
| 名前 | キンメリア人 |
| コメント | 世界最古の騎馬遊牧民とも呼ばれている |
キンメリア人はフリギア王国を滅亡させるなど、古代オリエントに強い影響力を与えた民族です。
一般的にはキンメリア人は黒海の北岸にいましたが、スキタイ人に故地を追われコーカサス山脈を越えて、オリエントの世界に雪崩れ込んだと考えられています。
キンメリア人はウラルトゥ王国を攻撃し、フリギア王国を滅ぼしアッシリアと戦っています。
アナトリア半島ではリディア王国とも交戦し、ギュゲス王を死に追いやり、一時は首都のサルディスを占拠しました。
しかし、最終的にキンメリア人はアッシリア、スキタイ、リディアに連続で敗れ、歴史から姿を消しました。
尚、キンメリア人を題材にした動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。
キンメリア人とは何者か
キンメリア人は、史料上確認できる中では最古の騎馬遊牧民の一つとされています。
ただし、「キンメリア人」という名称自体はギリシア語であり、彼ら自身が自称していた民族名は不明です。
キンメリア人に関するギリシア系の文献は非常に限られており、代表的なものはホメロスの『オデュッセイア』に登場する記述です。
しかし、これは神話的要素が強く、史実として扱うことはできません。

ギリシア語文献では、彼らは黒海北岸の霧深い土地に住み、冥界(ハデス)の入口を守る民として描かれています。
当時の文明世界が黒海・カスピ海の南側に集中していたことを考えると、北方の未知の草原地帯が「冥界の入口」と見なされたのも理解できます。
紀元前9世紀、アッシリア帝国は「ギミッラーヤ」と呼ばれる北方の騎馬集団に悩まされていたと記録しています。
このギミッラーヤをキンメリア人と同一視する説があります。
アッシリアの人々がキンメリア人を、ギミッラーヤと呼んだのではないかとも考えられているという事です。
当時のアッシリア軍は高度な軍事力を持っていましたが、主力は二輪戦車と下馬しての弓射であり、高速で移動しながら弓を射る騎馬戦術には苦戦した可能性が指摘されています。
キンメリア人の起源と分類
紀元前3000年頃、黒海北岸(現在の南ロシア・ウクライナ)では草原化が進んだと考えられています。
キンメリア人がどのようにこの地域に定着したのかは不明で、遊牧民は文字記録を残さないため、史料が極めて限られています。
黒海北岸の草原化に伴い、メソポタミア方面から移動してきた可能性を指摘する研究もありますが、確定的ではありません。
キンメリア人は一般にアーリア人(インド・イラン系)に分類されるとされます。
現代では「インド・ヨーロッパ語族」と呼ぶのが一般的ですが、古い文献では「アーリア人」という語が用いられていることがあります。
資料によっては「キンメリア人=アーリア人」とされていることがありますが、これは民族的分類(インド・イラン系)を指しているのでしょう。
言語的にはインド・ヨーロッパ語族に属すると考えられています。
キンメリア人と関係が深いスキタイなどの遊牧民も、一般にアーリア人(インド・イラン系)に分類されています。
キンメリア人とスキタイ、そして黒海北岸の問題
ただし、キンメリア人が本当に黒海北岸にいたのかどうかについては、近年では疑問視する研究もあります。
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスや、いわゆる「バルバロイ」系の記述では、キンメリア人は黒海北岸に住んでいたとされています。
この説を採用する研究者も多く、スキタイが黒海北岸に定着する以前の時代を「キンメリア時代」と呼ぶ専門家もいます。
黒海北岸でスキタイ時代より古い遺跡が見つかると、それをキンメリア人の遺跡とみなす傾向があります。
しかし、これはヘロドトスの記述を前提にした推定であり、他に確実な情報源がないため、「スキタイより古い=キンメリア人」とされてしまう構造があると考えられます。
つまり、実際にキンメリア人の遺跡であるかどうかは確定できないというのが現代の歴史学の慎重な立場です。
紀元前1100年頃までには、キンメリア人は黒海北岸周辺に存在していたとされ、オリエント世界の北方で略奪活動を行っていたと伝えられています。
スキタイとキンメリア人の衝突と大移動
ヘロドトスの説によれば、キンメリア人とスキタイの関係は「侵入と追放」という構図で語られています。
彼の記述では、マッサゲタイ人がスキタイの故地を攻撃したため、スキタイが西へ逃れ、キンメリア人の土地に侵入したとされています。

スキタイの侵入を受け、キンメリア人の王族は「祖国で死ぬ」ことを選び、庶民は黒海沿岸を通って南下したと伝えられています。
また、キンメリア人の移動経路については、「黒海を東回りで南下したグループ」と「黒海を西回りで南下したグループ」の二つがあったとする説もあります。
スキタイ自身も故地を追われた立場であったため、生き延びるためにキンメリア人を襲わざるを得なかったという解釈もあります。
ただし、キンメリア人の移動については別の見方もあります。
それによれば、「キンメリア人が西アジアへの遠征に夢中になっている間に、黒海北岸の本拠地をスキタイに奪われた」という可能性も指摘されています。
つまり、「スキタイに追われた」「遠征中に本拠地を奪われた」という二つの説があり、どちらが正しいかは確定していません。
いずれにせよ、スキタイはキンメリア人にとって重大な脅威であり、両者の関係は敵対的であったと考えられます。
キンメリア人の南下とオリエント諸国への影響

紀元前715年には、黒海沿岸を南下していたキンメリア人がウラルトゥ王国に侵入しました。
当時のウラルトゥは、キンメリア人とアッシリアの緩衝地帯となっており、北方からの遊牧民の圧力に常にさらされていました。
キンメリア人を追ってきたのか、スキタイ人もオリエント世界に侵入したと考えられています。
スキタイの侵入範囲はキンメリア人より広く、そのためオリエント世界の混乱はさらに拡大したとされています。
キンメリア人がアナトリア半島や西アジアに侵入したことで、フリギア王国・アッシリア王国・ウラルトゥ王国は互いの戦争を中止し、キンメリア人への対策に乗り出したと伝えられています。
複数の強国が協調せざるを得なかったことから、当時のキンメリア人が相当な軍事力を持っていたことがうかがえます。
しかし、キンメリア人はスキタイに故地を奪われており、生き延びるためには略奪によって物資を確保するしかありませんでした。
その結果、多くのキンメリア人がアナトリア半島へ向かったと考えられています。
このため、アナトリアのフリギア王国は深刻な危機に陥りました。
ミダス王とキンメリア人、そしてフリギア王国の危機
当時のフリギア王国の国王はミダス王でした。
ミダス王といえば、ギリシア神話に登場する「王様の耳はロバの耳」「触れるものすべてを黄金に変える黄金の手」といった逸話で非常に有名です。
歴史上のフリギア王国にも「ミダス」という名の王が実在し、キンメリア人と戦った人物として記録に登場します。
このため、「伝説のミダス王は実在した」と主張する人もいます。
しかし、神話のミダス王と歴史上のミダス王は別人の可能性もあります。
フリギア人はもともとギリシア北方(バルカン半島方面)にいたと考えられており、その時代にも「ミダス」という名の王が存在したとされています。
そのため、「神話のミダス王(ロバの耳・黄金の手)」と「キンメリア人に対応した歴史上のミダス王」は、同名の別人物である可能性が高いのです。
ギリシア神話では同名の人物が複数登場することが珍しくないため、「ミダス」という名前が複数の伝承に混ざり合ったとみるのが自然です。
フリギア王国には、もう一人有名な王がいます。
それが「ゴルディアス王」です。
ゴルディアス王は、誰にも解けない“ゴルディアスの結び目”で知られています。
この結び目をアレクサンドロス大王が剣で両断したという逸話は、「難問を力業で突破する象徴」として後世に語り継がれています。
紀元前695年、キンメリア人はフリギア王国を攻撃し、大きな打撃を与えました。
勝利したキンメリア人はフリギア王国の首都ゴルディオンへ進軍し、この混乱の中でミダス王は自害したと伝えられています。
これにより、フリギア王国は実質的に滅亡しました。
キンメリア人はヒッタイト滅亡後にアナトリアに成立したフリギア王国を滅ぼしたことになります。
その後も各都市に攻撃を加え、紀元前685年頃までにはフリギア王国は完全に崩壊したと考えられています。
キンメリア人の次なる標的・リディア王国とギュゲス王
フリギアを制圧したキンメリア人の次の標的となったのが、アナトリア西部のリディア王国でした。
この時代のリディア王はギュゲス王です。
ギュゲス王は、ギリシア伝承では「覗き見がきっかけで王になった」とされる人物で、神話的な逸話を持つことで知られています。
紀元前685年、キンメリア人とリディアの戦いが起こり、ギュゲス王はアッシリアの援軍を得てキンメリア人に勝利しました。
しかし、キンメリア人はアナトリア各地に都市を築き、着実に定住を進めていたと考えられています。
紀元前679年、アッシリアではエサルハドンが即位していました。
エサルハドンはキンメリア人の同盟国タバルに侵攻し、キンメリア王リュグダミスはアッシリア軍と戦いましたが敗北しました。
この頃のアッシリアは強大で、北方の遊牧民勢力に対して積極的に軍事行動を行っていました。
メディア・マンナイ・スキタイ・キンメリアの連合軍
紀元前673年、メディア王国がアッシリアに反旗を翻しました。
この反乱にはマンナイ人、スキタイ人、キンメリア人が加わり、連合軍を形成してアッシリアと戦ったとされています。
同年、ハマダン南部で連合軍とアッシリア軍(エサルハドン)が激突しましたが、結果として連合軍は敗北しました。
この戦いは、メディア・マンナイ・スキタイ・キンメリアという北方・東方勢力がアッシリアに対抗した象徴的な戦いでしたが、アッシリアの軍事力を崩すには至りませんでした。
キンメリア人の最終局面と歴史からの消失

紀元前668年頃、リディア王国のギュゲス王は東方への勢力拡大を目指し、キンメリア人が築いた都市の攻略に乗り出しました。
当時のリディア王国にとって最大の脅威はキンメリア人であり、ギュゲス王はスキタイと協力してキンメリア人討伐を進めていたと考えられています。
しかし紀元前645年、キンメリア人がリディア王国を攻撃し、ギュゲス王は戦死しました。
この時のキンメリア軍を率いていたのが、キンメリア王リュグダミスであったとされています。
国王を失ったリディア王国は深刻な危機に陥り、キンメリア軍は一時的に首都サルディスを占拠しました。
ただし、キンメリア人の快進撃は長く続かず、アッシュルバニパル王の治世である紀元前640年頃にアッシリア軍に敗北しています。
紀元前630年、キンメリア人はスキタイ王マドイェスに敗れ、壊滅的な打撃を受けたとされています。
この敗北により、キンメリア人は再起不能なほどの損害を受けたと考えられています。
紀元前7世紀末には、リディア王国のアリュアッテス王が残存するキンメリア勢力を駆逐し、キンメリア人は歴史の表舞台からほぼ姿を消しました。
遺物の問題
キンメリア人は「世界最古の騎馬遊牧民」とされるにもかかわらず、歴史上の印象が薄いのは、目を引く遺物をほとんど残さなかったことが大きいと考えられます。
スキタイ人は黄金製の装飾品や武具など、非常に特徴的で豪華な文化遺物を残しました。
そのため、現代では「遊牧民=黄金文化」というイメージが強くなっています。
一方、キンメリア人は考古学的に確実といえる遺物がほとんどなく、文化的特徴を復元することが困難です。
これは、遊牧民が定住民に比べて遺物を残しにくいという事情も関係しています。
実際には、歴史に登場しても大帝国を築く民族の方が少なく、キンメリア人のように短期間で消えていく遊牧民勢力は珍しくありません。
キンメリア人に関する資料は非常に限られています。
彼ら自身が文字を残さなかったため、その歴史の大部分はヘロドトスなど外部の記録に依存しています。
そのため、キンメリア人の正確な起源、文化的特徴、社会構造、移動経路、スキタイとの関係の詳細などは、いまだに不明な点が多いのが現状です。