斉(春秋) 春秋戦国時代

公孫無知は人を恨み人から恨まれ最後を迎えた

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宮下悠史

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名前公孫無知(こうそんむち)
姓・諱姜無知
生没年生年不明ー紀元前685年
在位期間紀元前685年
一族父:夷仲年
コメント斉の襄公を暗殺した

公孫無知は春秋時代の斉の君主です。

斉の僖公の寵愛を受けますが、斉の襄公の時代になると冷遇される事になります。

公孫無知は斉の襄公を恨み、連称や管至父と共に斉の襄公を誅しました。

斉の君主として公孫無知は即位しますが、1年も経たない内に、雍廩に討たれています。

公孫無知は分別が分からない人でもあり、人を恨み、人から恨まれ最後を迎えたと言ってもよいでしょう。

斉の僖公の寵愛

史記によると、斉の僖公が公孫無知を寵愛した話があります。

斉の僖公は弟の子である公孫無知を、何故なのかは不明ですが、寵愛したわけです。

斉の僖公は公孫無知に対し、親しみの情を持つだけではなく、服飾や俸禄も太子の諸児(襄公)と同じとしました。

斉の君主である僖公から寵愛された公孫無知は運がよいとも言えます。

それと同時に、待遇まで太子の諸児と同じにされた事で、後の不幸を呼ぶ事となります。

斉の僖公も、公孫無知に対する度を越えた寵愛だったと言えるのではないでしょうか。

斉の襄公と公孫無知の確執

斉の僖公が亡くなると、太子だった斉の襄公が即位しました。

斉の襄公は公孫無知が自分と同じ待遇を受けていましたが、国が乱れると考えたのか公孫無知の俸禄や服飾を引き下げました。

ここで、公孫無知が分別がある人間であれば、太子と同格の者がいれば、国が分裂し斉の為にならないと考えた事でしょう。

しかし、公孫無知は斉の襄公を恨んだと史記に記録されています。

斉の襄公と公孫無知の確執が後に自身にとっても禍を招く事になります。

斉の襄公を暗殺

斉の襄公は約束を守らなかった事で、連称と管至父に恨まれていました。

ここで、公孫無知と連称、管至父が結びつき乱を起こす事になります。

公孫無知らは乱を起こそうとし、斉の襄公の宮中に突撃を仕掛けようとしますが、襄公に暴行を受けた費に会う事になります。

費の傷だらけの体を見て納得し、公孫無知は費と共に宮中に雪崩込みました。

費は襄公に寝返りますが、公孫無知らは費を討ち取り、斉の襄公も見つけ出し殺害しています。

公孫無知は斉の襄公への恨みを果たしたと言えるでしょう。

公孫無知の最後

公孫無知は斉の君主となりますが、雍廩に恨まれていました。

雍廩は公孫無知が斉公になったら何をされるのか分からないと考えたのか、公孫無知を暗殺してしまったわけです。

公孫無知は世を去りますが、雍廩は野心がある様な人ではありませんでした。

雍廩は斉の襄公の仇を討つのが目的であり、次の斉の君主は大夫らが選ぶ様にと告げています。

これにより、斉の襄公の弟である公子糾と小伯がピックアップされる事になります。

最終的に小伯が斉の後継者となり、管仲を宰相に迎え斉春秋五覇の筆頭に数えられるまでになりました。

尚、公孫無知が亡くなった年に、斉は魯と会見を行いますが、公孫無知が亡くなっていた事で、代わりに斉の大夫が出席した話があります。

先代:襄公公孫無知次代:桓公

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