朱淵は正史三国志の袁渙伝の注釈・魏書に名前が登場する人物です。
しかし、朱淵に対して分かっている事は極めて少なく、友人とされる呂岐に殺害された記録があります。
朱淵は爰津と共に処刑されますが、この時の呂岐の態度が苛烈だったのか人々からは同情が集まった話もあります。
ここで袁渙が孫徽を諫めた事で、朱淵を殺害した呂岐は処罰されずに済んでいます。
今回は袁渙伝にほぼ名前だけの登場人物となりますが、朱淵を解説する様にしました。
呂岐に呼び出される
魏書の記述によれば、朱淵は留学していたとあります。
留学するにも費用が必要であり、それを考えると朱淵は名士層の人間だったのかも知れません。
ただし、劉備などは名士ではありませんが親戚の劉元起が、盧植の私塾に入れる為の留学資金を出していた話があります。
それを考えると朱淵にも劉備程ではありませんが、何らかのバックアップがあり留学するだけの資金があったのでしょう。
朱淵は留学していたわけですが、同郷で友人の呂岐が留学先の朱淵に戻って来るように連絡を入れたわけです。
呂岐の連絡を受けた朱淵は帰郷し、呂岐と会う事となります。
師友祭酒を断わったら・・。
朱淵は帰郷したわけですが、この時の呂岐は穀熟の県長をしていました。
呂岐は朱淵だけではなく、友人の爰津も呼び寄せていたわけです。
呂岐、朱淵、爰津は友人だったらしく、昔話に花を添えたのかも知れません。
ここで呂岐は何を思ったのか、朱淵を師友祭酒に任命し、爰津を決疑祭酒に任命しました。
呂岐にとってみれば、朱淵と爰津は気心が知れた仲間だと思っていたのか、自分にとっての飛車角の様な存在になってくれればと思ったのかも知れません。
しかし、呂岐の師友祭酒の任命に対し朱淵は家に帰ってしまい、爰津も同じ態度を取ったわけです。
呂岐は朱淵や爰津が自分に協力してくれると思っていたのか、裏切られた気分でいっぱいになったのか、逆上し官吏や民衆を引き連れて逮捕に向かいます。
朱淵や爰津は呂岐に逮捕されると、杖で殴られ殺害されてしまいました。
官職の任命を断わっただけで、朱淵らは殺害されてしまった事で、世間の同情が集まったのか、呂岐を罰しようとする動きが出て来たわけです。
しかし、袁渙が主簿の孫徽を諫めた事で、呂岐は弾劾されずに済んだ話があります。
袁渙の主張としては、呂岐が朱淵らを殺害した事ばかりに目が行っているが、朱淵らが任命を断わった理由も追及するべきだと述べた為です。
それを考えると朱淵らの断り方も酷い部分があったのかも知れません。
しかし、朱淵の師友祭酒を断わっただけで杖で殴られ命を落とすのは、残念な最後だと言わざるを得ないでしょう。