
楚隆は趙襄子の配下であり、史記や春秋左氏伝にも名前が登場する人物です。
紀元前475年に呉が越により、危機的な状況にありました。
趙襄子は呉王夫差の事を心配しますが何も出来ず、こうした中で楚隆は自薦し呉への使者となります。
楚隆は機転を利かせ越王句践を説得し、呉王夫差の元まで辿り着き目的を果たしました。
呉王夫差との会話の中で、楚隆は教養も高い事が分かっており、知勇兼備とも言える人物だったのでしょう。
尚、史記では楚隆の簡略な記述しかなく、今回は春秋左氏伝をベースに解説します。
呉への使者となる
春秋左氏伝によると魯の哀公の20年(紀元前475年)の11月に越が呉を囲んだとあります。
越王句践は呉王夫差を滅ぼすべく、最終決戦に挑んだわけです。
この時に、三晋の趙では趙襄子が父親の趙鞅の喪に服していましたが、呉王夫差の話を聞くと食膳を減らしました。
これを不思議に思った楚隆は「三年の喪は近臣に対する最も重い礼であるにも関わらず、なぜ貴方様は、さらに食膳を減らしたのでしょうか」と訪ねる事になります。
趙襄子は「黄池の会の時に、先主の趙鞅は呉と盟誓を交わしており『好悪を同じとする』と約束していた。
しかし、今の状況を見るに、越は呉に包囲され、私は過去の盟誓に従い、呉を救いたいが今の晋には、その力がない。それ故に食膳を減らしたのだ」と応えました。
趙襄子は盟誓を立てた呉王夫差を救う事が出来ない自分を恥じて、食膳を減らした事になります。
趙襄子の気持ちを察した楚隆は「呉王夫差に、今の気持ちを知らせてみてはどうでしょうか」と述べ、自ら使者になると言い出しました。
これにより、趙襄子は楚隆を呉への使者としたわけです。
越を欺く
楚隆は呉に向かいますが、越王句践は呉王夫差の軍を包囲しており、普通に入る事は難しかったわけです。
楚隆は越軍に行き、次の様に述べました。
※春秋左氏伝より
楚隆「呉は何度も中原を侵略しており、越が呉を討伐してくれるのを中原の諸侯は喜んでおります。
越の望みが本当に叶うのが心配なので、私が城内に行き様子を見てくる事にしましょう」
楚隆は本心を偽り、理由をつけて城に入ろうとしました。
越王句践が楚隆の言葉に納得し、楚隆に越の軍を通る事を許しています。
越の方でも、晋が呉にまで援軍に来るとは思っておらず、楚隆の言葉を信じたのでしょう。
楚隆は機転を利かせ、越の包囲を潜り抜け呉王夫差の元に向かう事になります。
楚隆と呉王夫差
楚隆は呉王夫差に会うと、次の様に述べました。
楚隆「我が君の老臣の無恤(趙襄子)は、陪臣の隆(楚隆)を無礼のお詫びを申しあげよとの命令を降しました。
黄池の会では貴君(呉王夫差)と先君の趙簡子(趙鞅)はお互いが斎戒し「好悪を同じくせん」と盟誓されました。
しかし、貴方様は危機に瀕しておられますが、無恤は晋の力では助ける事が出来ない。と申せと私に命令されたのでございます」
楚隆の言葉を聞くと夫差は、額を頭につけ「私は愚か者で越に仕える事も出来ず、其方に憂慮をおかけしてしまった」と詫びを入れました。
さらに、夫差は真珠を取り出し、趙襄子への贈り物とし「句践は私を生かして苦しめるつもりだ。私は無事には死ねないでしょう」と述べ、続けて「溺れかけている人がいれば必ず笑うと聞くが、私は一つ教えて欲しい事がある。」と楚隆に訪ねて来ました。
夫差は「40年前に呉が滅びると予見した史墨(蔡墨)は、なぜ君子になれたのか」と問う事になります。
ここで楚隆は「蔡墨は仕えても人から憎まれず、退いても謗られる事が無かった」と応えて、呉王夫差は納得しました。
呉王夫差とのやり取りを見ていても、楚隆が高い教養を持っている事が分かるはずです。
それと同時に、楚隆は目的を果たす事が出来たのでしょう。
この2年後である紀元前473年に呉は滅びました。