召平(しょうへい)は、史記に3度名前が登場します
最初の召平は項梁を『偽りの楚の上柱国』に任命した人物です。
二番目に登場する召平は、蕭何に忠告した人物となります。
三度目に登場した召平は、魏勃の策略により、命を落とす事になりました。
最初と二番目の召平は別人だと史記で確認が取れますが、3番目の召平は別人なのか、どちらかの召平と同一人物なのかはっきりとしません。
今回は史記に登場する召平を解説します。
秦末期の召平
秦末期の召平は項梁に会い、偽って楚の上柱国に任命した話があります。
召平が広陵を攻める
始皇帝死後に胡亥が即位し、宦官の趙高が巨大な権力を握る事になります。
始皇帝の死への反動なのか、陳勝呉広の乱が勃発しました。
この時に、陳勝は張楚という国を建国しますが、召平は陳勝に広陵を落とす様に命じられた話があります。
召平の出身地は広陵であり、地理的に詳しいと見て、陳勝は召平に兵を与え広陵を攻めさせたのでしょう。
召平は広陵を攻めますが、広陵を抜く事が出来ませんでした。
そうこうしている内に、陳勝が章邯により敗走したとする情報が入ってきます。
項梁を楚の上柱国に任じる
召平は広陵にも、章邯ら秦軍がやって来ると聞き、揚子江を渡り項梁の元に向かいました。
召平は項梁と面会し、次の様に述べています。
召平「揚子江の下流域の江東は既に平定したので、早く兵を率いて西の秦を討って貰いたい。」
召平はさらに、陳勝の命令と偽り、項梁を楚の上柱国に任命しました。
項梁は召平の言葉をどこまで信じたのか分かりませんが、8千の兵を率いて西を目指した話があります。
この後に、項梁は陳嬰、黥布などを配下に加えるなど、瞬く間に勢力を拡大させています。
陳勝の死
項梁を楚の上柱国に任命してから、召平の足跡は途絶えます。
この後に、項梁は陳勝が討ち取られた情報をキャッチし、薛で群臣らを集めて会議を行っています。
薛で項梁は范増と出会い、范増の進言により楚の懐王を擁立しました。
召平は陳勝の命令だと偽り、楚の上柱国に項梁を任じていますが、嘘の情報で項梁を任じてしまったわけです。
それを考えると、バレれば問題であり、召平は項梁の元にはいなかったのかも知れません。
この辺りは記録がなく分からない部分でもあります。
蕭何を諫める
史記で二番目に登場する召平は、蕭何を諫めた人物です。
史記の記述を見るに、項梁を上柱国に任命した召平とは明らかに別人となります。
蕭何を諫める
項羽と劉邦の楚漢戦争は、劉邦の勝利で幕を閉じる結果となっています。
紀元前196年に韓信が陳豨に代で謀反を起こさせて、劉邦が討伐に向かった隙に、韓信が長安で反旗を翻す策に出ます。
呂后は韓信の謀反を事前に知り、蕭何に相談すると、蕭何は偽りの情報を流して、韓信を騙し処刑しました。
劉邦は謀反を起こそうとした韓信を蕭何が事前に防いだ事で、蕭何を相国にしています。
さらに、蕭何には五千戸の加増と五百人の警護を付けたわけです。
諸侯は蕭何の功績を祝いますが、召平は次の様に述べています。
召平「これから禍が起こる事は必須です。
劉邦様は野戦や攻城戦で命の危険にさらされたのに、蕭何様は内部を守り矢石の危険がなかった。
それにも関わらず劉邦様が蕭何様に加増し、護衛を付ける様になったのは、淮陰侯韓信の謀反もあり、蕭何様の心を疑っておられるのです。
護衛をつけて蕭何様を守ろうとするのは、寵幸しているわけではなく、警戒しているからです。
願わくば、蕭何様は加増を辞退しお受けにならず、蕭何様の私財を投げ出し、軍に入れるのが良いでしょう。
さすれば、劉邦様は必ずお喜びになられます。」
蕭何は召平の言葉に従い加増を辞退し、私財を投げ出して軍に入れると、劉邦は多いに喜んだ話があります。
劉邦は張良や蕭何などの部下を信頼するイメージがあるかも知れませんが、実際には猜疑心もかなり強いと言えるでしょう。
蕭何は劉邦が項羽と戦っている楚漢戦争の最中にも、鮑生の進言を聴き入れ、一族の大半を軍に入れています。
召平も鮑生と同様に、名宰相と呼ばれた蕭何の命を救った一人と言えるはずです。
秦の役人だった人物
蕭何を諫めた召平ですが、史記の記述を見る限りは別人です。
史記の蕭相国世家の中に、蕭何を諫めた召平に関する記述が存在します。
蕭相国世家によれば、召平は元は秦の東陵侯であり、秦の滅亡と共に庶民となったとあります。
召平は貧乏をし、瓜を長安城の東に植えて育てた話があります。
召平の作った瓜は非常に評判がよく、美味しかったとあります。
召平が秦の時代に東陵侯であった事から、「東陵の瓜」と呼ばれたそうです。
これを見ると、蕭何を諫めた召平は身元がはっきりとしていると言えるでしょう。
最初の召平とは別人
蕭何を諫めた召平は、劉邦が秦王の子嬰を降伏させるまでは、関中にいた様に思います。
蕭何を諫めた召平が関中にいたのであれば、陳勝の為に働く事は出来ないでしょう。
さらに言えば、「秦の滅亡と共に庶民になった。」との記述からは、秦が滅びるまで、秦側の人間だったと読み取る事が出来るはずです。
それを考えると、陳勝配下の召平と蕭何を諫めた召平は、明らかに別人となります。
魏勃に騙された召平
3番目の召平は、呂后の死後に登場しますが、魏勃に騙されて命を落とした話があります。
斉の宰相
呂后が紀元前180年に死去すると、漢の宮廷が荒れる事になります。
呂氏の一族である呂禄や呂産が謀反を起こそうかと考えており、陳平や周勃らは劉氏が権力を再び取り戻せる様に暗躍していました。
長安にいた劉章は、兄の斉王劉襄に呂氏の陰謀を報告したわけです。
この時に、劉襄の元で宰相をしていたのが、召平となります。
劉襄は劉章の報告を受けると駟鈞、祝午、魏勃らと共に挙兵しようと動きました。
召平は斉王劉襄らが兵を挙げるのに反対であり、事を未然に防ごうとしています。
召平は呂氏が送り込んだ、斉を監視する為の人間だったとも考えられています。
召平の最後
召平は斉王劉襄の挙兵を阻止しようとします。
召平は兵を繰り出し、劉襄らが王宮から出られない様にしようとしたわけです。
この時に、劉襄配下の魏勃は、召平に次の様に述べています。
魏勃「斉王は出兵しようとしても、漢朝の虎符がありません。
私に王宮を守らせてはくれませぬか。」
召平は魏勃を信用し、魏勃に兵を与えて王宮を守らせる事にしました。
しかし、魏勃は王宮を守らずに、逆に召平がいる宰相府を囲んだわけです。
召平は自分が騙されたと分かり、次の言葉を述べています。
召平「道家の言葉に『断ずる時に断じなければ禍を受ける』とあるのは、この事だったのか。」
召平は自分の命が助からないと分かり自殺しました。
斉王劉襄らは挙兵し進軍しますが、長安城内で周勃や陳平が呂氏を排除しています。
斉王劉襄は皇帝になる話しも出ますが、結局は劉邦の子である劉恒が漢の文帝として即位しています。
尚、召平を殺害した魏勃ですが、灌嬰(かんえい)が、魏勃に斉王との経緯を尋問すると、魏勃が震えながら答えた話があります。
灌嬰は魏勃の事を笑いながら「くだらない男」と評した話まであります。
召平は同一人物なのか?
3番目に登場し、魏勃に騙された召平ですが、陳勝配下の召平や蕭何を諫めた召平の、どちらかと同一人物なのかは分かりません。
ただし、蕭何を諫言した召平は、蕭何に近い人物だとも感じます。
蕭何は呂后とは沛の時代からの古い付き合いですし、韓信が謀反を企てた時も呂后は蕭何に相談しています。
それを考えると、召平も呂后とは親しく、呂后が政務を執っていた時代に、呂后が監視役として召平を送った可能性もあるでしょう。
しかし、これらはあくまで想像の域を出ませんし、真実は闇の中です。
史記では同様に、戦国時代に趙の将軍で桓齮に敗れて戦死したと考えられる扈輒も、楚漢戦争終了後に彭越の配下として扈輒なる名前が再び登場します。
戦国策においても、唐且が2度登場するなどあります。
古代史をややこしくするのは、召平の様に同じ名前の人物が複数回登場する事にあるのかも知れません。
その点を考えると、韓信と韓王信は本来は同名ですが、分かる様にしてくれてあるのは非常に有難い事です。