春秋戦国時代

秦国の成立と滅亡、秦の統一戦争も解説

2021年4月4日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

秦の年表主な出来事
紀元前771年秦が諸侯として認められる
紀元前624年西戎の覇者となる
紀元前356年商鞅の改革が始まる
紀元前260年長平の戦い
紀元前221年秦の天下統一
紀元前206年秦の滅亡

秦の統一戦争と言えば、春秋戦国時代の末期に始皇帝(政)が、を滅亡させた戦いを思い起こす人が多いかと思います。

しかし、自分の中では、秦の統一戦争といえば、春秋戦国時代の初期に、周の平王を洛陽に入れた、秦の襄公の時代に遡ると考えています。

始皇帝は確かに、6国を滅ぼして、天下統一しましたが、始皇帝が即位した当時は、既に他の6国は弱体化していたわけです。

始皇帝は、弱体化した諸侯を、秦の圧倒的な武力で統一したのであり、始皇帝一代で秦を強国にして統一戦争に勝利したわけではありません。

キングダムのファンはガッカリするかも知れませんが、嬴政(えいせい)は最後の一押しで統一したという事実を、覚えて欲しいなと考えて記事にしました。

尚、春秋戦国時代の地図を見ると、秦と楚はかなりの領域を抑えている様に思うかも知れません。

しかし、秦や楚は肥妖な中原の地から外れていますので、土地の広さの割には生産力がない場合も多かったようです。

逆に、などは、中原の地を抑えている為、領土は狭くても生産力が高かったなども話しもあります。

日本で言えば、出羽国が奥羽山脈の西側を全て押さえているのに、30万石しかなく、尾張国は小さいのに60万石近くあったのと似ているのでしょう。

ここでは、秦がどの様に誕生し、統一戦争を成し遂げていったのか解説します。

因みに、秦の滅亡は紀元前206年に劉邦に秦の首都咸陽を落とされ、項羽により秦王子嬰が斬られた事で滅亡しました。

尚、画像は上記の動画を使っておりますが、夏王朝から秦の統一まで視覚的に分かる様になっております。

伝説の時代

史記の秦本紀によれば、秦の祖先は五帝に一人である、顓頊の子孫だとあります。

顓頊の孫には、女脩がおり機織りをして生計を立てていました。

玄鳥(つばめ)が卵を落として行ったので、女脩が飲み込むと妊娠し大業を生む事になります。

大業は小典の娘である女華を娶り、大費を生みます。

大費は帝瞬の時代であり、大費は夏王朝の始祖とも言える禹を助けた事で功績がありました。

瞬は大費に嬴氏の姓を賜うた話があります。

これが嬴氏の始まりとされています。

ただし、この頃の嬴氏は諸侯として君臨していたわけではありません。

殷の時代

嬴氏の祖先としては、殷の紂王に仕えた蜚廉と悪来は有名です。

蜚廉は足が速く、悪来は怪力無双の者だった話があります。

ただし、蜚廉と悪来は親子で讒言を好み、最後は周の武王により殺害されています。

尚、三国志で曹操に仕えた典韋は「悪来」の異名を取りますが、典韋の力が余りにも強かった事から悪来と呼ばれたわけです。

蜚廉も悪来も亡くなりますが、蜚廉には季勝なる子がおり、季勝の子である孟増は周の成王に気に入られた話があります。

西周王朝の時代

秦の先祖としては、周の穆王の時代に造父がいた事は有名です。

造父は馬を巧みに扱い周の穆王を助けた話があります。

周の穆王が持っていた名馬である穆王八駿とも関係しているのでしょう。

周の穆王の時代は、各地に遠征した話があり、徐の偃王の乱にも造父が御者として参加した記録があります。

尚、造父は秦の祖というだけではなく、戦国七雄に数えられたの子孫でもあります。

秦は焚書坑儒などを行いましたが、趙の歴史書は残り司馬遷が手にする事が出来た話しもあります。

造父から別れた趙の子孫としては、趙衰がおり、春秋五覇の一人に数えられる重耳に仕えた事で有名です。

周の孝王の時代に非子がおり、秦の地に封じられ秦嬴を号しました。

非子は嬴氏の祭りを行っており、ここから嬴姓が始まったのでしょう。

秦は西方におり、西戎らと激闘を繰り広げられていたとも考えられています。

非子の時代から秦は発展したとも言えるはずです。

秦の襄公が諸侯に認められる

(上記の勢力図は紀元前770年)

秦が正式に諸侯になったのは、周の幽王が犬戎に殺害されてからです。

周の幽王は、褒姒を喜ばすためにオオカミ少年と化し偽りの狼煙を上げ続け、諸侯の信頼を失い申公や犬戎に攻められて、驪山(りざん)の麓で殺されています。

この時に、周の幽王の子である宜臼(ぎきゅう)は、母方の実家である申にいました。

周王朝の首都である鎬京は、犬戎に壊滅されてしまったわけです。

申の国に晋、衛、鄭、魯、秦などの国々が集まり、宜臼を周の副都であった洛陽に入れる事にしました。

宜臼を洛陽に入れるための、連合軍の中に秦の襄公もいました。

秦は、周王朝の配下の諸侯の一人ではありましたが、西方の野蛮な民族とも見られていた歴史があります。

秦の襄公は、ここで陣頭に立ち敵を蹴散らし、宜臼を洛陽に入れるのに大活躍したわけです。

これにより秦は正式な諸侯として、周王に認められています。

宜臼は、周の平王となりますが、周王としての力はほとんどなく、諸侯の争いを止める力も、ほとんど持ちませんでした。

ここに春秋戦国時代が始まるわけです。

尚、正確に言えば、周の王子である余臣も携王を名乗り、二王朝並立時代にもなったわけです。

携王には虢(かく)などの諸侯が味方しています。

私は、秦の襄公が諸侯に認められた事が、秦の統一戦争の始まりだと考えています。

その後の、秦は徐々に領土を拡大していく事になります。

穆公が覇者となる

(上記の勢力図は紀元前624年)

春秋戦国時代になると、覇者と呼ばれる有力な諸侯が出て来ます。

斉の桓公、晋の文侯などが代表的な人物です。

春秋五覇と呼ばれる人たちの時代になるわけですが、春秋五覇は書物によって、メンバーが変わってしまい一概に、誰が春秋五覇のメンバーだとは言えない部分もあります。

しかし、斉の桓公と晋の文侯だけは、必ず春秋五覇に入ります。

春秋五覇の中に、秦の穆公が入る事もあります。

秦の穆公は、戎を討ったりして、秦の領土を大きく広げています。

さらに、晋の重耳を援助したりもしているわけです。

しかし、重耳(文公)が晋の君主をしている間は、歴史の主役は重耳に譲っています。

穆公は領土も大きく広げましたし、百里奚(ひゃくりけい)、由余などの賢臣も登用しました。

しかし、秦の穆公が亡くなると、殉死者が100人以上出てしまい、その中には有能な臣下も多く含まれていたわけです。

その事から、秦は弱体化してしまいました。

その後も、秦は代が変わるごとに殉死者が多く出た為に、強国に発展する事が出来ませんでした。

秦の統一戦争を全体で考えれば、殉死が多かった事は、秦にとっては不利になったはずです。

当たり前ですが、後に秦は殉死を禁じています。

商鞅と法治国家

(上記の勢力図は紀元前338年)

秦は、穆公以降は、中華の中でも目立たない存在でした。

強国ではあったようですが、晋がに分裂して戦国時代が始まると、魏に圧迫され始めます。

魏の文侯は、呉起を用いて、秦の河西の土地を奪っています。

戦国時代の初期は、魏が最も強勢で秦は、領土を奪われてしまったわけです。

しかし、秦の孝公の時代に、商鞅が宰相となると、大改革を行い法治国家へと生まれ変わらせています。

さらに、商鞅は将軍となり、詐術は使いましたが、魏に大勝しています。

魏はにも敗れたために、最強国の座から滑り落ち、これ以降は秦に領土を奪われていきます。

商鞅の法治主義の考え方が、秦に根付き強国となっていくわけです。

商鞅は孝公がなくなると、跡を継いだ恵王に殺されてしまいますが、商鞅が作った法律は継承される事になります。

商鞅の変法と呼ばれたりする事もありますが、秦を強国にするのに、大いに役立ったわけです。

商鞅の政治は、韓非子李斯、嬴政(始皇帝)なども多いに参考になった事でしょう。

キングダムでは、嬴政が法律で国を治めると言っていますが、史実では200年以上前に、商鞅がそういう事をやっている事になります。

張儀と合従連衡

秦の恵王の時代に、張儀が宰相になっています。

張儀は、合従連衡で有名な人物で、連衡を説いたわけです。

張儀は、諸侯に土地を割かせて秦を豊かにしています。

さらに、キングダム(春秋戦国時代を題材に書かれた漫画)では秦の六将の一人になっている司馬錯が蜀の地を得るなど、着実に領土を広げたわけです。

張儀は、かなり詐術も使った人物で、楚の懐王は特に振り回されています。

尚、合従の祖である蘇秦は、張儀とライバルにされる事もありますが、時代が違っているなど指摘される事も少なくありません。

恵王の時代に活躍した張儀ですが、秦の武王が即位すると、讒言されてしまい魏に出奔しています。

遠交近攻と白起の快進撃

(上記の勢力図は紀元前257年)

秦の昭王の時代になると、前半は魏冄(ぎぜん)が宰相になっています。

この時代は、魏冄白起を用いて、などから大きく領土を奪っています。

秦の昭王の前半は、秦との二強時代になっています。

秦と斉で東帝・西帝を名乗った事もありました。

しかし、斉の湣王(びんおう)は、燕の昭王の恨みを買い外交で孤立し、楽毅率いる・秦・韓・魏・趙の合従軍に敗れています。

斉は燕に奪われた領地を、斉将田単が回復していますが、国力が大きく落ちてしまい、これ以降は秦の一強時代に突入します。

尚、戦国時代の中期は、趙は武霊王がいて胡服騎射を取り入れたり、廉頗が武将として活躍したり、藺相如が外交で秦の昭王を圧倒するどもありました。

他にも、戦国四君である孟嘗君が秦を攻めて、函谷関を抜くなどもあった時代です。

諸子百家と呼ばれる遊説家がいて、合従連衡など様々な説を言う人がいた時代でもあります。

秦の昭王の中期以降になると、范雎が宰相となり、遠交近攻を秦の基本戦略としています。

近隣の国を攻めて、遠くの国と同盟を結ぶ戦略です。

遠くの国と交わる事で、攻撃中の国の後方を脅かしてもらい、戦力を分散させる方向に秦はシフトしていきました。

范雎が宰相になっても、引き続き白起は将軍を続けています。

白起は、趙の趙括長平の戦いで破り、趙兵40万を生き埋めにしてしまいました。

この後に、范雎が趙と講和を結んだ事で、白起と范雎は不和になっています。

秦の将軍である王齕が、趙の都邯鄲を囲み趙は滅亡寸前まで行きましたが、魏の信陵君、楚の春申君の援軍により、撤退を余儀なくされています。

尚、范雎ですが、自分が推挙した鄭安平や王稽が失敗した事で、宰相の印綬を秦の昭王に返す事になりました。

余談ですが、秦の昭王の後期に、周王朝を摎(きょう)が滅ぼしました。

これにより700年続いた周王朝が滅亡したわけです。

秦の昭王が亡くなると、秦の孝文王が即位しますが、服喪後に僅か3日で亡くなり、荘襄王が即位し、荘襄王も3年で亡くなっています。

荘襄王が死去した後に、秦王になったのが嬴政であり、後の始皇帝です。

秦王政(嬴政)が即位

秦王政(嬴政)は、即位しますが、子供だった事もあり政治は呂不韋が取り仕切っています。

呂不韋は、商人でしたが、荘襄王(嬴政の父親)を即位させるのに、絶大な功績があったからです。

この時代になると、戦国七雄と言っても、秦だけが圧倒的に強く、残りの六国は弱小国となっています。

嬴政は、嫪毐の乱などの内戦もありましたが、呂不韋が失脚し、国内がまとまると天下統一に邁進を始めています。

戦国四君の最後の一人である春申君は、合従軍()を率いて、秦を攻めますが、函谷関の戦いで撃退されています。

同様に、龐煖(ほうけん)も蕞を攻めていますが、落とす事が出来ずに撤退しています。

春申君の函谷関の戦いも龐煖の蕞の戦いも結果を見れば失敗に終わった事になるのでしょう。

これが最後の合従軍であり、これ以降は秦が六国の領土を奪う為の戦いとなり、他国は次々に領地を奪い取られていくわけです。

この時代になると、秦に対抗できる将軍は、趙の李牧と楚の項燕位しかいませんでした。

韓が滅亡

(上記の勢力図は紀元前231年)

戦国七雄の中で、最初に滅亡したのがです。

秦の国費を戦争に向かわせないために、鄭国などの技術者を秦に入れた話などもあります。

韓の末期は秦の属国状態でもあり、秦に対して奉仕しなければ、いけない立場でした。

しかし、奉仕するにもお金がなくて、韓王の後宮の美女たちを全て、秦に売り払い、そのお金で秦に奉仕した話が残っています。

ただし、後宮の美女たちは、韓に売られた事で恨みを持ち、秦に対して韓を悪く言った話も残っています。

韓非子が法治国家に改革するように、韓王に進言しますが却下されています。

ただし、秦王政は韓非子が書いた書物を見ると大いに気に入り、策略を用いて韓非子を秦に連れてきました。

秦王政は韓非子を気に入り、国を任せようともしましたが、同門の李斯により毒薬自殺しています。

韓非子が死に3年後に、秦の内史騰が韓を攻めて、新鄭が陥落し滅亡しています。

その後に、韓の元貴族たちが、新鄭で反乱を起こしましたが、鎮圧されています。

韓の貴族が反乱を起こした年に、昌文君が死に、昌平君が出奔しているわけです。

韓の貴族の反乱と何かしら関係している可能性もあるでしょう。

尚、韓の宰相をしていた家から、張良が出ています。

張良は、陳平と共に漢の高祖劉邦の軍師となり、秦を滅ぼすのに大いに活躍しています。

余談ですが、張良、蕭何韓信の三人が漢の劉邦の天下統一に最も役立った臣下となり、漢の三傑と呼ばれる事もあります。

趙の滅亡

秦は韓を滅ぼすと、ターゲットをに向けます。

趙は武霊王の頃がピークでしたが、恵文王の頃には廉頗、藺相如、趙奢、田単、楽毅などの優れた人材が多くいました。

他国のS級の優秀な人材も、趙に集まって来たような状態です。

しかし、孝成王の時代に長平の戦いで、白起に大敗し40万が生き埋めにされて国力を大きく落としました。

都である邯鄲も囲まれていますが、平原君などの活躍により凌いでいます。

趙の悼襄王の時代に、鄴(ぎょう)を秦に落とされてしまい、国土は大きく縮小しています。

ただし、趙には名将李牧がいて、桓騎(かんき)を破るなどの活躍もあったわけです。

李牧は宜安の戦い肥下の戦い番吾の戦いで秦軍を相手に連勝し、秦の首脳部を大いに悩ませる事になります。

その後、秦の王翦(おうせん)楊端和(ようたんわ)羌瘣(きょうかい)らが趙を攻めています。

趙の幽穆王は、秦軍を何度も破った、李牧と司馬尚に防がせています。

しかし、秦は幽穆王の寵臣である郭開を買収して、李牧と司馬尚が謀反を企んでいると、幽穆王に讒言したわけです。

これにより李牧は、幽穆王に殺されてしまい、司馬尚は庶民に落とされています。

代わりに、幽穆王は趙葱顔聚を将軍に任命しますが、王翦に敗れて趙の都邯鄲は陥落しました。

ただし、趙嘉が代に逃れて、代王嘉となっています。

代もと共闘しましたが、燕が滅びた紀元前222年に滅ぼされています。

魏の滅亡

(上記の勢力図は紀元前227年の段階)

は、荘襄王の末年に、信陵君が魏・・楚・燕の合従軍を率いて、黄河の外で秦の蒙驁(もうごう)を破っています。

信陵君がいれば、秦は天下統一など出来ないと考えて、魏の安釐王(あんきおう)と信陵君の離間策を取っています。

離間策が功を奏し、安釐王は信陵君を上将軍から解任してしまいました。

その後、信陵君が酒浸りで亡くなってしまうと、蒙驁に命じて魏の東部を奪っています。

この時に、秦は東郡を設置し、秦の領土は西の斉と隣接するまでになったとされています。

これにより魏は、秦に対抗できる要素を失ってしまうわけです。

その後、次々に領土を奪われて、最後は王賁(おうほん)が魏の首都である大梁を水攻めで落としています。

魏王仮が降伏した事で、魏は滅亡しました。

尚、秦末期に秦に背いた「魏咎、魏豹」は、魏の王族の子孫です。

さらに、漢の文帝(劉邦の子)の母親である薄太后は、魏王家の出身だと言われています。

楚の滅亡

(上記は紀元前223年の勢力図)

は春秋時代からの大国です。

春秋五覇にも数えられる、楚の荘王の時代は中華で最強の国でした。

しかし、戦国時代に入ると、貴族の数が多かったり、国として統制が取れなかったようです。

から呉起が亡命してくると、楚の悼王は宰相に任じています。

呉起は、楚を改革して強国に変えようとします。

楚を法治国家にしようとしたわけです。

さらに、自らは将軍となり他国の領土を奪ったりもしています。

しかし、悼王が亡くなると、呉起は楚の貴族たちに殺されてしまいました。

秦は商鞅が死んでも、法律は残りましたが、楚は呉起が亡くなると、呉起の作った法律も消えてしまう事になります。

これにより楚は振るわなくなってしまったと言われています。

その後は、楚の懐王が張儀に騙されたり、頃襄王の時代に首都である郢を秦の白起により陥落されています。

考烈王の時代に、春申君が宰相となり、一時的に復興した話もありますが、合従軍を率いて函谷関で破れると、考烈王からも疎まれる様になりました。

考烈王が亡くなった時に、春申君はかつて、食客であった李園に暗殺されています。

秦の李信蒙恬が攻め込んでくると、項燕が将軍となり一度は破っています。

しかし、秦の王翦と蒙武が、60万の軍勢を引き連れて攻めてくると、項燕は王翦の策に嵌り大敗を喫しました。

項燕は、かつて秦にいて頭角を現した昌平君を楚王とし、抵抗しますが、王翦や蒙武を防ぐことは出来ませんでした。

これにより楚は、滅亡しています。

この時代は燕やは弱小国ですから、楚が滅亡した時点で、秦の統一は確実となりました。

秦の統一戦争も完全に終わりが見えて来た状態です。

ただし、秦の人々は楚にかなり恨まれるような事をしてしまったようで、「楚が三家になろうと、秦を滅ぼすのは楚なり」と言ったとされています。

実際に、秦が滅亡のきっかけとなる陳勝呉広の乱の陳勝や呉広は楚人ですし、漢帝国を作った劉邦も楚人です。

さらに、秦を滅ぼした項羽は、項燕の孫ですし、本当に秦を滅ぼしたのが楚となりました。

ただし、「秦を滅ぼすのは楚なり」は、後付けの話と言う説もあります。

燕の滅亡

燕は昭王の時代がピークでした。

名将楽毅の活躍で、斉を壊滅状態にしてしまったわけです。

しかし、楽毅が斉を滅ぼす直前で、燕の昭王が亡くなってしまい、恵王が即位します。

恵王は楽毅を嫌っていた事もあり、騎劫(きごう)に将軍を変えようとしました。

楽毅は身に危険を覚えて、に亡命しました。

その後、斉の田単がに攻勢をかけ、楽毅が奪った城を全て奪い返しています。

燕の恵王は、公孫操により暗殺されてしまい、武成王や孝王が続きますが、実績もよく分かっていません。

燕王喜の代になると、宰相の栗腹の進言により60万の大軍で趙を攻めますが、廉頗により大敗しました。

さらに、廉頗に燕の国都である薊を囲まれたり、散々な目にあっています。

後にも、李牧や龐煖に攻められた記述もあります。

政(秦王)と燕の太子丹は、趙に人質時代に共に遊んだ仲だったのですが、太子丹が秦に人質に行くと政は冷遇します。

これを恨みに思った太子丹は、勝手に帰国してしまいました。

その後、秦は趙を滅ぼすわけですが、秦の危害が燕に加わると恐れた太子丹は、荊軻を刺客とし、嬴政に送り付けたわけです。

荊軻は刺客となりますが、失敗して秦で命を落としています。

この話は、史記の刺客列伝にもあるお話です。

怒った政は、大軍を燕に送り付けて滅ぼしているわけです。

最後は、遼東に逃亡した燕王喜を捕らえて燕を滅亡させました。

これが紀元前222年の話です。

これにより、秦は中国の北東も支配下に置き、秦の統一戦争は、あと一歩となったわけです。

残っている国は、斉しかありません。

斉の滅亡

は秦と友好を結び合従軍にも加わらなかった事で、他国に比べると平和でした。

キングダムでは、斉王建と秦王政の間で、秦斉秘密同盟があった事になっています。

しかし、実際に秦斉同盟があったのかは、史実に書いてないので分かりません。

司馬遷が書いた史記によると、秦がを滅ぼすと、斉は秦との連絡を絶ったと言う事になっています。

李信、蒙恬、王賁の3人が斉に攻め込むと、戦わずに降伏したようです。

特に抵抗する事もなく、斉は滅亡したとされています。

これにより、秦の統一戦争は完結したわけです。

秦は統一後わずか15年で滅亡

秦は6国を併合すると、秦王政(嬴政)は始皇帝となります。

中華が一つの国になった事で、始皇帝は六国でバラバラであった文字を小篆で統一しました。

他にも、度量衡の統一などを行い政治を円滑に行おうとしたのでしょう。

始皇帝は李斯を宰相として任じ、宦官趙高なども可愛がっていたようです。

ただし、始皇帝は統一後も、法令を緩める事はなく、過酷な政治を行う事になります。

蒙恬に命じて万里の長城を作ったり、北方の匈奴に30万の大軍を送り打ち破っています。

さらに、阿房宮を作り人民を酷使したとされています。

それを諫めた長男の扶蘇は、北方の蒙恬の所に行かされる事になりました。

始皇帝は不老不死に憧れたりしたり、焚書坑儒を行うなど、暴走を始める事になります。

始皇帝も50歳を超えると体調が悪くなりますが、巡幸に向かい、その道中で崩御しています。

始皇帝は長男である扶蘇を、後継者にしようとします。

しかし、趙高、李斯、胡亥が結託して、偽書を作り胡亥が跡継ぎとなりました。

胡亥は二世皇帝になりますが、政治は趙高に任せっきりにして、自分は遊び惚けていたとされています。

趙高が秦の重臣の粛清を始めて、蒙恬、蒙毅、李斯などを誅しています。

さらに、秦の公子たちも殺害を始めて、趙高に逆らえる人物はいなくなったわけです。

しかし、始皇帝死後に陳勝呉広が反乱を起こすと、秦の政治に反発した者たちが次々と反乱を起こします。

鎮圧の為に、秦の章邯(しょうかん)が囚人兵を率いて、反乱軍を大いに破ります。

しかし、張耳や陳余がいる鉅鹿の戦いで、王離(王翦の孫)が、項羽に敗れると流れが完全に変わります。

その頃、秦の方では趙高が二世皇帝を殺害し、子嬰(しえい)を王位に就けようとしていました。

子嬰は、趙高をおびき出して誅殺しています。

子嬰は皇帝は名乗らずに、秦王を名乗りますが、時すでに遅く劉邦に武関を破られて降伏しています。

さらに、項羽が到着すると子嬰を処刑して、これにより秦は滅亡したわけです。

秦は天下統一後に、わずか15年で滅亡しました。

始皇帝が死んでからは、わずか4年で滅んだわけです。

それを考えれば、500年にも及ぶ秦の統一戦争は何だったんだ?となってしまいますが、これが史実だと言えます。

秦の統一戦争は時間が掛かりましたが、滅びるのは呆気なかったと言えるでしょう。

趙高が秦の蒙恬や李斯、蒙毅、公子たちを皆殺しにした事で、骨のある臣下がいなくなり、秦は滅亡を早めたと言えるでしょう。

戦国時代末期には、圧倒的な強さを誇っていた秦ですが、腐敗した秦では話にならなかったようです。

これが秦の統一戦争と滅亡の全貌となります。

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