
| 名前 | アストゥリアス王国 |
| 時代 | 718年ー925年 |
| 場所 | イベリア半島 |
| 首都 | カンガス・デ・オニス→オビエド→レオン |
| コメント | 弱小国から徐々に勢力を拡大 |
アストゥリアス王国は西ゴート王国の崩壊後に出来たキリスト教国です。
建国された当初はアストゥリアス地方の一部しか支配出来ておらず、小領主にも近い立場でした。
アストゥリアス王国が建国された当時は、ウマイヤ朝の勢力が強くイベリア半島の大部分を支配している状態だったわけです。
それでも、アストゥリアス王国は険阻な地形を利用し、粘り強く戦い勢力を拡大させていく事になります。
アストゥリアス王国はレオンに遷都した時に、レオン王国と名前を変えました。
アストゥリアス王国の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
アストゥリアス王国の成立と歴史的背景
アストゥリアス王国は、レコンキスタの最初期から存在していた王国です。
成立当初は領土が狭く小規模でしたが、地理的条件や経済的価値の低さなどから、イスラム勢力による征服を受けなかったと考えられています。
イベリア半島の大部分がイスラム勢力の支配下に入る中で、アストゥリアス地方のみが最後まで制圧されなかったとされています。
710年頃、イベリア半島にはキリスト教を国教とする西ゴート王国が存在していました。
一方、対岸の北アフリカ沿岸部は、イスラム教を国教とするウマイヤ朝が支配していました。
当時の西ゴート王国では、王位継承をめぐる対立が続き、国内は分裂状態にありました。
そのような状況の中、ウマイヤ朝の将軍ターリクがイベリア半島へ侵攻します。
ウマイヤ軍が上陸すると、西ゴート王国も外敵に対抗するために軍を動員し、711年にはグアダレーテ河畔の戦いが発生しました。
兵力では西ゴート軍が優勢であったとされますが、戦闘前後に内部不和が生じ、ロデリック王を支持しない勢力もあったと伝えられています。
その結果、西ゴート軍は敗北し、ロデリック王は戦闘中に行方不明となり、戦死したと考えられています。
王を失った西ゴート王国は統率力を欠き、イスラム軍の進軍を阻止することが困難になりました。
その後、ウマイヤ朝のアフリカ総督ムーサもイベリア半島に上陸し、各地を占領していきました。
ターリクとムーサの軍は短期間で広範囲を制圧したとされています。
ムーサとターリクにより西ゴート王国は再起不能なほどの打撃を受けますが、これがアストゥリアス王国の誕生のきっかけとなります。
ペラヨの台頭とアストゥリアス王国の建国
グアダレーテ河畔の戦いで西ゴート軍は大きな損害を受け、正規軍の多くを失いました。

西ゴート王国は滅亡しますが、ペラヨがアストゥリアス王国を建国する事になります。
アストゥリアス王国は当然ながらキリスト教国であり、西ゴート王国の復興を大義名分に掲げています。
ウマイヤ朝はアストゥリアス王国に兵を進め、コバドンガの戦いが行われますが、ペラヨの山岳地帯を利用した采配が光り勝利しました。
コバドンガの戦いでウマイヤ朝は敗れますが、アストゥリアス王国は弱小であり、ウマイヤ朝はアストゥリアス地方よりもフランク王国方面への進軍を優先していました。
732年には、ウマイヤ朝とフランク王国の間でトゥール=ポワティエ間の戦いが発生しました。
いずれにせよ、フランク王国側が敗れていれば、ヨーロッパの宗教的・政治的状況が大きく変化した可能性があると指摘されています。
それでも、ウマイヤ朝とフランク王国が戦ってくれた事は、アストゥリアス王国にとっては幸運だったと言えるでしょう。
ペラヨはカンガス・デ・オニスをアストゥリアス王国の首都としました。
ファフィラは熊に襲われた
ペラヨは結婚しており、息子ファフィラと娘エルメシンダが生まれています。
ペラヨは737年に亡くなり、息子のファフィラがアストゥリアス王国を継承しました。
しかし、ファフィラは即位から2年後の739年に熊に襲われて死亡したと伝えられています。
アストゥリアス王国は山岳地帯に位置し、当時は熊が多く生息していたと考えられています。
史料によっては、ファフィラについて「歴史的に特筆すべき事績は少ない」と記述される場合もあります。
ファフィラの突然死により、アストゥリアス王国の王位が空位となり、ペラヨの娘婿であるアルフォンソ1世が後継者となりました。
アルフォンソ1世の宗教政策と領土拡大
アルフォンソ1世は大規模な焦土作戦を多く実行し、街は破壊されましたが、占領地を復興出来ない様にしており、ウマイヤ朝に対して戦果を挙げました。
アルフォンソ1世は占領地に多くの教会を建設した事でも知られています。。
これは、アストゥリアス王国の支配を象徴的に示す意図があったと考えられています。
こうした宗教的事業により、アルフォンソ1世は「カトリック王」と称されるようになりました。
当時のヨーロッパ社会においてキリスト教は強い権威を持っていたため、この称号は高い評価を意味したとされています。
アルフォンソ1世の末年である757年頃には、アストゥリアス王国は北西部の地域を支配していました。
また、この時期にはイベリア半島のイスラム勢力は後ウマイヤ朝へと移行しています。
ウマイヤ朝がアッバース朝に取って代わられた結果、イベリア半島では後ウマイヤ朝が成立しました。
アルフォンソ1世の治世には、領土がドウロ川流域まで広がったとされます。
フルエーラ1世の宗教政策と王位継承問題
アルフォンソ1世の死後、フルエーラ1世がアストゥリアス王国の後継者となりました。
この時期、王位継承をめぐる問題が生じたとされています。
フルエーラ1世は聖職者の結婚を禁じ、すでに妻帯している者には離婚を命じたと伝えられています。
この政策により、聖職者層の一部がフルエーラ1世に反発したと考えられています。
フルエーラ1世には弟ビマラオがいました。
ビマラオは貴族層から一定の支持を得ていたとされ、最終的にフルエーラ1世を殺害したと伝えられています。
しかし、ビマラオは「同罪の罪(王殺しに対する報復)」により処罰され、命を落としたとされています。
ビマラオの死後、アウレリオが王に選ばれました。
アウレリオはアストゥリアス王家の直系からはやや外れる立場にあったとされ、貴族たちの合意により選出された可能性が指摘されています。
アウレリオの治世は約6年間で、774年に病没しました。
アウレリオの死後、アルフォンソ1世の娘アドシンダと結婚していたシロが王位を継ぎました。
シロの死後には、イスラム教徒の女性との間に生まれたとされる婚外子マウレガートが王位に就きました。
アストゥリアス王国では、王族の中から適切な年齢と能力を備えた人物が選ばれる傾向がありました。
このような実力主義的な王位継承が、イスラム勢力との対抗において一定の効果をもたらしたとする見解もあります。
一方で、初代ペラヨの死から約50年の間に7人の王が即位したとされ、王位継承が安定していなかったことも指摘されています。
ベルムード1世とアルフォンソ2世の登場
アストゥリアス王国では、9代目の君主としてベルムード1世が即位しました。
ベルムード1世は「助祭王」と呼ばれています。
当時、王族に複数の子がいる場合、下位の子が修道院に入れられ、聖職者として高い地位に就くことが一般的でした。
ベルムード1世も父フルエーラによって幼少期に修道院へ送られ、助祭となっていました。
マウレガート王の死後、ベルムード1世が王位に就きました。
西ゴート王国の法では「聖職者は王権に近づくことができない」と定められていましたが、
アストゥリアス王国ではこの慣習は必ずしも厳格に適用されず、ベルムード1世が王位に選ばれています。
この時代のアストゥリアス王国は内紛が多く、政治的に安定していなかったとされています。
西ゴート王国の崩壊から約80年が経過しており、旧来の慣習が弱まり、「王にふさわしい人物」が選ばれる傾向が強まっていたと考えられます。
ベルムード1世の在位は約1年間でした。
彼はアルフォンソという人物を宮廷に招いたと伝えられています。
このアルフォンソはアルフォンソ2世であり、街を破壊したアルフォンソ1世とは別人です。
アルフォンソ2世は後にアストゥリアス王国の中でも特に評価の高い君主とされる人物です。
アルフォンソ2世の父フルエーラ1世は、先述の通り聖職者の結婚を禁じた政策により聖職者層の反発を受け、弟ビマラオに殺害されました。
その後、フルエーラ1世の一族は王位から遠ざかっていましたが、ベルムード1世はアルフォンソ2世の能力を高く評価し、宮廷に招いて政務を担当させ、軍事面でも指揮を任せたとされています。
ベルムード1世はブルビア川の戦いでイスラム軍に敗北すると、アルフォンソ2世を後継者に指名し、自身は聖職者としての立場に戻ったと伝えられています。
フランク王国との関係とスペイン辺境領の成立
フランク王女ベルタとの婚姻関係からも分かるように、アルフォンソ2世の時代にはアストゥリアス王国とフランク王国の間に一定の交流が存在していました。
この時期のフランク王国はカール大帝の治世であり、彼は軍事的にも政治的にも高い評価を受けた人物とされています。
797年以降、フランク王国がイベリア半島北東部へ進出したことで、後ウマイヤ朝は北方への軍事行動に注意を向けざるを得なくなりました。
その結果、アストゥリアス王国への攻撃が減少したと考えられています。
後ウマイヤ朝はフランク王国との対立に備える必要があり、アストゥリアス王国に対して積極的に軍事行動を行いにくくなったのでしょう。
フランク王国はキリスト教国家であり、同じキリスト教勢力であるアストゥリアス王国とは協力関係を築くことが可能でした。
一方、後ウマイヤ朝はイスラム教国家であり、フランク王国の宗教観からすれば、同盟関係を結ぶ対象とはなりにくかったと考えられます。
後ウマイヤ朝は比較的寛容な宗教政策を採用していましたが、フランク王国側の宗教的世界観では、イスラム勢力は対抗すべき相手として認識されていました。
後ウマイヤ朝とフランク王国が対立すれば、アストゥリアス王国としては国内整備や領土の再建に時間を割く余裕が生まれます。
実際、801年にはフランク王国がバルセロナを占領しました。
カタルーニャの起源:スペイン辺境領からの発展
この時、西ゴート系貴族がバルセロナ伯に任命され、フランク王国支配下の「スペイン辺境領(Marca Hispánica)」が成立しました。
フランク王国から見れば、イベリア半島北東部は帝国の外縁部に位置する「辺境」となり、このスペイン辺境領が後にカタルーニャ地方へと発展していくことになります。
フランク王国が弱体化すると、スペイン辺境領は徐々に自立性を高めていきました。
987年にフランク王国でカペー朝が成立すると、従来のカロリング家との関係が希薄になり、カタルーニャ伯領は実質的に独立した政治単位として振る舞うようになります。
その後、カタルーニャはアラゴン王国と結びつき、アラゴン=カタルーニャ連合王国(アラゴン連合王国)を形成しました。
この連合王国は地中海世界で大きな影響力を持ち、最終的にはカスティーリャ王国との王家の結婚によって現在のスペイン王国へ統合されていきます。
近年よく耳にする「カタルーニャ独立運動」は、こうした歴史的背景を踏まえて語られることが多いです。
1017年にはカタルーニャ州でスペインからの独立を問う住民投票が行われ、独立賛成票が多数を占めましたが、スペイン政府はこの投票を違憲と判断し、政治的緊張が高まる事態となりました。
(※現代政治に関する情報は、必ず最新の公的情報で確認することが推奨されます。)
歴史的に見ると、カタルーニャはアストゥリアス王国の系譜ではなく、フランク王国の辺境領として成立した地域であるため、イベリア半島内部の王国(アストゥリアス→レオン→カスティーリャ)とは異なる政治的・文化的発展をたどりました。
そのため、カタルーニャがスペイン国家の中で独自性を強調する背景には、中世以来の歴史的経路の違いが影響していると考えられています。
聖ヤコブ伝承とサンティアゴ・デ・コンポステラの起源
アルフォンソ2世の時代である814年、イベリア半島北西部のガリシア地方で「聖ヤコブの墓」が発見されたと伝えられています。
ヤコブ(サンティアゴ)はキリストの十二使徒の一人であり、新約聖書ではガリラヤ湖の漁師として登場します。
中世の伝承によれば、ヤコブはキリストの死後にイベリア半島を訪れ、各地で布教を行ったとされています。
スペイン語で「サンティアゴ」と呼ばれるのは、この伝承に由来します。
なお、日本の島原の乱で一揆勢が「サンティアーゴ」と叫んだという話も伝承として知られています。
また、西暦40年にヤコブがサラゴサで祈っていた際、柱の上に立つ聖母マリアが現れたという伝説があり、これに基づいてサラゴサに「ピラール聖母教会」が建てられました。
“ピラール”とはスペイン語で「柱」を意味します。
この伝説を受け入れると、ヤコブは西暦40年にサラゴサにいたことになりますが、これは信仰的伝承であり、歴史的事実として確認されているわけではありません。
伝承では、ヤコブはその後パレスチナに戻り、ヘロデ・アグリッパ1世の迫害によって44年頃に殉教したとされます。
弟子たちが遺体をイベリア半島へ運び、リブレドン山に埋葬したという物語もありますが、リブレドン山の具体的な位置は史料上では特定されていません。
パイオの発見伝承と巡礼地の誕生
ヤコブの死から約800年後、ガリシア地方にパイオという隠者が現れ、輝く星に導かれて三体の遺骸を発見したという伝承が生まれました。
パイオはこれを「ヤコブと二人の弟子の遺骸」と考え、地元の人々に知らせたとされています。
アルフォンソ2世は遺骸が見つかった場所に小さなサンティアゴ教会を建て、その地を「星の野の聖ヤコブ」を意味する「サンティアゴ・デ・コンポステラ」と名付けました。
この教会は後に大規模に再建され、都市も巡礼地として発展していきます。
10世紀末にはイスラム軍によって一時占領され、教会の鐘が持ち去られたと伝えられていますが、その後再び復興し、最終的には大聖堂が建設されました。
巡礼者の増加に伴い、サンティアゴ・デ・コンポステラの街は中世を通じて発展し、12~13世紀には巡礼が罪の赦しの対象ともなりました。
現在、サンティアゴ・デ・コンポステラの旧市街は世界遺産に登録され、ヨーロッパ有数の巡礼地として知られています。
新ゴート主義の形成とオビエドの整備
アルフォンソ2世の時代、アストゥリアス王国では西ゴート王国の首都トレドを模範とした都市整備が進められ、新たな首都オビエドが建設されました。
この頃から、アストゥリアス王国には「新ゴート主義」と呼ばれる思想が芽生えたとされています。
これはスペインの歴史家ラモン・メネンデス・ピダルが提唱した概念で、 アストゥリアス王国が西ゴート王国の制度・文化・象徴を意識的に模倣し、自らを西ゴート王国の正統な後継国家として位置づけようとした動きを指します。
アルフォンソ2世には後継者がいなかったため、彼は先王ベルムード1世の子であるラミロ1世を後継者に指名しました。
アルフォンソ2世は、自身を王位に就けたベルムード1世への恩義を感じていたと伝えられています。
しかし、ラミロ1世はアルフォンソ2世の直系ではなかったため、王位継承に反発が起こる可能性がありました。
そのため、ラミロ1世は共同王としてガリシア地方を統治し、王位継承を円滑に進める措置が取られたと考えられています。
アルフォンソ2世とラミロ1世は血縁的には離れていましたが、ラミロ1世の父ベルムード1世がアストゥリアス王であったことが、継承の正統性を支える要因となりました。
また、この時期のイベリア半島ではイスラム勢力が強大であり、 外敵の存在が国内の分裂を抑制し、王位継承が比較的円滑に進んだとも考えられます。
ラミロ1世の即位とクラビホ伝承
ラミロ1世は841年にアストゥリアス王となり、844年にはイスラム勢力との間でクラビホの戦いが起こりました。
この戦いは、60年ほど前のマウレガート王の時代に遡る要因があったとする伝承もあります。
伝承によれば、マウレガート王は後ウマイヤ朝の創始者アブド・アッラフマーン1世から支援を受けた際、「毎年100人のキリスト教徒の少女を租税として差し出す」と約束したとされています。
しかし、この話は後世の年代記に登場するもので、歴史的事実として確認できる史料は存在せず、政治的・宗教的文脈の中で形成された伝承である可能性が高いと考えられています。
マウレガートの後継者ベルムード1世は、この条件を金銭の支払いによって撤廃しようとしたと伝えられ、さらにアルフォンソ2世の時代には金銭の支払い自体を停止しようとしたとされています。
その結果、アルフォンソ2世の治世にはルトスで後ウマイヤ朝軍との戦闘が発生し、 アストゥリアス王国軍が勝利したと記録されています。
ラミロ1世が即位すると、イスラム勢力は再び租税の支払いを求めてきたと伝えられています。
これに対しラミロ1世は出陣しましたが、大規模なアラブ軍に包囲され、モンテ・ラトゥルセのクラビホ城へ退避せざるを得なかったとされています。
後世の伝承によれば、包囲されたアストゥリアス軍の前に、夢で見た聖ヤコブが白馬に乗って現れ、戦いを勝利へ導いたと語られています。
この物語は中世以降広く流布し、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の隆盛に影響を与えたとされています。
巡礼文化の拡大
サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ローマ、エルサレムと並ぶ三大巡礼地の一つとなり、巡礼者の増加に伴い、道中のブルゴスやレオンなどの都市が発展しました。
この巡礼路(カミーノ)は、後のレオン王国やカスティーリャ王国の経済発展を後押ししたと考えられています。
また、聖ヤコブはキリスト教世界において「戦いの守護聖者」として象徴化され、イスラム勢力と戦うキリスト教諸国の精神的支柱とされました。
この文脈の中で、「サンティアゴ・マタモーロス(モーロ人=イスラム教徒を倒す聖ヤコブ)」 という表現も生まれたとされています。
これは中世の宗教的・軍事的対立を象徴化した後世のイメージであり、 史実としての戦闘描写というよりは、信仰と政治が結びついた象徴表現と理解されています。
さらに、大航海時代にスペインが新大陸へ進出した際にも、聖ヤコブがコンキスタドールを鼓舞したという伝承が残されています。
聖ヤコブの存在は、十字軍的な精神や異教徒との戦いの象徴として利用されることが多く、中世から近世にかけてのスペインの宗教的・政治的アイデンティティ形成に大きな影響を与えました。
ラミロ1世以降の王位継承
ラミロ1世の治世では、特筆すべき出来事としてクラビホの戦いに関する伝承が広く知られています。
ラミロ1世が850年に亡くなると、オルドーニョ1世が即位し、 その後オルドーニョ1世の死によりアルフォンソ3世が王位を継ぎました。
アルフォンソ3世の治世は44年に及び、アストゥリアス王国の歴代君主の中でも長期にわたる統治を行いました。
彼の時代には領土の拡大や行政の整備が進み、また、王位継承において分割相続が行われたと考えられています。
最終的にアストゥリアス王国の政治的中心はレオンへ移り、王国名もレオン王国へと変化していきました。
アルフォンソ3世はこの移行期に深く関わった人物とされています。
この頃、ピレネー山脈の東側ではナバラ王国がすでに成立しており、ここから勢力を拡大していきます。
また、フランク王国支配下のスペイン辺境領(後のカタルーニャ)も独自の発展を遂げていました。
イベリア半島の中世史を大きく見ると、アストゥリアス(→レオン→カスティーリャ)、ナバラ、アラゴン=カタルーニャ(スペイン辺境領の後継)という三つの政治勢力が発展し、後に婚姻関係や同盟を通じて統合され、現在のスペイン王国の形成へとつながっていきます。
アストゥリアス王国の歴代君主
・ペラヨ
・ファフィラ
・フルエーラ1世
・アウレリオ
・シロ
・マウレガート
・ベルムード1世
・ネポシアーノ
・ラミロ1世
・オルドーニョ1世
・アルフォンソ3世
・フルエーラ2世
アストゥリアス王国の動画
アストゥリアス王国のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画の参考文献はYouTubeの概要欄をみてください。