
晋の小子侯は春秋時代の晋の君主です。
当時の晋は翼の本家と曲沃の分家が争っており、分家の曲沃の勢力が圧倒的に優勢な時代でした。
晋の小子侯は即位した時期が悪く、運のない君主だと見て取る事が出来ます。
父親の晋の哀侯が曲沃の武公により捕虜となった事で、晋の小子侯は即位しました。
しかし、強大な勢力である曲沃に対しどうする事も出来ず、史記や春秋左氏伝では曲沃の武公に誘き出されて殺害されたとあります。
詳細は不明ですが、誘き出されて亡くなったという事なのでしょう
晋の本家と分家の戦いでは昭侯や孝侯など、曲沃により暗殺されたと考えられる者がいますが、同様に小子侯も暗殺されたのではないかと感じました。
晋の小子侯の即位
晋の小子侯は紀元前709年に、晋の哀侯を捕虜としました。
翼の晋の本家では君主が不在となり、ここで立てられたのが小子侯です。
小子侯の名前からして、幼くして晋の君主になったのかも知れません。
それと同時に、春秋戦国時代を見ても他に、小子侯と呼ばれた君主がおらず、諡なのかも不明となっています。
史記によると、曲沃の武公は益々強大となり、晋の本家はどうする事も出来なかったとあります。
晋の小子侯が即位した後に、曲沃の武公は韓万に晋の哀侯を処刑してしまいますが、小子侯は敵討ちをする事も出来ませんでした。
もはや晋の本家が分家の曲沃に対し、抵抗力も失っていたのでしょう。
晋の小子侯の最後
史記によると晋の小子侯の4年(紀元前705年)に、曲沃の武公が小子侯を誘きよせて殺害したとあります。
春秋左氏伝でも魯の桓公の7年(紀元前705年)に同じ事が書かれています。
史記でも春秋左氏伝でも、晋の小子侯は誘き出されて殺害されたとありますが、どの様なシチュエーションだったのかは不明です。
この頃には、曲沃の武公の勢力が本家を圧倒しており、講和を持ちかけて誘き出し殺害してしまったのかも知れません。
晋の小子侯の方でも、曲沃の強大さを危惧し、断れば攻撃を受けると考えて出向き、命を落とした可能性もあるのではないでしょうか。
もしくは、戦場に誘き出されて殺害されたのではないかと考えた事もありますが、誘き出されたと言う事は、暗殺の類なのではないかと感じました。
春秋左氏伝によると、翌年(紀元前704年)に曲沃の武公が翼を攻撃し滅ぼしたとあります。
この時点で、晋の本家は一旦は滅びた事になります。
周の桓王は晋の本家が滅びるのを良しとせず、虢公林父に命じて翼を復活させました。
翼では小子侯の弟である晋侯緡が立つ事になります。
曲沃の武公は本拠地である曲沃に戻りました。