
| 名前 | 陳公他 |
| 生年 | 紀元前754年 |
| 在位 | 紀元前707年ー紀元前706年 |
| 一族 | 父:文公 兄:桓公 |
| コメント | 乱を起こして君主になるも翌年に亡くなった。 |
陳公他は陳の文公の子であり、陳の桓公の弟でもあります。
陳公他は公子の時代に鄭の荘公を高く評価しており、鄭と誼を結ぶべきだと進言した話があります。
鄭の荘公は春秋五覇にも数えられる人物であり、陳公他には人を見る目がある様に思うかも知れません。
しかし、いつしか乱を起こす事を考える様になり、陳の桓公が病になると、太子免を殺害し自ら主君になりました。
陳公他は陳の君主となりますが、春秋には翌年に亡くなったと記録されています。
陳の桓公を諫める
鄭の荘公が陳に対し和議を求めました。
この時に、公子他は鄭の荘公の力を高く評価していたのか、兄の陳の桓公に次の様に述べました。
※春秋左氏伝より
公子他「仁者に親しみ隣国と友好を深めるのは国の宝です。鄭の要請を受けるべきです」
公子他は東周王朝の卿士もしている鄭の荘公を高く評価しており、友好を結ぶべきだと考え進言したのでしょう。
しかし、陳の桓公は鄭を低く評価しており、手強いのは宋と衛だと述べると、進言を却下しました。
陳は衛の州吁や宋、蔡と共に鄭を攻撃しますが、後に鄭は報復戦争を起こしており、陳の軍も大破する事になります。
この時点では、公子他は鄭の荘公の力量を見誤らなかった賢臣にも見えるわけです。
洩駕の予見
春秋左氏伝によると紀元前716年に、鄭と陳が講和したとあります。
この時に陳では公子他が代表となり、鄭に赴く事になります。
公子他は先に鄭と講和する様に述べている事からも、親鄭派であり、陳の代表として新鄭に行ったのでしょう。
鄭の荘公と盟約を結びますが、春秋左氏伝には「五父(公子他)は気の抜けた様な感じだった」とあります。
鄭の洩駕は公子他が盟約を信頼していないとし、公子他が禍を蒙るのを予見した話があります。
陳公他が陳の君主となる
春秋左氏伝によると、紀元前707年に陳の桓公が重体となりました。
ここで、陳の文公の子の公子佗(陳公他)が太子の免を殺害し代わって太子になったとあります。
陳公他は乱を起こし、無理やり陳の後継者になろうとしたと言えるでしょう。
史記にも春秋左氏伝にも乱により国人が分散し、二度も訃告があったとあり、陳の混乱が分かる様でもあります。
同年に周の桓王と鄭の荘公の対立が頂点に達し、繻葛の戦いが行われ陳は蔡や衛と共に東周王朝に味方しました。
しかし、陳軍が呆気なく敗れた事により、繻葛の戦いは大敗北を喫しています。
陳公他の乱が繻葛の戦いに影響を及ぼしたのでしょう。
それでも、陳公他は陳の後継者となった事だけは間違いなさそうです。
陳公他の最後
春秋の魯の桓公の6年(紀元前706年)に、次の記述があります。
※春秋 魯の桓公6年より
蔡人、陳佗を殺す。
この記述から、紀元前706年に陳公他が蔡の人により、命を落とした事が分かります。
ただし、春秋左氏伝には伝文も伝わっておらず、どの様なシチュエーションで陳公他が命を落としたのかが書かれていません。
史記では陳公他の乱の辺りの記述には混乱が見られますが、陳の厲公が蔡に行き放蕩を行っていた記録があります。
陳公他が蔡に行き夫人も蔡の人と私通を行い、結果として露見する事を畏れた蔡の人が陳公他を殺害したのかも知れません。
この辺りは謎が多いのですが、春秋の言う様に紀元前706年に陳公他は命を落としたのは確かなのでしょう。
それと同時に、陳公他が殺害した免の弟の躍が陳の利公として即位する事になります。
陳公他の死は嬀躍、嬀林(陳の荘公)、嬀杵臼(陳の宣公)も関わっていたのでしょう。