗りました。

季連の子孫に鬻熊がおり、周の文王に仕えますが、早くに亡くなったと伝わっています。

周の成王の時代に熊繹が楚に封じられる事で、楚国は誕生した事になっています。

ただし、楚は子爵もしくは男爵であり、爵位も低く中原からは外れた蛮夷の地に封建された事になるでしょう。

楚王が楚子として呼ばれたりするのは、爵位が子爵だった事に由来します。

この蛮夷の国である楚が周辺国を滅ぼし、強大になっていくわけです。

尚、周の昭王が南方に行き帰らなかった話がありますが、楚が猛威を振るっており、周の昭王が戦死したとする説があります。

ただし、周の昭王が楚と戦ったとする明確な記録はなく、あくまでも想像の産物でしかありません。

楚王の誕生

周の夷王の時になると西周王朝は衰微していたのに対し、楚では熊渠が庸を討ち勢力を拡大しました。

熊渠は息子らにも王を名乗らせたりしますが、周の厲王が暴虐であり、王位を取りやめたと言います。

周の厲王は自ら軍を率いたりもしており、楚は討伐されるのを恐れたのでしょう。

周の幽王犬戎の攻撃を受けて亡くなると、周の東遷があり周の平王が立ちました。

洛陽を本拠地とした東周は弱体化し春秋戦国時代に突入する事になります。

楚の熊徹(熊通)は隋を討つなど勢力を拡大し、周の桓王に爵位を高くする様に要求しますが、断られた事で自ら「王」を称する事になります。

これが楚の武王であり、紀元前704年に王号を称しました。

ただし、楚の武王は自ら「王」と称したのであり、春秋左氏伝などでは楚王とは書かれず、楚子と書かれたりしている状態です。

楚の武王の後継者となる楚の文王も着実に勢力を拡大させており、楚は中原の国を脅かす程の強国となりました。

春秋時代の楚

楚と斉の戦い

楚の成王の時代には、楚は北進するなど中原の国は楚を畏れる様になっていました。

この時に斉の桓公は宰相を管仲として国を整備し、諸侯同盟を結成しています。

斉の桓公は覇者としての道を歩み、楚の成王にとっての障害となります。

斉の桓公が諸侯の軍を率いて楚を攻撃すると、楚では周に貢物を奉る事を約束しました。

尚、斉の桓公が亡くなると、宋の襄公が覇者となりますが、楚の成王は泓水の戦いで宋の襄公を破っています。

宋の襄公と楚の成王の間で起きた泓水の戦いは、宋襄の仁の故事成語にもなっており有名です。

楚と晋の戦い

楚の成王の時代に、晋では晋の献公が驪姫を寵愛した事で、国が乱れ晋の公子の一人である重耳が楚に亡命してきました。

楚の成王は重耳の賢明さを聞いており、諸侯に対する礼で迎える事になります。

晋では晋の恵公が即位していましたが、との約束を反故にするなど信用を無くし、人質になっていた晋の懐公も秦から逃げ出すなどしています。

こうした中で、晋の国内では重耳待望論が沸き上がりました。

楚の成王も世間の流れを読み、楚と晋が遠い事から、重耳を秦の穆公に預ける事にしています。

秦の穆公の後ろ盾もあり、重耳は晋の君主となりました。

重耳が晋の文公であり、春秋五覇の一人にも数えられる名君であり、宋を巡って晋と楚の戦いとなります。

重耳は楚の成王に恩義があり戦いたくはなかった様ですが、楚の子玉との決戦となり城濮の戦いで楚は敗れました。

晋はこれにより周王朝から覇者として認められる事になります。

晋と楚は春秋時代の二大強国であり、春秋時代を通してのライバル国となりました。

春秋時代の形勢は楚と晋の争いが中心であり、左右を秦と斉が固める形となります。

楚の荘王が覇者となる

楚の荘王の時代に楚は強力であり、晋を邲の戦いで破るなど強勢でした。

名臣の孫叔敖が楚の令尹をやっていた事も大きいと言えます。

楚の荘王は春秋五覇の一人に数えられる事もあります。

春秋戦国時代を通して、楚の荘王の時代が楚が最も輝いている時期であり、中華の世界で最強国は間違いなく楚だった事でしょう。

楚の荘王に関しては「鼎の軽重を問う」や「鳴かず飛ばず」の逸話が故事成語にもなっています。

楚の共王の時代に鄢陵の戦いがあり、晋に敗れた事で覇者の座を明け渡したと考える人もいます。

ただし、この後も楚は勢力を拡大させていく事になります。

楚が滅亡の危機に立たされる

楚の平王の時代に後継者問題があり、伍奢や伍尚を処刑してしまいました。

父と兄が楚の平王に殺害された事で、伍子胥は楚を恨み呉に亡命しています。

呉王闔閭は伍子胥を重用しました。

呉では孫武も仕えた事になっており、楚からしてみれば侮れない勢力となります。

楚の昭王の時代に呉が大攻勢を仕掛けて来て、紀元前506年の柏挙の戦いで敗れた事で首都の郢まで占拠されてしまいました。

伍子胥の楚への恨みは凄まじく、楚の平王の墓を暴き鞭を打ち、これが「死屍に鞭打つ」の語源となっています。

楚の昭王は各地に逃亡し滅亡の危機に立たされますが、申包胥が秦の哀公を誠意を以って説得しました。

は楚に援軍を派遣し、呉でも夫概が独立してしまった事から、楚地から撤退する事になります。

呉軍が撤退した事で、楚の昭王は郢に帰還する事が可能となりました。

尚、楚の昭王の時代に孔子が楚にやってきましたが、楚の昭王は子西らの進言もあり用いる事はしませんでした。

楚のさらなる拡大

楚の恵王の時代になると、南方では楚、呉、越が争う時代となっていました。

呉王夫差の軍が強勢であり、越を屈服させ楚にまで攻めてきた事もありました。

ここまで行くと春秋時代も終わりが見えたと言えるでしょう。

楚は恵王の時代に陳や下蔡、杞などの歴史ある国を滅ぼしています。

楚は交通の要衝である陳や下蔡を滅ぼした事で、東方進出への足場が出来上がる事になります。

越王勾践は呉王夫差を滅ぼしますが、この時に楚では淮水の方にまで勢力を広めました。

楚の簡王の時代には東方の莒まで滅ぼしています。

楚の簡王の時代である紀元前403年にが諸侯として認められました。

春秋時代の大国である晋は韓、魏、趙に分裂し、斉では田氏が強大となり、田斉へと変わる事になります。

こうした中で、楚では春秋時代と変わらず羋姓熊氏が楚王をしており、楚では臣下の力を抑え込む事に成功していたとみる事が出来るはずです。

ただし、楚の悼王の時代に呉起が亡命してきて、改革を成し遂げようとしますが、失敗し呉起は貴族たちの恨みを買い殺害されました。

では商鞅が改革を成功させましたが、楚では改革が頓挫しており、この差が戦国時代の秦と楚の明暗を分けたとも言えるでしょう。

各国が王を称す

紀元前323年に公孫衍の五国相王により、は・中山で王号を称しました。

楚の懐王の時代までには、魏の恵王と斉の威王が互いに王と呼び合い王号を称しており、中華に複数の王が誕生した事になります。

春秋時代は蛮夷とされた呉や越を除けば、中華の王は楚王と周王だけでしたが、各国が王を称しました。

五国相国は張儀の連衡に対抗する為の策でもあったとされますが、楚の懐王にとってみれば気分を害す出来事だったはずです。

史記の楚世家によると、楚の懐王の11年に六国の合従を成功させ、楚の懐王が盟主となりを攻めた話しがあります。

それらを考えれば、楚の懐王は外交の孤立を防ぐ意味でも、五国相王を認めないわけにはいかなかったのでしょう。

戦国時代の初期は魏が最強国でしたが、魏の恵王の時代に馬陵の戦いに敗れ、秦の商鞅にも敗れた事で最強国の座から転落しました。

一般的には戦国時代中期は秦と斉の二強時代とされていますが、楚の懐王が合従の盟主になっている所を見れば、楚も侮れない勢力だと認識されていた事が分かります。

ただし、函谷関まで攻め寄せた合従軍ですが、秦軍の反撃にあい敗れました。

紀元前323年には楚王という立場が中華の世界では特別なものではなくなっていたわけです。

因みに、楚の威王の時代に越の無彊を討ち取り、楚の勢力は東の海まで到達しました。

紀元前306年の楚の懐王の時代に、楚が越を滅ぼし、楚の領域は最大領域となります。

楚の衰退の始まり

と楚は合従の盟約を結びを攻撃しようと考えますが、秦の恵文王は張儀を派遣し合従の盟約を破壊しようとしました。

張儀の「斉と誼を絶てば商・於の六百里の土地を献上する」の言葉を信じ、陳軫や屈原が反対する中で、楚の懐王は強行しますが、斉と断交しても秦では約束の土地を与えなかったわけです。

張儀に騙されたと悟った、楚の懐王が秦を攻撃しますが、大将の屈匄らは敗れて8万人を斬首される大敗北を喫しました。

それでも、楚の懐王の怒りは収まらず、国内の兵を総動員し秦を攻撃しますが、藍田で再び楚軍は破れました。

楚の懐王は泣きっ面に蜂とも言うべき状態にも見えますが、藍田は秦の末期に劉邦張良の策で秦軍を騙し討ちにし、この後に咸陽に入城しました。

それを考えれば、楚軍は楚の懐王の怒りが乗り移ったかの如く、秦の奥地まで攻め込んだ事になるでしょう。

しかし、楚軍は破れ、さらにが軍を南下させ鄧まで進軍した事で、楚軍は撤退しました。

楚は漢中の地を失いますが、秦では「漢中の一部を返還する」と言いますが、楚の懐王は漢中の土地よりも張儀の首が欲しいと述べました。

張儀は大胆にも楚に乗り込み、鄭袖に取り成しを依頼し、楚の懐王は張儀を赦しています。

しかし、楚の懐王は後で後悔し張儀を追撃させますが、追いつく事が出来ませんでした。

楚が何度も秦に敗れた事で「楚恐れるに足らず」とするのが、中華に拡がったのか、楚の懐王が秦に敗れた時から、楚の凋落が始まったと言えるでしょう。

逆を言えば、歴史ある大国である楚を破った事で、秦は軍事に自信を持ったはずです。

ここから先の秦と楚を見えると明暗がはっきりと別れる様になります。

楚の懐王幽閉事件

楚の太子横はへの人質となっていましたが、紀元前302年の秦の大夫と騒動を起こし楚に逃げ帰ってきました。

怒った秦軍はらと楚を攻撃し、楚軍は大将の唐眜が垂沙の戦いで敗れ討ち取られています。

垂沙の戦いで斉・魏・韓の師将となっていたのが孟嘗君だと伝わっています。

秦軍は、さらに楚を攻撃し将軍の景欠も討ち取りました。

秦軍の攻勢は続き、楚は8城を失う事になります。

こうした中で、秦の昭王は楚の懐王に書簡を送り武関での会見を望みました。

昭雎は反対しますが、子蘭などは秦と会見を行うべきだと主張し、楚の懐王は武関に出向きました。

しかし、秦では武装兵を配置し、楚の懐王を捕えて都の咸陽で土地を寄越せと強要しています。

楚の懐王は納得せず拒否し続けますが、本国の楚の方では子蘭らにより楚の頃襄王が立てられました。

秦は怒って楚を攻撃すると、楚軍は5万人を斬首される大敗北を喫し、この時点で楚は軍事的に秦に耐えきれなくなっていたとも言えます。

楚の懐王は秦から逃げ出しますが、楚への街道を塞がれ、へ入国しようとしますが武霊王により拒否され、秦兵により捕らえられてしまいました。

楚の懐王は怒りと憤りから発病し、秦で最後を迎えています。

秦では懐王の遺骸を楚に届けますが、楚の懐王の幽閉事件により、諸国は秦を真っ当な国だと見なくなったとあります。

尚、秦が執拗に楚の懐王をいたぶったのは、楚の昭王が懐王を嫌っていたわけではなく、母親の宣太后が楚の出身であり、懐王に対し何かしらの恨みがあったからではないかともされています。

楚の懐王は秦で不遇の最後を迎えますが、楚の民は懐王を憐れんだ話があり、秦末期になると項梁項羽により義帝(楚の懐王)が立てられており、懐王の名は反秦のシンボルとなります。

後の事を考えれば、懐王の仇は楚人が取り、秦を滅ぼしたとも言えるでしょう。

淮北の地を取る

紀元前293年に伊闕の戦いが勃発し、秦の白起が韓との連合軍を破り24万を斬首するという大戦果を挙げています。

秦は楚を脅すと、楚の頃襄王は秦と和親しようとし、婚姻関係を結びました。

紀元前288年に秦の昭王が西帝を名乗り、斉の湣王が東帝を名乗った話がありますが、楚は秦に何度も敗れた事で蚊帳の外であり、当時の二大強国は秦と斉だったと言えるでしょう。

楚は紀元前284年の楽毅率いる合従軍には参加せず、が壊滅状態になると楚は淖歯を斉への救援として派遣しています。

しかし、淖歯は斉の湣王に殺害し、淖歯もまた王孫賈に討たれました。

斉の襄王が立ち燕の昭王が没し燕の恵王が即位すると、楽毅が趙の恵文王の元に逃亡し、斉の田単は反撃に転じ、燕に奪われた土地を全て奪還しました。

斉が壊滅状態になった時に、楚は淮北の地を取ったと考えられています。

しかし、外交的にみれば斉は大きく国力を落し、秦、趙、魏、韓、燕の同盟に楚は加わっておらず、楚の頃襄王は外交上の孤立を防ぐために秦に近づいたとも考えられています。

楚の国宝級の宝である和氏の璧が趙に贈られたのも、この頃だったのではないかと考える人もいます。

この和氏の壁を持ち藺相如が秦で奮戦する事になります。

尚、後年に藺相如と刎頸の交わりを結んだ廉頗が楚に亡命し、一度は将軍となりますが、功績を挙げる事が出来なかった話があります。

因みに、廉頗は楚の寿春で亡くなりました。

首都の郢が陥落

楚の頃襄王を奮起させる者がおり、楚は諸国と合従を結びから奪われた土地の奪還の為に動く事になります。

楚は秦と親しい東周を侵そうといますが、周の赧王は西周の武公を使者として、楚の宰相の昭雎を説得しました。

昭雎が納得した事で、楚の周への侵攻はなくなり、そうこうしている内に秦が楚を討ち、頃襄王は上庸、漢北などの土地を秦に割譲する事になります。

さらに、秦の白起は西陵を抜き紀元前278年には首都の郢が抜かれました。

これが鄢・郢の戦いと呼ばれています。

白起の言葉によれば、楚の頃襄王は国力を頼みとし防備が疎かになり敗れたと述べています。

さらに、白起は楚の歴代王が眠る夷陵も制圧し破壊しました。

楚にとってみれば、夷陵を秦に制圧されたのは、屈辱以外の何物でもなかったはずです。

頃襄王は東部の兵を集結させ、秦に奪われた15邑を奪還する事に成功しますが、首都だった郢を取り戻す事が出来ませんでした。

楚は首都を陳に移し、陳は郢と呼ばれる様になり「陳郢」と呼ばれる事もあります。

楚は秦に和睦を願い、太子完を人質として秦に入れました。

太子完が秦に行く時に同行したのが、黄歇です。

尚、首都の郢があった場所に、秦は南郡を設置しますが、睡虎地秦簡によると、南郡では秦の法治主義になじまず、郢を占領してから50年が経過しても、楚の時代の風習を守っていた話しがあります。

宰相・春申君

楚では頃襄王が病に倒れると、黄歇は太子完を説得しに無断で還らせてしまいました。

秦の昭王は激怒し黄歇を殺害しようとしますが、范雎の言葉で処刑を取りやめ黄歇は持て成しを受けて楚に帰還しています。

太子完が楚の考烈王であり、忠義を尽くした黄歇を高く評価し、楚の令尹(宰相)としました。

黄歇が春申君であり、戦国四君のうちの一人に数えられています。

令尹の春申君が楚の考烈王に代わり、政治の実権を握っていたとも考えられています。

尚、春申君が大きな権力を持ったのは、楚の考烈王の信頼だけではなく、封君が他国よりも遅くまで専権を持っていた証だともされています。

楚では封君が力を持ち古い体制から抜け出す事が出来ず、国家が一丸となって戦うのが難しい状態だったとも考えられています。

楚の考烈王の時代に長平の戦いがあり、趙は趙括白起に敗れ40万の兵士を失う大敗北を喫しました。

は首都の邯鄲を囲まれますが、趙の平原君が楚に使者としてやってきて毛遂の説得もあり、楚の考烈王は合従の盟約を結ぶ事になります。

楚は趙に援軍を派遣しますが、史記の楚世家では景陽が派遣された事になっていますが、別の場所では令尹の春申君が援軍となっており、どちらが正しいのかははっきりとしません。

しかし、趙の孝成王は秦の攻撃を防ぎ信陵君や楚の援軍があり、秦軍は撤退しました。

楚の考烈王の時代の秦は趙、魏、を攻撃する事が多く、楚は比較的平和でした。

史記では春申君列伝の記述では楚は再び強勢となったとありますが、楚世家では「楚の力は弱まった」とあり、記述に差異があります。

楚が寿春に遷都

楚の考烈王と春申君の時代に楚は北上し魯を滅ぼすなど勢力を拡大させましたが、紀元前241年の函谷関の戦いでは秦軍に敗れています。

楚は楚、の合従軍でを攻撃し、趙の龐煖は合従軍の精鋭部隊を率いて蕞を攻撃しました。

紀元前241年の合従軍は春申君が中心となり、秦を攻撃したわけですが、函谷関の戦いで春申君が敗れ、龐煖も蕞の戦いで秦を破る事が出来なかったわけです。

春申君は撤退を決断しますが、合従軍の城を落してから帰還しました。

函谷関の戦いの敗戦により、楚の考烈王と春申君の間で溝が出来る様になったとも考えられています。

春申君の進言もあり、楚は陳から寿春に遷都しました。

寿春には大規模な水利灌漑設備があり、遺構からは郢爰とも呼ばれる楚の独自の金貨も出土し、戦国時代の末期であっても楚が経済的に繁栄していた証だとも考えられています。

寿春は東西約4キロ、南北3キロの城壁に囲まれた城であり、かつての郢(紀南城)東西4.5キロ、南北3.6キロよりも少し小さい規模だった事も分かっています。

しかし、春申君は首都の寿春には行かず、自分の領地である呉で政務を執る事になります。

楚の考烈王には子が無く、春申君が李園の妹である李環を考烈王に勧めた話しがあります。

楚の王位継承問題

楚の考烈王が亡くなると、李環の子である楚の幽王が即位しました。

李園と李環にとってみれば、春申君は邪魔な存在であり、春申君を暗殺しています。

楚の考烈王には子が中々出来なかった話もありますが、熊悍熊猶負芻昌平君昌文君などが考烈王の子だとする説もあります。

楚の幽王が亡くなると、同母弟の楚の哀王が即位しますが、負芻の一味により攻撃され命を落としました。

楚では負芻が王となります。

負芻が楚王となった紀元前228年には、既には滅亡しており、王翦らにより攻撃を受けている状態でした。

楚にも危機が迫っているはずなのに、楚王の元で一致団結する事もなく、後継者争いを繰り広げていたわけです。

楚の滅亡

紀元前225年に王賁を滅ぼしました。

さらに、秦は李信蒙恬に命じて、楚を攻撃したわけです。

楚は項燕が総大将となり、城父の戦いで李信と蒙恬を破りました。

秦が統一戦争の最終段階に入った時に、秦軍に抵抗する事が出来た将軍は李牧と楚の項燕だけとなります。

紀元前224年に秦は王翦蒙武に60万の大軍を預け、楚に侵攻しました。

楚では全国から兵をかき集めて、項燕に預けて戦わせますが、王翦に敗れ楚の寿春も陥落し負芻が捕虜となります。

項燕はまだ諦めておらず、昌平君を楚王に立て秦と最終決戦を挑みました。

しかし、時代の趨勢は秦にあり、昌平君と項燕は敗れて楚は完全に滅亡しました。

秦を滅ぼすのは楚なり

は楚を223年に滅ぼすと、燕王喜や代王嘉も捕虜とし、を滅ぼし天下統一を成し遂げたわけです。

楚は秦に対し抵抗が少なかった様ではありますが、秦軍は楚で無法を働いたのか楚の南公は「楚は三家になっても秦を滅ぼすのは楚なり」とする呪いとも言える言葉を残しています。

しかし、楚の南公の言葉は成就され、始皇帝の死後に陳勝呉広の乱が起きると、項燕の一族である項梁項羽が挙兵しました。

項梁や項羽は楚の懐王の孫の心を見つけ出し、楚の懐王を名乗らせ義帝としています。

後に楚人の劉邦が咸陽を落し、子嬰を降伏させ、項羽は秦を滅ぼしました。

項羽は西楚の覇王となり、劉邦との楚漢戦争に突入する事になります。

楚王家は滅びましたが、楚人が秦を滅ぼしたと言えるでしょう。

楚の国家体制

楚国の力の根源

楚国は様々な国を滅ぼしましたが、力の根源になっていたのが雲夢沢や銅緑山の資源開発や交易でした。

雲夢沢などは木材や皮革などの軍需物資であり、銅緑山は銅の採掘が行われ武器や農具の材料となります。

楚の交易に関しては、鄂君啓節が発見された事で明らかになり、楚は軍需物質を北方へ輸送するのを禁止し、東西の交易路は現在の桂林まで到達していた事が明らかになりました。

楚では規制を掛けるなどして、他国に軍需物資が流れるのを防いでいたのでしょう。

楚では流通において北方では車を用い、南方では船を用いて運んでいた事も分かりました。

楚は豊富な資源などを利用して、富を得て国を潤わしていた事になります。

ただし、戦国時代中期以降になると、鉄が主流となり銅緑山の銅は過去に比べると、廃れてしまいました。

楚の中央集権化

楚は春秋時代の段階で「県」を設置していたとされています。

ただし、楚で設置された県は中央からやってきた官吏が統治する直轄地だったのかは、イマイチよく分かっていません。

楚には楚爵という独自の爵位があり、楚爵がどの様な働きを為していたのかは不明です。

1987年に湖北省荊門市にある楚の司法官の墓から「包山楚簡」なるものが出土しました。

包山楚簡には紀元前316年頃の楚の国家機構に関して書かれており、そこから楚でもと同じように中央集権化が存在していた事が明らかになったわけです。

ただし、包山楚簡には20人以上の封君の名も記載されており、中には罪人の中にも封君の官吏がいた事が分かりました。

包山楚簡の記述から、楚では独立的な封君の領地である封邑の体制と県制とが併存していた事が明らかとなります。

封邑と県制が入り交じった体制では、古くからの貴族制度が混ざる事になり、不完全な中央集権体制だったとも言えるでしょう。

それでも、楚では越を郡として統治したり、春申君が淮北の土地を返還し郡とし江東に国替えするなど、楚でも直轄地の郡を置いていた事も分かるはずです。

楚が秦の侵攻を食い止めるには、旧体制を打破し中央集権化を進め貴族の力を弱める必要がありましたが、中途半端な状態だったとも言えます。

一時資料である睡虎地秦簡には、楚が郢を手放した後も現地住民は古くからのしきたりに従っており、秦の法治主義が行き届いていなかった話が掲載されています。

睡虎地秦簡の記述から、楚では中央集権的なものに対する反発が強く、中央集権が難しい地域だったのではないか?とも考えられています。

楚の国家体制に関しては、下記の動画が詳しいです。

楚の兵力100万

史記に蘇秦が燕、趙、魏、韓、斉、楚を遊説した話があり、兵力に関しては、次の様に述べています。

国名国土(里)兵力戦車(兵車)軍馬(騎馬)
2000数十万6006000
2000数十万100010000
1000数十万不明不明
 90070万6005000(騎馬)
2000数十万不明不明
5000100万100010000(騎馬)

上記の表をみれば分かるかと思いますが、楚は国土の広さや兵の多さなど秦以外の5国を圧倒している事が分かるはずです。

韓や魏は国土が極端に狭いと思うかも知れませんが、中原を有し大都市の密集地帯であり、他国に対抗出来たと言えます。

楚は国土の広さや兵力でいえば、に同レベルの実力を秘めていた事が分かります。

しかし、楚では先に述べた様に中央集権化が未熟であり、末期になっても貴族の力が強く、機動的な動きを見せる事が出来ませんでした。

さらに言えば、楚は国土が広く機動的に動けなければなりませんが、貴族や豪族の力が強く出来なかったのでしょう。

楚の貴族たちが戦いを嫌がれば、多くの兵を戦場に繰り出す事が出来なかったり、秦の様に民衆を戦場に駆り立てる事も出来なかったわけです

国家制度の点で楚は秦に劣り、それらが原因となり最後は滅亡したとも言えるでしょう。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細