レコンキスタ

アルフォンソ2世(アストゥリアス王国)は純潔王と呼ばれた

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宮下悠史

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名前アルフォンソ2世
生没年760年ー842年
在位791年-842年
アストゥリアス王国
コメント純潔王と呼ばれた

アルフォンソ2世はアストゥリアス王国の君主であり、先代のベルムード1世に能力及び人格を認められ王位に就きました。

その治世は50年を超え政治は安定しました。

治世の間に同じくイベリア半島の後ウマイヤ朝とも戦闘を行っていますが、一進一退の攻防となっています。

アルフォンソ2世は勢力を拡大させ、カンガス・デ・オニスからオビエドに遷都しました。

アルフォンソ2世の時代の出来事として、聖ヤコブの墓が発見された話があります。

首都のオビエドを整備するなど、アストゥリアス王国の君主の中でもアルフォンソ2世は評価が高い君主でもあります。

尚、アルフォンソ2世は純潔王の異名をとる君主でもあります。

アルフォンソ2世の統治

ベルムード1世には自身の子がいましたが、有能とみなされたアルフォンソ2世を後継者に指名したことで、後世の史料では寛大で賢明な判断を行った王として記録されています。

歴史においては、有能な人物そのものだけでなく、有能な人物を適切に推挙した者が評価される例も多く見られます。

なお、アルフォンソ2世の死後には、ベルムード1世の子がアストゥリアス王位を継いでいます。

ベルムード1世は王位を譲った後、聖職者として宮廷で生活したと伝えられています。

アルフォンソ2世の在位期間は約50年に及び、半世紀にわたってアストゥリアス王国を統治したとされています。

しかし、この長期の治世においても、約700年続くレコンキスタが終結したわけではありませんでした。

アルフォンソ2世は794年と795年に後ウマイヤ朝の軍から攻撃を受けています。

戦闘の記録によれば、アストゥリアス軍は待ち伏せによってイスラム軍を急襲し、勝利したとされています。

ただし、次の戦いでは敗北したと伝えられています。

それでも、初戦の急襲を警戒したためか、イスラム軍は占領を行わず撤退したとされています。

都市の再興と後ウマイヤ朝との戦い

アルフォンソ2世はオビエドに宮殿を建設し、都市の再興を進めました。

オビエドはアルフォンソ2世の父が築いた場所であり、ルゴやレオンへ通じる交通の要衝でもありました。

アルフォンソ2世は「オビエドには宮殿だけでなく多くの教会を建設し、旧西ゴート王国の首都トレドのように整備するように」と命じたと伝えられています。

これは、アストゥリアス王国が西ゴート王国の正統な後継者であることを内外に示す意図があったと考えられます。

アルフォンソ2世はオビエドを復興し、首都をカンガス・デ・オニスからオビエドへ移しました。

カンガス・デ・オニスは山岳地帯に位置し、防衛には適していたものの、積極的な軍事行動には不向きであったとされています。

アルフォンソ2世はイベリア半島北西部のガリシア地方へ勢力を拡大しました。

794年にはルトスの戦いで勝利し、825年にはガリシア地方のナロンを支配下に置いたとされています。

一方で、796年には東部のカラオーラを失ったとされ、アストゥリアス王国と後ウマイヤ朝の間では一進一退の攻防が続いていました。

イスラム軍は冬季の行軍が困難であったため、夏季にアストゥリアス王国へ遠征することが多く、この遠征は「サーイファ」と呼ばれていました。

サーイファはアストゥリアス王国の東部または西部を攻撃することが多かったとされます。

中央部はアルフォンソ2世の焦土化政策により無人地帯となっていたため、攻撃を受けることは少なかったと考えられています。

アルフォンソ2世の時代には、この無人地帯が徐々に再定住によって回復しつつあったとする記録があります。

多くのモサラベ(イスラム教に改宗しなかったキリスト教徒)もアルフォンソ2世の時代に、北方に移住しました。

しかし、アストゥリアス王国の現地民とモサラベの間での対立も多かったとされています。

「純潔王」と呼ばれたアルフォンソ2世

アルフォンソ2世は「純潔王」とも呼ばれています。

彼はフランク王国の王女ベルタと結婚したとされていますが、これは貴族たちによる政治的な代理結婚であったと考えられています。

ベルタは一度もアストゥリアス王国を訪れておらず、アルフォンソ2世もフランク王国へ赴いていませんでした。

そのため、両者は夫婦でありながら実際に会うことはなかったとされています。

アルフォンソ2世には女性関係の記録がほとんど残っておらず、婚外子も確認されていません。

こうした事情から、後世の史料では「純潔王」という呼称が与えられました。

ただし、子がいなかった理由や私生活については史料が乏しく、個人的な性格、宗教的価値観、政治的事情など、さまざまな可能性が考えられるものの、特定の理由を断定することはできません。

先代:ベルムード1世アルフォンソ2世次代:ラミロ1世

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