
張皇后は前漢の恵帝の皇后になった人物です。
母親は魯元公主であり、父親は張敖で兄弟には張偃がおり、祖母は呂后です。
張皇后は叔父の恵帝に嫁ぎますが、前漢の皇室に呂氏以外の外戚を入れたくないと考えた呂后の思惑もあったのでしょう。
恵帝と張皇后の間に子が出来ず、身籠った振りをし、後宮の他の女性の子の劉恭を我が子とするなど、系譜を造り変えたりもしました。
最終的に呂氏が滅びる中でも、張皇后は北宮で幽閉されるだけで済んでおり、最後は恵帝の陵墓がある安陵に葬られています。
尚、張皇后の名前は記録されておらず不明であり、ここでは全て張皇后の名で記載しました。
恵帝の妻となる
張皇后は魯元公主と張敖の間に出来た娘です。
しかし、前漢の恵帝の妻となりました。
張皇后の母親の魯元公主の弟が恵帝であり、叔父と結婚した事になります。
古代エジプトでは兄弟で結婚したり近親婚も盛んでしたが、古代中国では叔父と結婚するのは、非常に珍しい事例です。
何故、張皇后が叔父の恵帝と結婚したのかですが、呂后の意向が強く働き、他の外戚を入れたくなかったのでしょう。
恵帝が他姓の女性と結婚し、子供が出来た場合ですが、恵帝が崩御した場合に、他姓の妻が外戚として権力を握る可能性が高かったわけです。
しかし、張皇后は呂后の孫でもあり、恵帝と張皇后が結婚すれば、呂氏がそのまま権力を握ることが可能でした。
こうした事情から張皇后は叔父の恵帝に嫁いだのでしょう。
子が出来ず
恵帝が姉の子である張皇后をどの様な目で見ていたのかは記録がなく分かっていません。
しかし、張皇后と恵帝の間で、子供が出来なかった事だけは間違いなさそうです。
先に述べた様に、古代中国では近親の者と結婚するケースは少なく、恵帝の方でも張皇后との間に、子を作ろうとは思わなかったのではないでしょうか。
呂后の方では何とか恵帝と張皇后の間に、子が出来る事を願った様ではありますが、最後まで子が出来なかったわけです。
張皇后と劉恭
紀元前188年に恵帝が崩御すると、劉恭が皇帝として即位しました。
この時の話が史記に書かれており、張皇后は妊娠した振りをし、後宮の美人の子を引き取り自分の子としたとあります。
さらに、引き取った子の母親を殺害しました。
張皇后が引き取った子こそが劉恭です。
史記の話が正しければ、劉恭は張皇后の子ではないのでしょう。
張皇后は呂氏の権力を盤石にする為に、身籠った振りをし劉恭を引き取ったとみるべきです。
劉恭が皇帝となりますが、名目上は母親となっている張皇后は政治を行っておらず、祖母の呂后がそのまま政治を行いました。
尚、呂后が政治を行った時代に兄弟の張偃が、魯王に封じられています。
張皇后の最期
呂后が亡くなると、陳平や周勃が立ち上がり、外からは斉の劉襄が挙兵するなど呂氏に反旗を翻しました。
ここで呂氏の多くは討たれ、皇帝の劉弘も命を落とし、壊滅状態となっています。
前漢の大臣達は文帝を皇帝に擁立しました。
漢書の外戚伝によると、張皇后は皇后の座は剥奪されますが、北宮に幽閉され生き残っています。
ただし、文帝後元年(紀元前163年)に亡くなったとあります。
張皇后は夫の恵帝が眠る安陵に葬られ、新たに陵墓は作られなかったとあります。
張皇后は脅威として映らなかったのか、諸呂の乱が終わった後も幽閉はされましたが、生き残りました。