古代日本 古墳時代

髪長姫は日向出身の女性で仁徳天皇の妻となる

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宮下悠史

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名前髪長姫(かみながひめ)
登場古事記、日本書記
コメント仁徳天皇の妻になる

髪長姫は古事記や日本書紀に登場する女性です。

応神天皇は日向の髪長姫が美人だと聞き朝廷に召す事になります。

しかし、大鷦鷯尊(仁徳天皇)が髪長姫を気に入った事で、応神天皇は大鷦鷯尊の妻としました。

尚、応神天皇と仁徳天皇には同一人物説が存在しており、髪長姫を娶ろうとしたのが応神天皇であり、娶ったのが仁徳天皇だからです。

応神天皇と仁徳天皇の同一人物説については、応神天皇の記事で掲載しました。

『日本書紀』と『古事記』が描く応神天皇の譲国説話

​古代の記述において、第15代・応神天皇から第16代・仁徳天皇(大鷦鷯尊)への皇位継承の過渡期には、単なる親子のロマンスの枠を超えた、
王権の安定と地方豪族との政治的アライアンスを象徴する重要な説話が残されています。

それが、日向(現在の宮崎県)の有力豪族から貢がれた「髪長姫(かみながひめ)」を巡る親子の譲国のドラマ、そして播磨の加古の湊(現在の兵庫県加古川市)で執り行われた「鹿の皮を被った集団」による宮廷祭祀です。

​髪長姫の来朝と大鷦鷯尊(仁徳天皇)への「譲国の歌」

​『日本書紀』および『古事記』によると、応神天皇武内宿禰からの報せにより、日向の有力豪族である諸県君牛(もろがたのきみうし)の娘・髪長姫が類稀なる美女であることを知り、彼女を大和の朝廷へと召し出しました。

​しかし、姫が大和へ到着した際、天皇は息子の皇太子である大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:後の仁徳天皇)が、事前に髪長姫の美しさに深く心を奪われていることを察知します。

ここで応神天皇は、自らの妃として迎えるはずだった髪長姫を、盛大な饗宴の席にて「美しく壮大な歌(記紀歌謡)」を詠むことで、息子の妻として譲り渡しました。

​古代の王権において、最高権力者である天皇が「自らの求婚を引いて次世代の皇太子にその婚姻関係を譲る」という行為は、単なる「応神天皇が優しかった」という美談ではなく、「次世代への平和的な政権移譲(代替わり)と、地方豪族との同盟の確実な引き継ぎ」を天下に証明するための極めて高度な政治的パフォーマンスでした。

加古の湊における「鹿の皮を被った集団」と部族祭祀の宗教的機能

​一方、『日本書紀』には髪長姫の来朝を巡るもう一つの重要な「別説」が記録されています。

高齢のために宮仕えを退くことになった日向の諸県君牛は、王権への変わらぬ忠誠の証として娘の髪長姫を朝廷へと奉ることとし、
姫を乗せた船は播磨の加古の湊(かこのみなと)へと入りました。

​この時、淡路島で狩猟を行っていた応神天皇は、海を渡って加古の湊へと向かう「十数頭の鹿の群れ」を目撃します。

不審に思った天皇が使者を送って詳しく調査させたところ、それは本物の鹿ではなく、「鹿の角がついた皮を全身に被った、諸県君牛の一族の人間たち」だったのです。

​現代の表面的な視点から見れば、これを「かぶりものによる奇妙なパフォーマンス」のように捉えてしまうかもしれません。

しかし、古代の宗教的・政治的な文脈において、この「鹿の擬装」は極めて神聖な「狩猟部族の臣従儀礼(宮廷祭祀)」でした。

南九州において強大な勢力を誇った諸県氏は、自らの部族の象徴であり霊力の源でもある「鹿」の姿となり、王権の長である天皇を歓待することで、
「我が一族の持つ狩猟の呪術的な霊力、および日向の土地の支配権を、すべて天皇の王権へと奉げ、完全な服属を誓います」という絶対的な信頼性を証明する、
という役割を果たしていたと考えられています。

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