スパルタ教育は、現代でも残っている言葉でもあります。
語源となったスパルタでは非常に厳しい教育が行われていた現実があります。
さらに、条件付きで盗みが許されていたり現代では考えられない様な事がスパルタでは行われていました。
因みに、ギリシアのもう一つの有力ポリスであるアテネが文化や芸術、哲学を重んじたのを考えると、同じギリシアでも全く別の思想があった事に気が付くはずです。
スパルタ教育は伝説的な人物であるリュクルゴスが制定したともされていますが、どの様な教育だったのかを解説します。
本家のスパルタ教育で言えば、日本のスパルタ教育などは生易しいと感じるのではないかと思います。
尚、リュクルゴスに関してはオーパーツの一つでもあるリュクルゴスの聖杯でも有名です。
因みに、スパルタを見る限りでは、スパルタ教育の末路は滅亡とも言えるでしょう。
スパルタ教育が行われた理由
スパルタ教育が行われた理由ですが、スパルタの社会の仕組みに原因があったようです。
スパルタでは参政権を持つスパルタ市民の他にも、ヘイロータイと呼ばれる奴隷やペリオイコイと呼ばれる半自由民がいました。
ヘイロータイとペリオイコイの数がスパルタの九割を占めていて、スパルタ市民は一割未満でした。
スパルタ市民が一割しかいないとなると、ヘイロータイとペリオイコイの反乱は非常に脅威となります。
ヘイロータイやペリオイコイを抑え込むためには、スパルタ市民が強くならなければならないとリュクルゴスなる人物が考案したのがスパルタ教育となるようです。
スパルタ教育の内容で言えば、過酷過ぎると言えるでしょう。
ここまで過激な事をやっていれば、スパルタ教育として現代に名を残すレベルだなと考えています。
スパルタは支配階級として君臨する為に、支配階級以外の人々の武器を奪ったり強力な武器を開発するのではなく、筋肉と精神力に解決を求めたわけです。
スパルタ教育とは
スパルタで行われていた教育方法を解説します。尚、スパルタでは育ての親は母親ではなく国家とも言われていたそうです。
生まれた時に選別される
スパルタでは子供が生まれた時に、長老達によりチェックされる事になります。
この赤ちゃんは健康に育つのか?とか、病気にはならないか?軍人となって足を引っ張らないか?などを調べられたそうです。
選別に落ちてしまった赤ちゃんは、アポタテイと呼ばれる穴に入れられて餓死するまで放置されたとか、谷から投げ捨てられたとも言われています。
生まれたばかりの子供の半数が、長老たちのチェックにより命を落としたともされています。
スパルタ市民は、生まれた時から戦士になる事を決められているわけです。
母親と暮らせるのは7歳まで
スパルタでは子供が母親と暮らせるのは7歳までだと決められていました。
7歳になると子供は軍隊に入る事になります。
軍隊では男だけの集団生活を送る事になるわけです。
尚、スパルタでは集団生活が結束力を高め「スパルタのファランクスは、一隊が1匹の生き物のようだ」とも揶揄され、非常に優れた軍隊だと指摘されています。
ただし、集団生活の中では厳しい部分もあったわけです。
暴力が認められていた!?
スパルタでは暴力やいじめが認められていたようです。
現代では、いじめはやってはいけない事ですし、私もいじめや暴力は絶対に反対です。
しかし、スパルタではいじめや暴力が肯定されていたともされています。
さらに言えば、推奨されていた資料もあります。
如何なる不条理にも、くじけない強靭な精神を養う為の修業とも考えられていたようです。
スパルタは軍事第一主義を取っているわけであり、命令に対して即座に従わせたり上下関係を作るために必要な部分でもあると考えたのでしょう。
現代ではモラルを問われ考えられない様な事もスパルタ教育には入っている事になります。
教師も大変だった
スパルタでは、もちろん教育を施す教師もいました。
教師は常に鞭を持ち非常に厳しい態度で教え子に臨んだようです。
教師であれば、ただ単に威張っていればよい!という風に考える人もいるかも知れません。
しかし、教師は教え子たちに、余りにも理不尽な事をしたら上官に罰せられる事になります。
大人にも子供にも厳しいのがスパルタ教育だったわけです。
成人の儀式
スパルタでは13歳になると成人の儀式が行われる様になります。
13歳になった子供は、短剣1本だけを渡されて街を追放される事になります。
食料も服も全て没収された上での追放です。
街を追放されたスパルタの13歳の少年は、ヘイロータイ(奴隷)などから食料や服を奪う事で生活される事を余儀なくされます。
生活必需品は全て自分で用意しなければなりません。
この生活を1年間耐える事が出来ると一人前の成人として認められる事になります。
スパルタ教育では、スパルタ市民の過酷さばかり強調される事が多いのですが、13歳の子供に襲撃されるヘイロータイの方々も、非常に苦しんだはずです。
盗みが認められていた
現代の日本では盗みは大罪となります。
万引きをしたら犯罪ですし、家に忍び込んで泥棒するのは、絶対にやってはいけません。
しかし、スパルタでは盗みが認めれていました。
ただし、盗みが見つかってしまうと処罰される事になります。
軍隊で敵に油断してはいけない様に、いつも油断してはいけない!という戒めだったのかも知れません。
盗みはしてもよいが見つかってはいけないというのは、現代人からすれば奇妙とも取れるはずです。
口頭質問があった
スパルタでは、口頭質問があったとされています。
軍の施設で上官から「最強の男は誰か?」や「あいつはどう思うか?」を聞かれたようです。
ここで上手く答える事が出来ないのと、教官に鞭で叩かれたりします。
記録によっては、教官に親指を噛みつかれた話もあるほどです。
質問に答えられなければ、噛みつかれるとか異常ともいえる教育を施していたのがスパルタです。
学問は敵だった
スパルタでは、強さ以外の事を学んではいけない事になっていました。
世の中の仕組みや数学、哲学などは贅沢なものとして教えてはいけない事になっていたわけです。
同じギリシアのポリスであるアテネで「ソフィスト」と呼ばれる弁論術を教える人々が流行った事を考えると、スパルタの文化は大きく異なります。
アテネでソクラテスや弟子のプラトン、万学の祖と呼ばれたアリストテレス(アレキサンダー大王の家庭教師でもあった)が活躍したのとは対照的です。
アテネの人々が音楽や芸術を愛したのと反して、スパルタでは勉学などは否定されていました。
同じギリシアのポリスでもアテネとスパルタでは気質が大きく違います。
ただし、文字の読み書きや計算などは、戦争で必要だと判断された場合のみ、教えられたそうです。
学問や芸術は人間を堕落させて軟弱になるとスパルタでは考えられていました。
余談ですが、ペロポネソス戦争でアテネとスパルタは戦いますが、この時にアテネからスパルタに亡命したアルキビアデスはソクラテスの弟子です。
アルキビアデスがアテネの情報をスパルタに漏らした事で、スパルタはペロポネソス戦争で勝利する事になります。
スパルタほど鍛えても、相手からの情報が無ければ戦いに勝つ事は難しかった事実も窺えます。
因みに、アルキビアデスもスパルタに亡命した時は髪を短く切りスパルタ市民と同じような格好をして人気を得たとされています。
ただし、アルキビアデスは素行はよくなかった様でスパルタ王妃と密通する事件もありました。
クリュプティアは悲惨だった
スパルタではクリュプティアと呼ばれる訓練があったようです。
クリュプティアは主に少年が行う訓練であり、短剣を渡されてヘイロータイを狩りに行きます。
クリュプティアでは、スパルタの少年は短剣と食料を与えられて、夜になるとヘイロータイを待ち伏せしたりして襲撃したとされているわけです。
クリュプティアでは少年には戦いに慣れさせる事やヘイロータイに自分の身分を分からせる為に行ったとされています。
スパルタの少年に襲撃されるヘイロータイですが、別に怠けているわけではなく普通に働いている人もターゲットにされるのが当たり前でした。
今となっては、とんでもない様な教育を行われていたのがスパルタだったわけです。
スパルタの食事は非常に不味かった
スパルタの食事は極めて不味かったという話しがあります。
スパルタでは美食は、人間を軟弱にさせると考えていた様で、非常に不味い飯を食べていたようです。
さらに、人間は食べ過ぎれば太ってしまう為に、最低限の食事しか与えられる事はありませんでした。
戦争に行けばまともな料理は食べれないわけであり、戦いを第一に考えるスパルタでは、食事が不味くて当然だったのかも知れません。
余談ですが、料理が美味しい国は戦争に弱いとする説があります。
それを考えると、スパルタの食事が不味いのは一理あるのかも知れません。
尚、スパルタの飯の不味さや軍隊の厳しさを見た人が「スパルタ兵が死を恐れない理由がよくわかった」と言った言葉も残っています。
それだけ過酷で食事が不味く理不尽な生活を強いられたのがスパルタ市民だったのでしょう。
スパルタの食事の不味さもスパルタ教育の一環だと考えるべきです。
スパルタは戦いに勝ったり負けたりだった??
これだけ厳しいスパルタの教育を実施すれば、戦いになれば全て勝てると思うかも知れません。
スパルタの軍隊が連戦連勝だった事言えばそうでもなかった様です。
スパルタと言えば、レオニダス王が300の兵で20万の軍と戦ったテルモピュライの戦いなどが協調されがちです。
最強の陸軍を持っていたなどの話もありますが、海戦ではアテネの方が優れた技術を持っていました。
さらに、スパルタは連戦連勝と言ったわけでもなく敗れた記録もちゃんとあるわけです。
尚、ギリシアの覇権を巡ったペロポネソス戦争も、最終的に勝利した原因はアテネ内部の不和によるアルキビアデスの裏切りが大きいでしょう
スパルタの衰退の原因となったレウクトラの戦いでも、戦力的には有利だったはずなのに、エパメイノンダスの 斜線陣により敗れています。
アテネと協力したペルシア戦争においても、勝利の立役者はアテネ軍がペルシア海軍を破ったサラミスの海戦とも言えるでしょう。
スパルタ教育の末路は、どこにも負けない最強の軍隊ではなかった様です。
ただし、同じ戦術で正面からぶつかり合うのであれば、身体能力に優れるスパルタは無敵だった可能性も高いです。
スパルタは女性にも厳しかった
スパルタは女性にも厳しい生活を余儀なくされていました。
男性だけではなく、スパルタ市民は女性にも厳しかったわけです。
スパルタでは男性の役割は戦争、女性の役割は丈夫な子供を作る事にありました。
スパルタでは健康な子供は、強靭な女性の肉体から生まれると信じられていたわけです。
このため、女性であってもレスリングをしたり男性的な生活をしていた記録があります。
スパルタ市民は男性だけではなく女性も強さを求められて、市民全体が強くあるべきだと考えられていました。
尚、女性の中で出産により亡くなってしまった場合は、名誉の死だと賞賛された様です。
スパルタの結婚
スパルタの結婚ですが、15歳になった女性一人に3人の男性が嫁ぐのが普通でした。
3人兄弟に一人の女性が嫁ぐなども普通にあったようです。
イスラム系の国は一夫多妻制が認められていますが、スパルタでは一妻多夫が主流だったわけです。
男性は戦いが役目な為に、戦死してしまったりする事が多くありました。
そうした場合に、女性は未亡人にならない為に、3人の夫を与えられています。
尚、スパルタでは30歳になるまでは、男だけの集団生活を送るわけであり、15歳の女性に充てられる3人の男性は全て30歳以上の男性となります。
スパルタでは年の差婚が当たり前だったようです。
老衰は恥
スパルタの考えで老衰は恥とする考えがあったようです。
スパルタで賞賛される死に方は戦死でした。
その為、老衰などの年老いて亡くなるなどは論外だと考えられていた様です
年老いて亡くなった者には、墓すら建てて貰えなかった話もあります。
因みに、スパルタでは軍隊の定年制があり60歳で定年する事になっていました。
スパルタでは60歳になるまでは戦いに身を置かなければいけない日々が続いたのでしょう。
まさに戦いの為に生まれた戦闘民族の様な集団がスパルタだったわけです。
ただし、スパルタの政治の最高機関は、二人の王も含めた長老会であり、軍を定年した60歳以上の人物でないと入れない決まりがあります。
それを考えると、60歳を超えた老人が全くの役立たずだとされたわけでもないのでしょう。
尚、長老会のメンバーは終身制だったとされています。