
| 繻葛の戦い(じゅかつのたたかい) | 紀元前707年 | |
| 勢力 | 東周、蔡、衛、陳 | 鄭 |
| 指揮官 | 周の桓王 | 鄭の荘公 |
| 兵力 | 不明 | 不明 |
| 損害 | 不明 | 不明 |
| 勝敗 | 負 | 勝 |
繻葛の戦いは周の桓王が蔡、衛、陳と共に、鄭を攻撃した戦いです。
戦力で言えば、東周王朝の軍が圧倒していたはずですが、連合軍の中でやる気があるのは、周の桓王だけだったのでしょう。
繻葛の戦いが始まると蔡、衛、陳の軍が崩れ、周の桓王も負傷し、東周王朝の軍は鄭に大敗北を喫しました。
鄭の荘公は周の桓王に敬意を示し、追撃は行いませんでしたが、東周王朝の権威が失墜した戦いでもありました。
当時の人も繻葛の戦いの話を聞いて、東周王朝の実力を疑問視した人も多かったのではないでしょうか。
周の桓王と鄭の荘公の対立
繻葛の戦いが起きた理由ですが、周の桓王と鄭の荘公の対立があります。
鄭の荘公は周の東遷で活躍しており、東周王朝の卿士として権力を握りました。
周の桓王の祖父にあたる周の平王が鄭の影響力が強くなる事を危惧し、虢に接近しようとしますが、鄭の荘公に睨まれ言い訳をした話も残っています。
周の平王が崩御し、周の桓王が即位すると、東周王朝と鄭の関係は悪化し、鄭は祭足に命じて、東周の麦を刈り取ったり、魯と勝手に祭祀用の土地を交換するなどしました。
周の桓王の方でも鄭の領地を取り上げ、蘇忿生の領地だった場所を鄭に与えるなどしており、対立を深めていました。
鄭の荘公は東周王朝の卿士ではありましたが、王城に常駐していたわけではなく、朝見を行った時に、周の桓王は冷遇し関係は悪化していたわけです。
周の桓王は紀元前715年に、虢公忌父も卿士に任命しており、卿士を左右の二人体制としました。
虢公忌父の卿士就任は、鄭にとってみれば、東周王朝の発言権の低下を意味し、納得しがたい部分もあったのでしょう。
それでも、鄭の荘公は王命を奉じて戦争を行ったりもしており、何とかやってきましたが、紀元前707年に周の桓王は左卿士の位を鄭の荘公から剥奪しました。
これにより周の桓王と鄭の荘公の対立は頂点に達し、繻葛の戦いが勃発する事になります。
東周と鄭の戦力
周の桓王は蔡、衛、陳の諸侯と共に、鄭を攻撃する事になります。
さらに、周の桓王が自ら中軍の将となるなど、気合は十分だったと言えます。
この頃の鄭は斉や魯と友好関係にありましたが、東周王朝が相手となると、斉や魯は援軍を見送ったのでしょう。
それと同時に、魯や斉から鄭は遠く、援軍に駆け付ける余裕はなかったのかも知れません。
鄭は単独で周の桓王と戦う事になり、繻葛の戦いでは周の桓王が戦力では圧倒していたはずです。
両軍の布陣
周の桓王の布陣
繻葛の戦いでは、先にも述べた様に、東周王朝の軍は周の桓王が中軍の将となり、総大将を務めました。
虢公林父が右軍を率いる事になり、右軍には蔡、衛の軍が入る事になります。
周の桓王は左軍の将を東周王朝の重臣の周公黒肩とし、陳の軍が傘下に入ったわけです。
周王朝の卿士や重臣が軍の指揮官となり、諸侯の軍が傘下に入るのは、西周王朝からの伝統的な戦い方でもあります。
鄭の布陣
繻葛の戦いの鄭軍は、総大将が鄭の君主である荘公となり、中軍は原繁と高渠弥で固めました。
公子突は「陳は内乱で疲弊しているから闘志がなく、敵の左軍が崩れれば、混乱が王の中軍に拡がり、右軍の蔡と衛も混乱し勝利する事が出来る」と作戦を提示しています。
繻葛の戦いが起きた年は陳では陳の桓公の末年であり、太子の姫逸が殺害され、弟の陳公他が即位しており、混乱した中で兵を出していたわけです。
陳公他にしても、無理やり陳の君主になった部分もあり、納得していない者も多くいたのでしょう。
この作戦に鄭の荘公は賛同し、祭足を左軍の将とし、右軍の将には公子忽(鄭の昭公)が任命されました。
鄭の作戦としては、祭足が周公黒肩が指揮する左軍を打ち破れば、中央の周の桓王や、右翼の蔡、衛の兵も浮足立ち勝機が見いだせると考えたわけです。
繻葛の戦いの内容
繻葛の戦いが始まると、鄭の荘公は左右の両軍に「旗が振られたら突撃を掛けよ」と指示しました。
鄭の荘公が旗を振り左右の両軍に攻撃を仕掛けると、蔡、衛、陳の諸侯の兵が逃げ出したとあります。
左右に配置された蔡、衛、陳の士気は、かなり低かったのでしょう。
鄭の作戦では祭足が陳の軍を破る予定であり、その間に鄭の右軍を率いた公子忽は戦い抜く作戦であったはずですが、公子忽の右軍も蔡と衛の軍を蹴散らしてしまった事になります。
繻葛の戦いでは諸侯の蔡、衛、陳の軍が呆気なく敗れ、周の桓王が指揮する中軍も浮足立ちました。
鄭の軍は周の桓王が率いる軍に殺到し、周の桓王は大敗北を喫したわけです。
こうした中で、鄭の祝聃が放った矢が周の桓王の肩に直撃しました。
負傷しながらも、周の桓王は態勢を立て直す事になります。
追撃は行わず
繻葛の戦いで勝負が決した後に、周の桓王は戦えないと判断し、撤退を行ったのでしょう。
祝聃が追撃を主張しましたが、鄭の荘公は「君子は人を追い詰め過ぎないものだ。ましては、相手は天子である。我らが助かり社稷に傷がつかなければ、それで十分なのだ」と述べました。
鄭の荘公は祝聃の進言を退け、夜になると祭足を周の桓王の元に派遣し慰問させ、側近たちには王への安否を尋ねたとあります。
ここで鄭の荘公が周の桓王を討ち取ろうとしなかったのは、相手が天子であり、諸侯の非難などを考えれば、命を脅かす様な事は出来なかったのでしょう。
鄭の荘公は逆臣の汚名を怖れた結果だとみる事も出来ます。
東周王朝の権威の失墜
周の桓王は繻葛の戦いで大敗北を喫し、東周王朝の権威に大きな傷をつけてしまったと言えるでしょう。
天子が自ら兵を率いて諸侯と共に攻め込んだのにも関わらず、鄭に単独で敗れた衝撃は大きかったとみる事が出来ます。
繻葛の戦い以降の東周王朝では、周王が自ら総大将となり、軍を指揮するなどは無くなりました。
東周王朝の実力を露呈してしまったのが、繻葛の戦いだったとも言えるでしょう。
尚、繻葛の戦いで勝利した鄭は東周王朝の邦君の様な存在から、諸侯への脱皮を遂げる事になります。