
| 名前 | パルミラ王国 |
| 首都 | パルミラ |
| コメント | 交易都市として発展 |
パルミラ王国は隊商都市として発展し、既に紀元前2300年頃には人が住んでいた痕跡も見つかっています。
アムル人、アラム人、ヘブライ人と民族支配が変わっていき、最終的にはアラブ系の民族が多数をしめました。
同じく隊商都市であるナバテア王国が衰退した頃に、パルミラは大発展する事になります。
後にはローマ帝国の属州となりますが、ササン朝ペルシアとの戦いでオデナトゥスの活躍があり、勢力を強める事になります。
ゼノビアが摂政を務めた時代になると、エジプトを含む東地中海の沿岸にまで勢力を広め、この頃にはパルミラ帝国とも呼ばれる様になりました。
しかし、ローマ帝国とは統治能力の差があったのか、ゼノビアは敗れ去り短期間でパルミラ帝国は崩壊しました。
パルミア帝国は270年にローマ帝国から独立し、273年には滅亡し僅か3年で滅びた事になります。
パルミラとは
パルミラはメソポタミアの楔形文字では「タドモル」と呼ばれていました。
ただし、タドモルの元の意味は何だったのかは不明です。
ローマの属国の一つとなり、パルミラと呼ばれる様になります。
ギリシア語でパルミアは「椰子の街」とする意味だとされています。
実際にパルミアには数十種類ものヤシの木が生えていた様です。
ナバテア人のペトラが衰退すると、パルミラは栄える様になりました。
パルミラの住民は、アラブ系となっています。
シルクロードの通過点でもあり、メソポタミア→シリア砂漠→パルミラ→地中海沿岸地域となり、ローマやイスタンブールに様々な品物が届けられました。
パルミラの発展
パルミラはメソポタミアと地中海の、最短距離の隊商都市として発展しました。
シリア砂漠のほぼ中央にありますが、立地条件に恵まれたと言えるでしょう。
パルミラの東南では乾燥しており、降雨量よりも蒸発する量が多く地下に眠っている無機塩が、毛細現象で水分と共に地表に運ばれてくるわけです。
太陽熱を利用するだけで、簡単に塩を摂取できると言えるでしょう。
さらに、パルミラの南方には大理石の採掘場があり、西方には草があり馬や駱駝の放牧に使う事が出来ます。
パルミラの付近には温泉もあり、暮らしやすい部分もあったのでしょう。
オアシスも散在しており、限定的ではありますが、農業を行う事も可能です。
これらの要素がパルミラ発展の礎になったとみる事が出来ます。
タドモル時代
アムル人とアラム人の支配
パルミラ(タドモル)では紀元前2300年頃には、人が住んでいた形跡がある事が分かっています。
メソポタミア文明のアッカド帝国が興隆する時期に、パルミラには人が住んでいたのでしょう。
パルミラの北東にビシュリ山があり、ここがアムル人の原郷だと考えられています。
紀元前2000年頃には、パルミラはアムル人の拠点にもなっていました。
紀元前19世紀のアッシリアの契約書には、二人のタドモル出身の立会人の名前があります。
パルミアから来た人々が立会人となったのでしょう。
キュルテベ文書やマリ文書にも「タドモル」の名は登場しています。
マリの粘土板には、パルミラが交易の中心地だったとも記録されている状態です。
メソポタミアにはマリ王国がありましたが、マリの人々はオアシスを辿ってシリア砂漠を進み、タドモルを経由しシリアの農耕地帯に入ったと考えられています。
海の民による紀元前1200年のカタストロフが終わると、アラム人の動きが活発になりました。
アラム人はアッシリアと争いますが、アッシリアのティグラト・ピレセル1世の碑文には、次の様に記録されています。
私はアフラムの人々やアラム人と戦い、(中略)私はアラムの国にあるタドモルから彼らを敗走せしめた。
上記の記述からタドモル(パルミア)が、アラム人の都市になっている事が分かるはずです。
尚、パルミラ文字の元になっているのが、アラム文字となります。
パルミラとソロモン王国
紀元前950年頃にパルミラにヘブライ人が入って来たと考えられています。
ヘブライ王国のソロモン王はパルミラを支配下におさめました。
旧約聖書にはソロモン王が「荒れ野のタドモルを築き上げた」とする記録が残っています。
しかし、後にパルミラはアッシリアに併合されたとも考えられている状態です。
アッシリア滅亡後にメディア王国、リディア王国、新バビロニア王国、エジプト文明の勢力の時代となりますが、パルミラは交易都市として存続しました。
後には、アケメネス朝ペルシアが大帝国を築く事になります。
アレクサンドロス大王の大遠征があり、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝が誕生し、パルミラもヘレニズムの時代に突入しました。
東西を繋ぐ都市
パルミラ王国は西のローマ帝国と東のパルティアの緩衝地帯としての役割も果たす事になります。
パルティア滅亡後はササン朝ペルシアが東の大国となりました。
パルティアはアケメネス朝ペルシアの後に、イランからイラクに掛けてを支配した大国であり、アルサケス朝パルティア(安息)とも呼ばれています。
ローマ帝国がメソポタミアを超えて東に勢力を拡大しようとしても、大国のパルティアがあり難しかった話もあります。
パルミラは緩衝地帯にもなっており、ローマでは絹、香料、真珠、めのう等の贅沢品を輸入したいと考えており、パルティアでは良質な銀貨やガラス製品、陶器を必要としました。
パルミラでは東西の隊商による取引が行われる事になります。
ただし、パルミラ人が隊商として出向く事もありました。
パルミラでは商人から税を徴収したりもしますが、水や食料、宿を提供し潤ったわけです。
東西を繋ぐ都市になっていたと言えるでしょう。
ペルシア商人やローマ商人など様々な人々との中継貿易も行いました。
パルミア人の砂漠横断貿易
砂漠の横断はとても危険でした。
アルサケス朝パルティアとローマ帝国の対立もあれば、アルサケス朝パルティアの内乱もあり、政情が安定しない事も多かったわけです。
他にも、砂漠を横断しようとすれば、遊牧民が襲い掛かってくる事もあり、危険を伴うものでした。
しかし、砂漠横断の隊商貿易はパルミラ人の独壇場だったと考えられています。
パルミア人はパルミラを出て、メソポタミアに行き、ペルシア湾岸を通り、インドのクシャーナ朝、中国の後漢などに物資を運ぶ事になります。
西方の珍奇なものを東方に運ぶ事もあったようです。
ヘレニズム時代のパルミラ
繰り返しますがアレクサンドロス大王の東方遠征があり、ヘレニズムの時代になりますが、この頃になるとパルミアの中で人口の多数をしめていたのが、アラブ系でした。
紀元前1世紀にパルミラはヘレニズム都市として発展する事になります。
同じく隊商都市のナバテア王国が衰えると、パルミラの重要性が増す事になります。
西暦32年にベル神の神殿も建設されました。
ナバテア王国は西暦106年にローマに併合されています。
西暦137年にパルミラ関税法が制定されました。
これにより全ての商品に課税される事が決まったわけです。
パルミア関税法に関しては、碑文が現存しています。
パルミラの繁栄
パルミラは立地条件のよさから繁栄する様になり、1世紀から3世紀頃には人口が15万人に達したと言います。
中国の前漢の歴史書である漢書の記述の他のオアシス国家を見ると、次の様になっています。
| 名前 | 人口 |
| 楼蘭国 | 17012人 |
| 亀玆国 | 102393人 |
| 大宛国 | 360000人(70余り街) |
プリニウスの博物誌によると、紀元前50年頃のメソポタミアのギリシア人の都市であるセレウキアの人口が、600000人だと記録されています。
これらを考えると、当時のパルミラの人口は、それなりに多く栄えていた事が分かるはずです。
大プリニウスは、自然誌の中で次の様に述べています。
※失われた古代都市: 歴史に刻まれた記憶より引用
パルミュラは美しい景色、肥えた土壌、豊かな清水で名高い。
ぐるりと砂漠に囲まれており、自然そのものによって外界から隔絶されている。
ローマとパルティアという両帝国の中間に位置しているため、ある程度の独立を確保できている。
国際的な緊張が高まると、どちらの帝国もこの都市に注目せざるをえなくなるからだ。
パルミラがどの様な都市で、ローマ帝国とパルティアに挟まれた緩衝地帯になっている事も分かる言葉となっています。
パルミラでは土着文化の影響も強く残り、商業ではラテン語ではなくギリシア語が使われますが、住民たちはアラム語を独自の方言で使っていました。
パルミア人の海外の活動
エジプトのコプトス出土のギリシア語碑文(216年)には、同地に駐留していたパルミア弓騎兵が太陽神ヤルヒポールに奉納した碑文が残っています。
因みに、ヤルヒポールはパルミラで信仰されていた太陽神です。
これを考えると、コプトスには兵士だけではなく、商人も来ていたのではないかと考える事が出来るはずです。
他にも、ブルタニア、ダキア、ヌミディアにもパルミア人の存在を示す碑文が見つかっています。
パルミア商人の中心地はシリア砂漠でしたが、海外に行く事もあったのでしょう。
パルミラの大功
紀元前64年にパルミラはローマの支配下に入りました。
正確には、この頃からパルミラと呼ばれる様になります。
後に市議会議員のセプティミウス・ハイランは元老院議員に迎えられ、子のオデナトゥス(オダイナト)も執政官並みの好待遇を得る事になりました。
西暦260年にローマ帝国とササン朝ペルシアの間で、エデッサの戦いが勃発する事になります。
エデッサの戦いではササン朝ペルシアのシャープール1世が大勝し、ローマ皇帝のウァレリアヌスが捕虜となる事態になりました。
ササン朝ペルシアの軍は凱旋しますが、この軍をパルミアのオデナトゥスは急襲し、敗走に追い込んでいます。
これに歓喜したのがローマ帝国のガリエヌス帝であり、オデナトゥスに数々の称号と数多くの都市の支配を任せています。
ただし、267年頃にオデナトゥス王は暗殺されました。
ここでオデナトゥス王の妻のゼノビアが対処し、息子のウァバッラトゥスが後継者となりました。
ゼノビアが摂政として実権を握る事になります。
パルミラ王国の勢力拡大
ローマ帝国のガリエヌス帝はヘラクリアヌスを派遣し、ペルシア遠征を行わせようとしますが、ゼノビアはパルミラ軍を出撃させローマ軍を撃ちました。
ここにおいて、ゼノビアは反ローマの姿勢を見せる事になります。
当時のローマは北方のゲルマン民族に圧迫されており、政治が乱れていました。
これを好機と見たゼノビアは勢力拡大を図り、269年にパルミラ王国はエジプト及びアナトリア中央部にまで勢力を拡大させています。
ローマのザプターが大軍を率いてパルミラと戦いますが、ティマゲネスの裏切りもあり、パルミラ王国に敗れました。
エジプトは穀倉地帯というだけではなく、交易の重要拠点であり、パルミラ王国の抑えられてしまったのは、ローマにとっては驚異に感じた事でしょう。
ただし、271年頃までには、ローマ帝国と協調関係となりました。
ローマ皇帝のアウレリアヌスと、パルミラ王国のウァバッラトゥスの貨幣が鋳造されています。
ただし、ウァバッラトゥスは名目上の王であり、ゼノビアが協定を締結させたのでしょう。
アレクサンドリアで鋳造した貨幣を見るとウァバッラトゥスに「カエサル」の文字が使われており、ローマからの独立を宣言した事になります。
271年8月の碑文を見ると、ゼノビアが女王になっており、最高権力者になっていました。
エメサの戦い
西暦272年にローマ帝国のアウレリアヌス帝は新征を行い、パルミラ軍を破りシリアに向かう事になります。
ゼノビアはアンティオキアに進軍していましたが、7万の重装騎兵と共に、エメサの戦いに挑む事になります。
エメサは現在のホムスです。
エメサの戦いでは、パルミラ軍が大敗北を喫しました。
運命のエメサの戦いで、天はパルミラに味方しなかったと言えるでしょう。
パルミラ籠城戦
パルミラはローマ帝国の軍に包囲される事になります。
パルミラ攻囲戦ではエジプトはローマに味方しましたが、パルミラ軍は奮戦する事になります。
長期の籠城に耐えれるだけの食料や物資を有しており、ローマ帝国の軍は苦戦しました。
さらに、パルミラは砂漠に囲まれた地点であり、兵站はアンティオキアが担当しますが、補給が伸びすぎていたわけです。
こうした中でアウレリアヌス帝は、降伏勧告の手紙を送る事になります。
ゼノビアは返書の中でクレオパトラ7世を例に出し、ササン朝ペルシアやアルメニア人の援軍が来ると主張し、降伏勧告を拒絶しました。
しかし、戦況は劣勢であり、ゼノビアは夜陰に紛れて駱駝で脱出し、ササン朝ペルシアのシャープール1世の救援を求めようとしたと伝わっています。
ただし、この時のシャープール1世は既に死の間際だったようです。
ゼノビアは捕虜となり、パルミラは降服しました。
パルミラの滅亡
アウレリアヌス帝はパルミラで大規模な破壊をする事もなく、ローマ人司令官と弓兵部隊だけを残し撤退に移りました。
この時には、既に273年になっていましたが、タウルス山脈を越えるところで、パルミラが反乱を起こしたとする報告を受ける事になります。
これを聞いたアウレリアヌスは直ぐに戻り、ベル神殿を除きパルミラを徹底的に破壊しました。
この破壊により人口は十分の一になってしまったとも伝わっています。
西暦273年こそがパルミラ王国の滅亡と言ってもよいでしょう。
さらに、パルミラに味方した都市を許さず、厳しい判断を下す事になります。
パルミラは東西交易の中継都市として残りましたが、過去のような繁栄が訪れる事は二度となかったわけです。
尚、ゼノビアはパルミラ王国が滅亡しても生き続け、ローマの貴婦人として生き続け、穏やかに暮らしたともされています。
パルミラ帝国は何故滅んだのか
パルミラ帝国はローマ帝国に滅ぼされましたが、勿論、敗因があったはずです。
ローマ帝国はポエニ戦争でカルタゴからシチリアを割譲させ領有したのが、初の属州でした。
ここから長い年月を経て、海外の領土である属州を支配する為のノウハウが積み上がっていたと考えられています。
他民族・多国籍の人々を纏めるノウハウがあったのでしょう。
これに対して、パルミラは都市としては交易で栄えていましたが、国外の領土を支配するノウハウが不足していたとみる事が出来ます。
他にも、パルミラは交易都市として栄えたのであり、西のローマ帝国や東のパルティアやササン朝との交易を通じて利益をあげました。
しかし、戦争になってしまえば、交易の利益も減ってしまい、国は行き詰まりを見せたとも考えられています。
ゼノビヤは才女ではあったのかも知れませんが、ローマ帝国の長く積み上げた数百年の歴史に、敗れたのではないでしょうか。
パルミラのその後
遺跡の痕跡からパルミラは、その後はローマ帝国の軍事基地になったと考えられています。
パルミラには守備隊が駐屯し、守備隊への経済支援が経済を潤わしました。
後にローマ皇帝のディオクレティアヌスがパルミラを復興させようとしますが、成し遂げる事は出来ませんでした。
ビザンツ帝国の時代になると、地域の行政の中心地に過ぎなくなっていた様です。
イスラムのウマイヤ朝の時代になると、ある程度の再興を果たしています。
後にパルミラ王国はマムルーク朝の傘下となりますが、1400年代にティムールがパルミラに侵攻し住民が虐殺されました。
オスマン帝国の時代になると、パルミラは廃墟となっていました。
インド洋航路の開発により、隊商路がなくなってしまったわけです。
17世紀に2人の英国商人が廃墟となっていたパルミラを発見しました。
この時に、数十人の遊牧民が神殿の中庭に住んでいただけだったと言います。